えーっと、マルクス『資本論1857-58年草稿』の続きです。(^_^;)
今回は、327ページ「資本と労働のあいだの交換」から。ただし、この見出しは新MEGA編集部がつけたもの。しかし、ここでマルクスは、単なる商品交換と、「資本と労働のあいだの交換」とはどこが違うかということを言いたいのだ。
●第2段落(327ページ上段)?第7段落(328ページ下段)
資本と労働との交換は、たんなる商品と商品との交換と違って、「2つの過程」に分かれる。
第1の過程=労働者が労働力を一定額の貨幣と交換する過程。
第2の過程=資本家が価値を生み出す活動としての労働を交換で手に入れる過程。」
商品と商品との単純な交換の場合には、こうした二重化は起こらない。
ここでは〔資本と労働とのあいだの交換では〕、貨幣と交換して手に入れたものの使用価値が特殊的な経済的関係として現われ、貨幣と交換に手に入れたものの特定の仕方で使用することが、この2つの過程の究極の目的をなしている。したがって、このことが、資本と労働のあいだの交換を単純な交換とすでに形式的に区別している――2つの相異なる過程。(328ページ上段)
第2の過程は、第7段落では「資本の側からする労働の領有」(328ページ下段)と言われている。
資本と労働のあいだの交換では、第1の行為は1つの交換であり、まったく普通の流通に属している。第2の行為は、質的に交換とは異なる過程であって、言葉の濫用をしないかぎり、それを一般にある種の交換だなどと呼ぶわけにはいかない。それは、直接に交換に対立しており、本質的に別の範疇である。(328ページ下段?329ページ上段)
●第8段落(329ページ上段)?第10段落の途中(同ページ下段)まで
「67-58年草稿」では2番目に登場するプラン。これは、310ページ下段?311ページ上段に書かれている最初のプランのI.?VI.までを「I.一般性」「II.特殊性」「III.個別性」に整理し直した修正版。
311ページのI.の「(一)資本の一般的概念」「(二)資本の特殊性」「(三)貨幣としての資本」が、「I.一般性」の(一)から(三)になっている。
II.の(一)から(三)が、「II.特殊性」の(一)から(三)に。ただし、若干、入れ替わっているところもある。
「III.信用としての資本」「IV.株式資本としての資本」「V.金融市場としての資本」「VI.富の源泉としての資本」の4つが、「III.個別性」にまとめられている。
しかし、訳注の「異文」によると、最初マルクスは、「信用としての資本」以下を、「II.特殊性」の「(a)諸資本の蓄積」に続く、(b)として書き始めたようである。つまり、「I.一般性」はともかく、「II.特殊性」以下の部分については、まだ落ち着いたプランになっていないということか。それに比べると、I.の部分は2つのプランは比較的共通しており、おおよそ骨格は固まっているという感じで、311ページのプランから329ページのプランへ、細目が具体化されていっているように読める。
●第10段落(329ページ下段)の途中から
「III.個別性」の項目は、第10段落の6行目「生産源泉である」まで。
そのあと、資本から土地所有への移行についての説明に移っている。それが334ページ下段まで続く。これは、311?312ページのプランで、「VI.富の源泉としての資本。資本家」のあと、「次に、資本のあとには、土地所有が論じられるべきであろう。土地所有の後に賃労働」と書かれた部分に対応する。
マルクスのプランでは、ここまでがいわゆる前半体系。そこから、後半体系(諸価格の運動、3つの階級、国家、世界市場、恐慌)へと続く。
資本と土地所有の関係。「資本は、その本性からしても、また歴史的も、近代的土地所有を…創造する」(330ページ上段)。資本は「土地所有の古い形態の分解」としても作用する。近代的土地所有は、土地所有の「古い形態にたいする資本の作用をつうじて成立する」(同前)。つまり、資本→土地所有という関係。
ここで推論の形式が登場する。推論の形式と言っているのは、ヘーゲル論理学の「判断論」のことだろう。しかし、マルクスは、最初、推論の順序として「地代―資本―賃労働」と言っておきながら、()でくくって、推論の形式は「賃労働―資本―地代」ととらえてもいいと書いている(「地代―資本―賃労働」にせよ「賃労働―資本―地代」にせよ、これは「プラン」の篇章の順序ではない)。大事なことは、資本が「つねに活動的な中間項Mitte」になっていること。マルクスは、「地代―資本―賃労働」だろうと「賃労働―資本―地代」だろうと、要するに資本が「活動的な中間項」だ、ということが言いたいのだ。この中間項Mitteは、形式論理学でいう繋辞のことではないだろうか。形式論理学では、繋辞はA=B A is Bあるいは、A≠B A is not Bの=や≠でしかない。しかし、資本の場合はそうではなくて、繋辞であるはずの資本こそが「活動的な中間項」、主体なのだと言っているのではないか。(330ページ上段)
さらに、このあたりでマルクスは、「能動的根拠」(330ページ上段、後ろから3行目)という言葉を使っている。333ページ上段でも「創造的な根拠」(上段、後ろから8行目)という言い方をしている。根拠を、たんに対象の下に静かに横たわっているものとしてとらえるのではなくて、能動的、主体的なものとしてとらえている。これも、マルクスがヘーゲルからうけついだ弁証法として重要なところでは?
