マルクス『1857-58年草稿』を読む(7)

「資本と労働のあいだの交換」の続きです。(ページ数は、大月書店『資本論草稿集』第1分冊)

●第11段落(335ページ下段)?第12段落(338ページ)
 「市場」と書かれて始まっていて、{}で囲まれた部分。これも、プランの続き?
 310?311ページのプランでは、「資本の後には、土地所有」「土地所有の後には賃労働」と書かれた後で、「こんどはその内的総体性において規定された流通として、諸価格の運動」と書かれている。この「諸価格の運動」が、この「市場」か?
 おもしろいのは、「市場」と言いながら、「まず金融市場」から始まっていること。その意味では、この「市場」は、310?311ページのプランの「V.金融市場としての資本」の話か?
 いずれにしても、最後にマルクスは「市場の抽象的範疇をどの箇所に入れなければならないかは、いずれわかるであろう」(338ページ上段)と書いている。

●第13段落(338ページ上段?)
 プランの話が終わって、ふたたび、「資本と労働のあいだの交換」に話は戻る。
 「労働者の資本家との交換は1つの単純な交換である」
 「資本家がこの単純な交換においてうけとるものは、1つの使用価値、すなわち他人の労働にたいする処分権である」

 このあたりから、労働者が資本家に売り渡す「労働力」(まだこの言葉は登場しないが)の正体、実体、性格についての考察が始まる。

●第14段落(338ページ下段?)
 「資本家のもつ処分権そのものは、1つの規定された労働と、その労働にたいする時間的に規定された処分」。そのあとに、時間賃金と出来高払賃金の話がはさまっている。

 次のところは、賃金格差の話?

たしかに労働者は、貨幣のかたちで、一定の分量の交換価値、つまり富の一般的形態をうけとるが、彼の受けとるものが多いか少ないかによって、彼にあたえられる一般的富の分け前が多くもなれば少なくもなる。この多い少ないがどのようにして決定されるか、彼の受けとる貨幣の量がどのようにして測られるかは、一般的関係とはかかわりないのであるから、したがってそれは一般的関係そのものからは展開することができない。(339ページ、上段)

これは、要するに、賃金の一般的水準の高いか低いかではなく、個々の労働者が受けとる賃金の高い低いは、「一般的関係とはかかわりない」問題であり、したがって「それは一般的関係そのものからは展開できない」ということだろう。

それならば、個々の労働者の賃金の高い低いは、どこで展開されるのか? 346ページ上段では、労働者に支払われる「特別手当」の問題が出てくる。マルクスは、「労賃の篇」で、こうした問題を論じようとしていたのだろうか。

次の問題。339ページ上段の終わりから。労働者が資本家に売り渡す商品(労働力)の価値の大きさは何によって決まるか。

一般的に見ると、彼の商品の交換価値は、買い手が彼の商品を使用する方法によってもっぱら決められるわけではなく、その商品自身のなかに存在する対象化された労働の分量によってのみ、したがっていまのばあいでいえば、労働者自身を生産するために費やされる労働の分量によってのみ決められることができる。(339ページ上段、後ろから2行目?同下段、4行目)

ここで、労働力の価値が、資本家が労働力を買って消費することでどれだけの価値を生み出すかによってではなくて、労働力商品自身の中に対象化された労働の量=労働者の再生産に必要な労働の量によって決まる、ということが明確にされる。

『資本論』では、ここから、1日の労働力が生み出す価値の大きさと、1日の労働力に対象化された価値とは2つの異なった大きさであることが明らかにされて、それが剰余価値の正体であることが明かされる。しかしここでは剰余価値はまだ登場しない。ここでは、マルクスは、あくまで労働力商品の価値の大きさは何によって決まるかということにだけ関心があって、1日の労働が生み出す価値の大きさと、1日の労働の価値との違いには注意を向けない。

続いて、労働者が提供する使用価値の正体についての探求。マルクスは、それをどう書き表したらよいか、労働者の身体の「能力Fähigkeit」とか「力能Vermögen」とか、言葉を選んでいる。「労働力能」Arbeitsvermögenという言葉も出てくる。

で、労働力の価値の大きさについて、さらに突っ込んで分析。労働者が一定額の貨幣と交換で資本家に譲り渡す「労働力能」のなかに対象化された労働とは、「彼自身を肉体的に維持するとともに、この一般的実体〔労働力能のこと〕を変容させてその特殊的力能を伸ばすようにさせるのに必要な、対象化された労働」だと言われる。これが「労働者が交換にさいして受けとる価値の分量、貨幣の額を測る」(339ページ下段)。

以上のことを明らかにして、マルクスは、「どのようにして労賃が、他のあらゆる商品と同様に、労働者を労働者として生産するのに必要な労働時間によって測られるか」が明らかになったとする。――ここまでが「一般的関係」の話。

このあとのところで、マルクスは、次のように断り書をしている。すなわち、以上のことについて「これ以上展開することは、まだここでの問題ではない」と。
労働力の価値の大きさについて、「これ以上展開」すべきことって、何? なぜそれが「ここでの問題」ではないのか?

