マルクス『1857-58年草稿』を読む(8)

さらに『1857-58年草稿』の続きです。「資本と労働のあいだの交換」第16段落から(第15段落は断片なので、よく分かりません)。

●第16段落(350ページ上段)?

まずマルクスは、「労働力能は労働者の資本だ」という言い方、見方を批判する。

 「労働力能とは…彼〔労働者〕が労働者として生きてゆくあいだたえず新たにくりかえし用いることのとできる元本である、というかぎりで、労働力能は労働者の資本と呼ばれてきた」(350ページ上段、1?5行目)。

「労働者が労働能力をもつかぎり、労働が彼にとってつねに……資本との交換の……新たな源泉であるということは、……彼が売るのはただ自分の労働能力にたいする一時的処分権だけであり、したがって、彼がしかるべき分量の素材を摂取して、自分の生命発現をもう一度再生産できるようになりしだい、いつでもまたあらためて交換を開始できるということである。」(350ページ下段)

 ブルジョア経済学は、「むしろ、労働者がたえず労働をくりかえしたのちにも、あいかわらず、ただ自分の生きた直接的労働そのものしか交換すべきものをもたないということに着目してみるべきだったろう」(同前)。

 しかし、この「繰り返し」自体が「仮象」にすぎない。実際には、労働者は、資本と例えば20年間に支出する全労働能力を交換する。資本家は、その20年分の賃金を小刻みに支払う。
 「資本家が望んでいるのは、まさに、彼が彼の一人分の生命力をできるだけ多く中断せずに使い切ること」である(351ページ上段)。労働者の睡眠は「労働の制限」であり「中断」である。

ここで、ようやく「労働と資本の交換」の「第2の過程」に移る。(351ページ上段)

 「賃金は生産的ではない」という命題について。(同前)

 労働者が「資本家のために富を生産しないというのは、資本家にとっては1つの使用価値と引き換えに貨幣を支払う……ことは、富の放棄でありこそすれ、富の創造ではなく、だから資本家はなるべく少なく支払おうとするから」。
 労働者が「労働者のためにも富を生産しないというのは、この支払いが労働者にもたらすのは、ただ、多かれ少なかれ生活手段、つまり個人的必要の充足でしかなく――けっして富の一般的形態でなく、およそけっして富ではないからである」(351ページ下段)

●第17段落(353ページ上段)?

ここで、のちに「領有法則の転回」と言われる問題が登場する。

 労働と資本の関係においては、しかも両者間の関係のこの最初の関係においても、労働者は交換価値を買い、資本家は使用価値を買うのだから、労働が資本にたいして、1つの使用価値としてではなく、使用価値そのものとして相対することによって、資本家が富を受けとり、労働者が消費の中で消え去る価値しか受けとらないということは、奇妙なことと思えるかも知れない。{それが資本家にかんするきあぎりでは、第2の過程ではじめて展開されるべきである}。これは、予想されるはずのものがまさにその正反対のものに転回する弁証法として現われる。(353ページ上段)

●第18段落(353ページ下段?)

 所有の労働からの分離は、資本と労働とのこの交換の必然的法則として現われる。(353ページ下段)

非資本として措定された労働は「対象化されていない労働」つまり、生きた労働そのものだ。(353ページ下段)

 (1)否定的に把握されたそれ。――非原料、非労働用具、非原料生産物。あらゆる労働手段と労働対象から切り離された労働。「丸裸の存在」、「あらゆる客体性を欠いた純粋に主体的な労働」(354ページ上段)。
 それは「絶対的貧困としての労働」、「対象的富の欠乏としての貧困ではなく、それから完全に締め出されたものとしての貧困」。
 「存在している非価値そのもの」、「媒介なしに存在する純粋に対象的な使用価値」、「人格から切り離されていない対象性、人格の直接的肉体性と一体化した対象性」(同前)。

 「絶対的貧困」という捉え方。労働者は、富が「欠乏」しているのではなく、富から「完全に締め出されている」という、資本?賃労働関係のつかみ方。

 (2)肯定的に把握されたそれ。「対象化されていない、したがって非対象的な、すなわち主体的な、労働そのものの存在」。「活動としての労働」。「価値の生きた源泉としての労働」(354ページ上段)。

 労働が一方では対象としては絶対的貧困でありながら、他方では主体として、活動としては富の一般的可能性であるということは、いささかも自己矛盾することではない。というよりむしろ、いずれにせよ自己矛盾しているこの命題は、相互に条件づけあっているものであって、労働が資本の対立物として、つまり資本の対立的定在として、資本によって前提されるとともに、他方では労働の方でも資本を前提するという、労働の本性から生じている。(354ページ下段)

●第19段落(354ページ下段)?

 その次。ここでマルクスが「資本に相対する労働」と言っているのは、「資本として措定された貨幣に対立するその使用価値として、あれやこれやの労働ではなく、労働そのもの、抽象的労働で」であり、「労働の特殊的な規定性にたいしてはまったく無関心」な労働である(354ページ下段)。なぜなら、労働に相対する資本は、特殊なあれこれの資本ではなく、「資本そのもの」だから。
 ギルド的、手工業的労働の段階では、資本はまだ「狭隘な形態」をとっていて、「まだ完全に限定された実体のなかに埋没して」いる。しかし、資本主義が発展すれば、「資本は規定された労働のいずれにたいしても自己を対置させることができる」から、「あらゆる労働の総体が可能的に資本に相対する」(355ページ上段)。「労働があらゆる技能的性格を失うにつれて、また労働の特殊的な熟練がますます抽象的なもの、無差別的なものとなり、労働がますます純粋に抽象的な活動に、純粋に快適な、したがって無差別的な、その特殊的な形態には無関心な活動になる」。それにつれて、「単に素材的な活動、形態にたいして無関心な、活動一般になるにつれて、この経済的関係……は、ますます純粋に、またますます適合的に転回されてゆく」(355ページ下段)。