資本→土地所有の関係にあるのだから、「近代的土地所有関係」のなかには「近代社会の内的構造が措定されている」。つまり、近代的土地所有関係のなかに、資本の諸関係の総体が措定されている。(ということは、要するに、近代的土地所有を見れば資本の諸関係の総体が分かる、ということ)
で、次の問題は、土地所有→賃労働の移行。マルクスは、まず「歴史的にはその移行はあらそう余地はない」と指摘。一方で封建的な土地所有が近代的土地所有になっていくとき、他方で封建的農奴が日雇労働者=賃労働者に転化される。
だから、「賃労働は、……まず土地所有にたいする資本の作用を通してつくりだされ」る。そして、いったん賃労働がつくりだされてしまうと、われわれは「賃労働が土地所有者自身をとおしてつくり出される」ようになる――これは、たとえば「囲い込み」のことを言っているのだろう。
さて、その次の()。
(現実的な社会共同性が考えられるようになる前に、まず相互的依存性が純粋に仕上げられていなければならない。自然によって規定されたものではなく、社会によって措定されたものとしてのすべての諸関係。)(331ページ上段1行目?5行目)
これをどう解釈するか。まず、1文目「現実的な社会共同性が考えられるようになる前に、まず相互的依存性が純粋に仕上げられていなければならない」とはどういう意味か? 「現実的な社会共同性」というのは未来社会のこと? そうだとすると、「相互的依存性が純粋に仕上げられる」というのは何を意味しているのだろうか? 分からん…。
後半の文。「この社会によって措定されたものとしてのすべての諸関係」とは、何を指しているのか? 相互的依存性のこと? これもよく分からん…。
その次のところで、マルクスは、「古い土地所有」から「近代的土地所有」がどうやって生まれるかを考察している。(331ページ上段から)
まず、古い土地所有者が富裕である場合。この場合は、資本家は必要ない。土地所有者は、労働者を賃労働者に転化させるだけでよい。しかし、それには、「生産様式(農業)そのものの総体的な変革」が前提になる(331ページ下段)。つまり、工業、商業および科学の一定の発展、生産力の特定の発展打開を前提にしている。つまり、土地所有が近代的土地所有になるためには、資本による物質的生産様式の変革が必要。
資本が前期的な商業資本から資本になるためには、土地所有のこのような変革は必要ない。しかし、産業資本が、マニュファクチュアに発展するためには、古い土地所有の分解が必要だ。とはいえ、マニュファクチュアに発展するだけなら、古い土地所有の分解は分散的でよい。しかし、近代的工業が発達すると、古い土地所有の分解は全面的なものになる。しかし、近代的工業が発達するためには、近代的農業と近代的土地所有が発展している必要がある。
――以上は、資本の発展と、近代的土地所有の発展との相互前提関係を述べたもの。これは、理論的な展開というより、現実の歴史的展開のこと。それは、そのあとのところで、マルクスが、次のように述べていることからも分かる。
イギリスはこの点で模範国。イギリスでの大マニュファクチュアの発展が、すでに古い土地所有の分解を前提にしているが、この分解自体は、都市での資本の発展(それ自体はまだ不十分、従属的なものだが)と、外国(具体的にはオランダ)のマニュファクチュアの作用を前提にしている。(332ページ上段、真ん中あたり)
要するにマルクスは、イギリスで大マニュファクチュアが発展するには、古い土地所有が分解している必要があるが、その分解をもたらすには、一定程度の資本の発展が必要だが、イギリス国内ではそれは部分的、従属的なものにとどまっているので、外国(オランダ)のマニュファクチュアの影響をもちださざるを得なくなっているのだ。しかし、そうやっても、次に、オランダのマニュファクチュアはなぜ発展したのかということが問題になるだけで、結局、問題は解決しない。