次の問題。340ページ上段から。このあたりで、マルクスは、労働者は一般的富から「量的に締め出されている」のであって、「質的に締め出されているのではない」という議論を展開している。

彼〔労働者〕は自分の使用価値〔労働力〕を富の一般的形態〔貨幣〕と交換するのであるから、彼の等価物のもつ限界――これは量的限界であるが、すべての交換のばあいと同様に質的な限界に転ずる――まで、一般的富を共に享受する者となる。そうかといって彼は、充足の特殊的な諸対象にも、その特殊的な〔充足の〕仕方にも結びつけられているわけではない。彼は、享受の範囲が質的に締め出されているわけではなく、ただ量的に締め出されているに過ぎない。このことが彼を奴隷、農奴などから区別する。(340ページ上段)

つまり、奴隷や農奴は享受の範囲が質的に制限されている。それにたいして、賃労働者は、享受の範囲は質的には制限されておらず、ただ賃金の額によって量的に制限されているだけである。しかし、資本家のように「充足の特殊な諸対象」や「特殊的な仕方」に結びつけられている訳ではないので、量的に制限されているだけであるにもかかわらず、実際には質的に制限されることになる、ということ(かな?)

労働者の享受の範囲の総体的な制約、つまり質的にでなく、量的にのみ、そして量をとおしてのみ措定された質的な制約は、消費者である彼らにたいしても(資本がさらにすすんで展開されたばあいには、一般に、消費と生産との関係がいっそうくわしく考察されなければならない)、生産の作用因としての重要性をあたえる…。(340ページ、下段)

この「消費と生産との関係」は、345ページ下段でも展開されている。

次の問題。340ページ下段から。資本家と同等者であるという仮象について。

同じく、労働者が貨幣の形態、つまり一般的富の形態で等価物を受けとることによってもまた、彼はこの交換において、他のすべての交換者と同様、同等者として資本家に相対している。少なくとも仮象の上ではそうである。(340ページ、下段)

この「仮象」について、マルクスは、「この仮象は幻想として労働者の側にも存在する」(341ページ上段)と書いている。これ以上の展開はないが、注目点だろう。

その次。このあたりから、ここでの考察の本題になってくる。341ページ上段の後ろのほうから。

肝要なことは、つまり労働者にとっての交換の目的は、彼の欲求の充足である。彼の交換の対象は、欲求の直接的対象であって、交換価値そのものではない。たしかに彼は貨幣を受けとりはするが、彼の受けとる貨幣の規定は、鋳貨としての規定にすぎない、すなわち自分自身を止揚し消滅していく媒介としての規定にすぎないのである。それゆえ彼が交換するものは、交換価値とか富ではなく、生活手段であり、彼の生命力を維持し、肉体的、社会的欲求など、彼の諸欲求一般を充足するための諸対象である。それは、生活手段という対象化された労働のかたちをとった一定の等価物であり、彼の労働の生活費用によって測られる。(341ページ上段、終わりから8行目?下段、4行目)

このあと、労働者の蓄財、節欲の話になる。

「致富を交換の対象とする者ではなく、生活手段を交換の対象とする者が禁欲すべきだという、まさに理屈に合わない要求」(342ページ上段)。

「資本家たちが実際に『禁欲した』かのような――またそれによって資本家になったかのような――幻想」(同上段?下段)

このあたりは、ヴェーバー『プロ倫』なら、どう思うだろうか。

しかし、労働者の節欲は「資本家のために節約し、資本家のために労働者階級の生産費を減少させる」(342ページ下段)だけ。「ただ彼自身の労働の生産費用の一般的水準を、したがってまた彼の労働の一般的価格を低下させただけのこと」(343ページ下段)。「彼らがだれもかれも節約するならば、賃金の一般的低下が生じて、彼らは元の木阿弥となるであろう」(343ページ下段)。
それは、「労働者は、不況時に操業短縮や賃金の引き下げなどに耐え……、なんとか暮らしていけるだけのものを、好況時に貯蓄しておくべきだ」というもので、「労働者はつねに最低限の生活享受で辛抱し、資本家のために恐慌を緩和してやれ、という要求」だ。
「こうしたことの結果として起こるであろうまったくの動物化」(344ページ下段)

