大月書店『資本論草稿集』第1分冊112ページから。(これはずいぶんと以前に書いたノート。)
●第1段落(112ページ上段)
商品a=1シリング、商品b=2シリング、云々。『資本論』であれば、この価値表式自体を分析して、交換価値の内実としての価値を抽象するのだが、『57-58年草稿』では、そうした手続きはおこなわれず、ここからただちに、次の結論が導かれる。
●第2段落(112ページ上段?115ページ上段)
「商品はいずれも、一定の労働時間の対象化に等しい」「商品の価値…は、その商品に実現されている労働時間の分量に等しい」。『資本論』では、こうした命題を証明しているが、『57-58年草稿』では、証明抜きで宣言されている。
「価値としては、すべての商品は質的に等しく、ただ量的にだけ区別されている」。「価値とは商品の社会的関係であり、商品の経済的質である」。価値の実体が何であるか明らかにされていない。
「価値としては、商品は同時に他のすべての商品にたいする、一定の割合での等価物である」(112ページ下段最終行?113ページ上段2行目)。等価物だといっても、ここでは価値形態論が展開されているわけではない。しかし、商品を等価物としてつかむことによって、「等価物としては、商品のすべての自然的諸性質は、商品において消失している」とか「価値としての商品の性質は、商品の自然的存在とは異なった存在をとることができるだけでなく、またとらなければならない」と、商品の2つの側面が区別してつかまれている。
114ページ上段。
「商品それ自体とならぶ特殊な存在としての商品の交換価値が、貨幣である」「つまり、一般的等価物なのである」。
- 「時々刻々、計算、記帳などで、われわれは諸商品を価値章標に転嫁」する。「紙上、頭の中では、こうした変態は単なる抽象によって行なわれている」。
- 現実の交換取引では、こうした抽象を実現するために、一つの現実的な媒介が、一つの手段が必要である。
商品は、「交換価値として措定される」。商品は、まず交換価値としての自己に転置し、ついでこの交換価値を取り替える。粗野な物々交換においても、「商品は、それらが相互に交換される前に、まず頭の中で、そして言葉でバールに転化される」。商品をこのように同じ単位で通約可能にするために、商品は、同じ呼称単位を受け取らなければならない。
交換にさいして一方の価値の他方の価値の超過分を支払うために、つまり残高の清算のために、物々交換においても、貨幣での支払いを必要になる。(115ページ上段)
ちなみに、現行の『資本論』で「価値」となっているところが、初版では「交換価値」となっていた箇所は多い。
未完