そこで、マルクスは、「新しい生産諸力と生産諸関係は、無から発展してきたものでも、絵空事でも、自分自身を措定する〔ヘーゲル流の〕理念の胎内から発展してきたものでもなく、生産の既存の発展とうけつがれた伝統的な所有諸関係の内部で、それらと対立しながら発展する」と述べざるを得なかったのだ。こうしてマルクスは、有機的体制としての歴史の総体性について考察をすすめる。
完成したブルジョア的体制(システム)においては、どんな経済的関係もブルジョア的形態をとった他の関係を前提にしており、こうしてまた、措定されたものはどれをとっても同時にまた前提でもあるが、そうだとすれば、こうしたことはすべての有機的システムについていえることだ。総体性としてのこのような有機的システムそのものは、いろいろな前提をもっているし、有機的システムの総体性への発展は、とりもなおさず社会のすべての要素を自分自身に服属させるか、自分にまだ欠けている器官を社会のなかからつくり出すか、にほかならない。このようにして有機的システムは、歴史的に総体性になる。この総体性になるということが、有機的システムの過程の、それの発展の一契機をかたちづくる。(332ページ上段、最終行?下段、13行目。ちょい訳を変更)
これは、ブルジョア的体制だけでなく、有機的システム全般に言えること。現実の社会・歴史は有機的総体であり、したがって、その社会の諸関係は他の諸関係と相互前提関係にある。で、この社会が発展するとはどういうことかと言えば、この有機的システムが社会の諸要素を自分のモメントにおとしめるか、あるいは欠けている諸要素をみずからつくり出すかであり、そうやって社会は有機的総体として発展してゆくのだ。こんなふうに、有機的総体として発展するというのが、有機的システムの発展の仕方だ、とマルクスは言っているのだ(と思う)。
で、近代的植民地の話。ウェイクフィールド。すでに完成された資本主義が、新しい領域を掌握する場合。資本は、土地所有を人為的に高価にして、労働者を賃労働者に転化する。「ウェイクフィールドの理論は、近代的土地所有を正しく把握するために、かぎりなく重要である」(333ページ上段)。
ここまで考察したあとで、マルクスは、こう言っている。
資本は流通から出てきて、労働を賃労働として措定する。このようにして自己を完成し、全体的なものとして展開すると、土地所有を自己の対立物であるとともに自己の条件でもあるものとして措定する。(333ページ上段)
ここでは、マルクスが自覚しているかどうか分からないが、資本―賃労働関係がまずあって、それがまず自己を完成させて、そのあと、土地所有を自己の条件にする、といっている。つまり、マルクスがここまで論じてきた、資本―土地所有―賃労働、という展開を事実上、取り消したのでは?
その後で、賃労働への二重の移行。(333ページ下段)
土地所有が賃労働を産み出す関係――肯定的側面。
土地所有は利潤の制限でしかなく、生産にとって必然的なものではない。だから、資本は、土地所有を解消して国家にひきわたそうとする。(資本主義は土地の国有化を求める)。――否定的側面
しかし、もし私的所有としての土地所有を解消すると、「土地所有の否定」だけで終わらずに「土地所有を介した資本の否定」につながりかねない。(だから、資本は土地の国有化をすすめようとはしない)。「資本の否定」をすすめるのは、「自己を自立的なものとして措定することを欲する賃労働」。つまり、労働者階級が革命によって資本主義から社会主義・共産主義に前進し、自立する、ということ。
以上で、第10段落終わり。
あ〜、終わらん…。(^_^;)