マルクスは、労働者にたいして節欲を求める主張の欺瞞性を告発しつつ、しかし同時に、労働者自身が享受を拡大することの重要性を強調する。

労働者がより高度な、精神的でもある享受に関与すること、すなわち彼自身のためにアジテーションをしたり、新聞をとったり、講演を聴いたり、子どもを教育したり、趣味を涵養したりすること、つまり文明への彼の唯一の関与として彼を奴隷から区別するものは、彼が好況時に、つまりある程度貯蓄が可能な時期に、彼の享受の範囲をひろげることによってはじめて、経済的に可能となるのである。(344ページ下段?345ページ上段にかけてカッコの中)

マルクスは、労働者がアジテーションをしたり、新聞をとったり、講演を聴いたり、子どもを教育したり、趣味をもったりすることは、「彼を奴隷から区別する」唯一のものだと、意義を強調している。だから、多少なりとも生活に余裕のできる好況時には、享受の範囲をひろげることが重要だと言っているのだ。「動物化」との対比。

次の話題。345ページ下段あたりから。資本家が労働者に要求する「節欲」から、生産と消費の矛盾に話が進む。

どの資本家も、彼の労働者に節約するように要求するけれども、しかし自分の労働者にだけ要求するのである。というのも、これらの労働者は労働者として彼に相対しているからである。それ以外の労働者の世界には金輪際要求しない。なぜならそれらの労働者は、彼に消費者として相対しているからである。(345ページ、下段)

こう言って、マルクスは、資本家が「労働者を消費へと駆り立て、新たな魅力を彼の商品にあたえ、言葉たくみに新たな欲求を労働者に押しつけようとする」と指摘。消費文化論。辻井喬氏が喜びそうな叙述。

しかし、享受の範囲の拡大そのものは「文明の本質的な一契機」であり、マルクスはそこに「資本の歴史的存在理由」を見る。

生産と消費とのこの関係は、資本と利潤などを扱うところになってから、はじめて展開される。あるいはまた諸資本の蓄積と競争を扱うところでも展開される。(345ページ下段)

こんどは、労働者の節欲にたいして、資本家が労働者にある程度の利潤の分け前をあたえようという話について。(346ページ、上段、真ん中あたり)

労働者にある程度の分け前をあたえよという、最近しばしば自慢げにもちだされる要求については、労賃の篇で論ずることになろう。ただし特別手当としての労賃は別である。それは通則の例外としてのみその目的を達することができ、また実際上も、とりたてて言うべき実務上の例をあげるとすれば、自分の階級の利益にそむいて雇用主の利益をはかる個々の監督などの買収とか、あるいは手代などに限られる。要するに、これらの人々はもはや単純な労働者ではなく、したがってもはや一般的な関係にかかわっていない。(346ページ上段)

労働者の上層、管理・監督業務の末端を担わされる労働者。現代風に言えば、「中間管理職」ということだろうか。こういう職制的な部分は、「自分の階級の利益に背いて雇用主の利益をはかる」部分になるわけだ。しかし、これは「例外」、つまり労働者の多数にはなり得ない、という話。

(いい加減、ノートをとるのが面倒くさくなってきた…)

資本は「非労働」、労働は「非資本」である(346ページ下段)。

もっとも深い対立にあるのはAと非A。あらゆるものはAか非Aである。したがって、Aであるか非Aであるか(Aでないか)というのが、もっとも深い区別(対立的区別)。同時に、非AはAなしにはありえない。Aも非・非Aであるから、非Aなしにはありえない。したがって、Aと非Aは密接不可分、不離一体の関係。こういうふうに、切っても切り離せない関係にある2つのものが、同時に、もっとも深い対立関係にあるというのが、マルクスの対立、矛盾の捉え方の特徴。

だから、資本は「非労働」、労働は「非資本」という捉え方こそ、資本と労働の矛盾をもっとも鋭く捉える捉え方だ、ということになる。

労働は資本にたいして、労働としてではなく、すなわち非資本としてではなく、資本として対立することになるであろう。しかし、資本もまた、非労働としてのみ資本であり、すなわちこの対立的関連においてのみ資本なのだから、資本に労働が対立していなければ、資本が資本に対立することはできない。(346ページ下段?347ページ上段)

労働者の没価値性Werthlosigkeitと価値喪失Entwerthung (347ページ上段、左端)。このWerthlosigkeitは、没価値性というよりも、「価値をもっていないこと」という意味だろう。

あとは、省略。ノート第2冊の最後のページ(29ページ)は失われている。

これで第14段落、終わり。あ〜あ、長かった…

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