 資本と労働の特殊的な規定性は、特殊的な物質的生産様式の発展と産業的生産諸力の発展の特集的な段階とがあって、はじめて真実となる。(356ページ上段)

 抽象的労働というのは「どちらかといえばなおわれわれの主観的反省に属している」が、交換価値、流通、貨幣といった抽象的規定を扱うさいには、「すでに関係そのもののうちに措定されている」(356ページ上段)

●第20段落(356ページ上段、左から3行目から)

 「(二)さて過程の第2の側面に入る」。この(二)に対応する(一)はどこか? 「資本と労働のあいだの交換」の冒頭に出てくる、「2つの過程」の二番目。

 第2の過程が問題になるときには、「資本家と労働者との交換は…もはや完了している」(356ページ上段)。
 そこで、分析は「資本が自己の使用価値である労働にたいしてもつ関連」にすすむ。これが第2の過程。資本家が、自分のものである労働を消費する過程。 労働は「資本自身の使用価値」。

 労働は「対象化されていないものとしての諸価値の存在」「諸価値の観念的存在」「諸価値の可能性」。「活動としては価値措定」。(356ページ下段)

 労働は、資本に向き合って存在している場合には、「ただの能力や力能」、「価値措定的活動のたんなる抽象的な形態」「たんなる可能性」でしかない。資本との接触をとおして、「現実的な価値措定的、生産的な活動」になる。(同前)

 しかし、資本にとって「活動」とは「資本自身の再生産」「資本の維持と増大」のこと以外にはない。そして、労働者との交換(第1の過程)によって、資本はすでに労働そのものを領有していた。いまや、労働は、資本の諸契機の1つから、「果実を生む生命力」になって、「生命のない資本の対象性」つまり生産諸手段に「働きかける」(356ページ下段?357ページ上段)。

 資本は一方で、「労働によって消費されなければならない」が、他方で「たんなる形態としての労働のたんなる主体性が止揚され、資本の材料のなかに対象化されなければならない」(357ページ下段)

 この過程では、資本は受動的。「資本は、特殊的実体として、形態をあたえる活動(formende Thätigkeit)としての労働とかかわりをもつ受動的定在である」(357ページ下段)
 これについて、マルクスは、「これはすでに第1章で論じられるべきことである。すなわち第1章は、交換価値〔にかんする〕章に先立ち、生産一般を論じなければならない」と書いている。つまり、ここでは、第1章「生産一般」をまだ考えていた訳だ。

 活動としての労働にたいして、素材=対象化された労働は、2つの関連をもつ。
 <1>原材料として。
 <2>労働用具として。自分と対象とのあいだに、それ自体1つの対象をみずからの導体として押し入れる。

 生産物は、「資本の受動的な内容と、活動としての労働とのあいだの過程の結果」である。

価値の実体の定義。これは前にも出てきたはず。

価値の実体とは、けっして特殊的自然的実体のことではなく、対象化された労働のことである。(358ページ上段)

ここで、マルクスは、次のように述べて、話は原材料と労働用具の問題に移る。

 「資本の構成要素としては、原材料と労働用具とは、それ自体すでに対象化された労働であり、つまり生産物である。」(358ページ下段)

●第21段落(360ページ上段?)

 生産物においては、生産過程で消尽されたこの過程の諸契機が再生産されている。したがって過程全体が生産的消費として現われる。(360ページ下段)

●第22段落?第25段落(361ページ下段?)

 これまで展開したことのまとめ。
 (1)労働の領有、労働の資本への合体によって、資本は、発酵して生産過程になる。そのなかで、資本は、生きた労働としての自分自身を、対象化された労働である自分自身と関連させる。
(2)単純流通では、商品や貨幣の実体は形態規定にとってどうでもよいことだった。しかし、生産過程では、資本そのものが形態としての自分自身を実体としての自分自身から区別する。資本が、同時に2つの規定であり、同時に2つの規定の相互関連である。
 形態としての資本? 実体としての資本とは生産手段のことだろうなぁ。
 (3)資本は、即自的にこの関連として現われる。この関連はまだ措定されていない。2つの契機の1つである素材的契機の規定のもとでそれ自体措定されているにすぎない。
 資本が生産過程に入るとき、ぱっと目には素材的契機が現われる。そのときは、「資本を資本たらしめている形態規定」は「完全に消え去っている」(362ページ下段)。
 労働にとって全体された対象的形態にある資本から出発するかぎりでは、資本は、ただ規定された自然的諸性質を持った物質的な実在物としてのみ存在する。
 「こうして資本の生産過程は、資本の生産過程として現われずに、生産過程そのものとして現われる」(364ページ上段)

●第26段落(364ページ下段?365ページ)

 ここでマルクスは、「観察の立場」から「経済的関係のそのもののうちに措定されている契機」に注目する。

 資本と労働との交換では、そのものとして対自的存在する労働は、必然的に労働者として現われる。

 資本一般は、対自的に存在する利己的な価値として措定されている。対自的に存在する資本とは、資本家のことである。生産関係が自己内反省したものが、ほかならぬ資本家である。

 個別の資本家は資本を失えば資本家でなくなる。したがって、資本は、個別の資本家から切り離すことができる。しかし、資本として労働者と対立している資本家なるものから切り離すことはできない。

 「この点はあとでさらに展開すること」(365ページ下段)。この点って、何? 「あとで」ってどこで?

ということで、「資本と労働のあいだの交換」の項は終了。(^_^)v

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