現在の世界的な金融不安に関連して、あらためてこの間の「金融理論」の是非が問われている。
最近の「日本経済新聞」に載ったいくつかの論評から、それを拾ってみた。「100年に1度あるかないかの変革期」かどうかはともかく、この間のビジネスモデル、金融理論そのものを根本から考え直す必要があるのは、その通り。
いずれにせよ、私たちはいま、本当に100年に1度あるかないかの金融危機、終わってみればドルが基軸通貨でなくなっているかも知れないような金融危機に踏み入ろうとしている…、のかも知れない。
【一目均衡】現在価値革命の暴走と挫折
[日本経済新聞 2008/10/07付朝刊]
特別編集委員 末村 篤
投資銀行のビジネスモデル崩壊の教訓は、高レバレッジ(負債によるテコの原理)経営の失敗だけではない。投資銀行が担った金融文化の特徴は、あらゆる資産を市場取引の対象とするために、価格を時価で評価する会計思想である。市場価格がないものにまで「時価」を付ける「現在価値革命」の暴走と挫折が、投資銀行を葬り去った。
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現在価値革命は、資産価値を過去の費用や利益の積み上げではなく、将来収益の割引現在価値で認識し、すべての金融取引に適用する金融文化を指す。会計上の資本概念は、払込資本に内部留保を加えたものから、時価評価後の資産から負債を引いたものにコペルニクス的転換を遂げた。
1996年のグリーンスパン米連邦準備理事会議長の「根拠なき熱狂」発言は、「株価が妥当ならば会計情報は企業価値を表していない」という問題提起と表裏だった。「ビル・ゲイツの脳みそはマイクロソフトのバランスシートに載っていない」という議論だ。
計測できないものも計測し、時価を利用し尽くす欲求は、80年代以降の金融資本主義に由来する。ストックオプション(株式購入権)で賃金を払い、自社株買いで現金配当に代え、株式交換のM&A(合併・買収)を活用すれば、株は通貨の代替手段になる。株の交換価値は時価、企業の予想収益の割引現在価値であり、高いほど歓迎された。
「株式本位制」は企業を金融商品として扱う極端なM&A文化に発展する。年金などの機関投資家が短期投資家に変身、企業の切り売りでもうける解体屋的投資家も現れ、取引に商機を求める投資銀行の利害と一致した。「市場の要請」の名の下で、進行したのが現在価値革命といえる。
IT(情報技術)株バブル崩壊で、2000年代は証券化商品の時代となる。住宅ローンなどを原資産とする資産担保証券を分解・合成した金融商品の価格(時価)は金融工学がはじき出した理論値にすぎない。計算の前提が狂い、価格に疑問が生じれば、市場は消滅し価格も消える。会計、格付け、保険などの現在価値革命を支える近代装備は規律の緩みを促した。
米金融安定化法は「時価会計凍結」を盛り込んだ。批判は簡単だが、そもそもの価格(評価)に問題があったのだ。自己資本規制との相乗効果で実体経済への悪影響を考えれば、やむを得まい。行き過ぎた市場主義の問題の根は深い。□ ■ □
03年に東京で聞いた井尻雄士・カーネギーメロン大学教授(元米会計学会会長)の講演を思い出す。井尻教授は、市場が要求する予測と評価を大胆に採り入れた会計の流れを批判し、実測会計と予測会計の分離を提唱した。主観に基づく会計は恣意(しい)的な操作に流されがちで、利益を先取りし、後は野となれ、になりかねない。投資銀行の消滅で始まる金融文化の見直しでは、高レバレッジ経営とともに現在価値革命の修正が課題になる。
【大機小機】過剰流動性という怪物
[日本経済新聞 2008/10/07付朝刊]
未曽有の金融危機に世界が揺れている。乱気流を読み解くカギは過剰流動性だ。混乱の遠因をたどると2000年のITバブルと、米同時テロ後の金融緩和で生じたカネ余りに行き着く。過剰流動性は米国の住宅や資源、新興国株式などに流れ込み「バブルの飛び火」が起きた。
