鹿が清水を慕いあえぐように…

アメリカに端を発した金融危機は、欧米で銀行間短期市場がほぼ途絶するなど、貨幣恐慌の様相を呈してきました。

ということで、あらためて貨幣恐慌について、マルクスがどんなことを言っていたか、ふり返ってみました。

と言っても、マルクスが『資本論』のなかで直接貨幣恐慌に言及している箇所は少ない。第1部の第1篇第3章「貨幣または商品流通」第3節「貨幣」b「支払手段」の次の一節ぐらい。あとは、第3部の第1篇「剰余価値の利潤への転化」第6章「価格変動の影響」第3節「一般的例証――1861?1865年の綿花恐慌」に出てくるぐらい。しかし、後者は、事実として貨幣恐慌に触れただけで、理論的な検討は第1部の箇所だけだと思います。

  • 支払い手段としての貨幣の機能は、1つの媒介されない矛盾を含んでいる。諸支払いが相殺される限り、貨幣はただ観念的に、計算貨幣あるいは価値尺度として機能するだけである。現実の〔貨幣による〕支払いが行なわれなければならない限りでは、貨幣は、流通手段として、すなわち、素材変換のただ一時的媒介的な姿として登場するのではなく、社会的労働の個別的な化身、交換価値の自立的な定在、絶対的商品として登場する。この矛盾は、生産恐慌・商業恐慌中の貨幣恐慌と呼ばれる時点で爆発する(原注99)
  • 貨幣恐慌が起きるのは、諸支払いの過程的な連鎖と諸支払いの相殺の人為的制度とが十分に発達している場合だけである。
  • この機構の比較的全般的な攪乱が起きれば、それがどこから生じようとも、貨幣は、突然かつ媒介なしに、計算貨幣というただ観念的なだけの姿態から硬い貨幣に急変する。それは、卑俗な商品によっては代わりえないものになる。商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態を前にして姿を消す。
  • つい先ほどまで、ブルジョアは、繁栄に酔いしれ、蒙を啓くとばかりにうぬぼれて、貨幣などは空虚な妄想だと宣言していた。商品だけが貨幣だ、と。ところがいまや世界市場には、貨幣だけが商品だ! という声が響き渡る。鹿が清水を慕いあえぐように、ブルジョアの魂も貨幣を、この唯一の富を求めて慕いあえぐ
  • 恐慌においては、商品とその価値姿態である貨幣との対立は絶対的矛盾にまで高められる。それゆえまた、この場合には貨幣の現象形態はなんであろうとかまわない。支払いに用いられるのが、金であろうと、銀行券などのような信用貨幣であろうと、貨幣飢饉は貨幣飢饉である。
  • (マルクスの原注99) 本文ですべての全般的生産・商業恐慌の特殊的局面として規定されたこの貨幣恐慌は、同じく貨幣恐慌と呼ばれるが、自立的に生じうる、したがって商工業には反作用的にのみ作用する特殊な種類の恐慌とは、はっきり区別されなければならない。後者は、貨幣資本を運動の中心とし、それゆえ銀行、取引所、財政金融界をその直接の部面とする恐慌である。
    (『資本論』新日本新書<1>、233?234ページ)

いま起きていることは、まさに「鹿が清水を慕いあえぐように」、貨幣(ドル)を求めて慕いあえいでいる姿ではないだろうか?

「金融工学」などという怪しげな手法で、膨れあがっていた金融バブルが崩壊し、架空資本が価値破壊されるまで、この苦しみは続くに違いない。そして、前にも書いたように、その価値破壊によって、大資本、投機資本家たちが苦しむ分には、まったく関心がない(バブルでおいしい目を見ていたのだから、苦しんで当然)。

しかし、それが実体経済に跳ね返ってくると、景気悪化のしわ寄せを食らうのは、労働者であり、中小零細企業、あるいは地方経済ということになる。それについては、無関心ではいられない。しかし、対症療法的なやり方では、おそらくうまくいかないだろうし、景気落ち込みのスピードに追いつかないだろう。

だから、どのような形で過剰資本の価値破壊がすすめば、もっとも労働者や中小企業、地方経済に痛みが少ないかたちですませることができるか。それを考える必要があるのではないだろうか。

貨幣恐慌が一般化して、銀行取付騒ぎが起こるようになれば、国民にも大きな痛みがもたらされる。しかし、だからと言って、価値破壊を抑えたのでは、苦しみを引き伸ばすだけになる。価値破壊はすすませないと、資本主義の“健全な”復元力は発揮されない。それだけの価値破壊を進行させつつ、国民にしわ寄せされることのないようなやり方とは、いったいなんだろうか?

そういう視点から考えたとき、貨幣恐慌と、バブル崩壊・信用破壊とは、どういう関係になるのか。もう少し考えてみる必要がありそうだ。

もう1つ。いま問われているのは、従来からの「貯蓄から投資へ」という経済の金融化・証券化を続けながら、その枠内で今回の混乱に対処するのか、それとも、従来の経済の金融化・証券化の政策そのものが今回の金融危機をもたらしたとして、従来の政策を見直して、政府が金融化・証券化の動きから投機バブルが起こるのをチェックできるようにするのか、という選択だろう。

しかし、政府任せでは、当面の緊急対処のあげく、結局、さらにいっそう金融化・証券化をすすめるような施策がとられることは明らかだろう。当面の対処策でも、金融化・証券化の動きにたいするスタンスが厳しく問われているのだと思う。

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