上がりすぎた米住宅価格が下げ始めた後に原油高騰に弾みがついたのも、行き場を失った過剰流動性が消去法的に原油市場に流れ込んだためだ。日本株のバブル崩壊が1990年に始まった後、不動産がしばらく命脈を保ったのと同じ現象だ。原油市場はおカネの緊急避難先となったにすぎず、実需とかけ離れた金融相場は早晩収束する運命だった。
原油の調整は好ましいことだが、深刻なのは過剰流動性の受け皿がついに見当たらなくなったことだ。何かが下がっても別の何かが上がれば埋め合わせがきく。だが夏場以降、バブルの飛び火が途切れ、すべてが同時にしぼむバブル崩壊ドミノが始まった。世界経済の減速で上げシナリオが描ける市場が消えたのだ。
問題は下落のペースと幅をどこまで抑制できるかだ。金融波乱を放置したままでは思わぬ急落を招きかねない。
残念ながら、ようやく成立した米金融安定化法の実効性には疑問符がつく。不良債権買い取りは金融機関の債務超過を表面化させるし、当事者責任を厳しく求めている点も実際の運用には障害になる。
そもそも米国は中央銀行の力に頼りすぎている。資金供給は緊急輸血にすぎず、病巣に直接働きかける力はない。一方で膨大な資金供給は再びカネ余りを招き、資産バブル(通貨価値下落)の温床となる。一時しのぎが制御不能の怪物をつくる繰り返しだ。このままでは21世紀の世界は、物価も成長率も資産価格も、過剰流動性の人質となってしまう。
バブル崩壊は金融機関の資本不足に帰着する。資金供給で急場をしのいだら、一刻も早く公的資金を注入し、政策を総動員してでも問題を根治すべきだ。対応を誤れば、かつての日本のようにデフレと流動性のワナにはまり、出口を見失うことになる。
小泉?竹中改革に学んだはずの米国は、今のところ日本が経た試行錯誤を早送りビデオのように繰り返しているだけだ。バブルは人間の知恵を超えた自然現象か。カネ余りとどう付き合い、飼いならすか正念場である。(六光星)
【大機小機】危機が促す金融制度の大変革
[日本経済新聞 2008/10/09付朝刊]
世界各地の株価は米金融安定化法の成立にもかかわらず大幅に下落している。8日の日経平均株価は過去3番目の下落率となった。安定化策の実際の運用や、住宅価格の一層の下落など、この先も多くの困難と混乱が続くと予想される。世界の実体経済への悪影響も不可避だろう。
金融制度はどの国でも何十年かに1度の危機が生ずるたびに大きな変革を経てきた。今回は100年に1度あるかないかの変革期である。何年続くか分からないが、危機が落ち着いた先にはどんな金融制度が待っているのだろうか。
前回の金融制度の大変革は1930年代の大恐慌のときである。その際の経験を経て、銀行と証券を分離する金融制度が成立した。現在では実体的には銀行と証券の相違は消滅している。市場は一体化したが、規制はなお銀行と証券ごとに別個だった点が今回の危機の一因である。
現に米国では既に大規模証券会社は消滅した。このため金融規制は銀行規制に統一されていくだろう。
結局、すべての金融機関により明確に自己資本が要求されるようになるだろう。そこで問題は、子会社の連結制度である。連結基準があいまいなままでは真の自己資本は定義できない。子会社や流動性供給、保証契約など、簿外の契約をどのように資産として評価するかも課題になる。
市場の評価に基づく会計基準でさえ揺らいでいるのが現状だ。どのような評価基準を用いようが、簿価での正確な自己資本評価は非現実的である。最終的には、市場の評価に基づく株価の総額だけが唯一正確な自己資本である。
市場評価は大きく変動するという懸念もあるだろう。しかし自己資本は常に安定的なものではなく、市場の評価が変化すれば直ちに変化すべき性質を持つものである。画期的な技術進歩をなし遂げた企業の価値は、その技術を市場が評価した瞬間に増加する。市場の信頼を失えばその自己資本は一瞬にして損なわれる。自己資本とは本来そうした性質のものである。
重要な点はモラルハザード(倫理の欠如)を起こさない制度の構築である。短期的な評価だけでは膨大な報酬を得て退職する経営者も出る。金融機関の経営者に長期的な視野を持った経営を促すため、給与を減らし、退職後10年間の業績に連動して退職金を分割払いするなど、報酬制度改革も必要である。(桃李)