膨大な金融的利得はどこから来たのか?

季刊『経済理論』第46巻第1号(経済理論学会編)

季刊『経済理論』の最新号(2009年4月、第46巻第1号)は、経済理論学会第56回大会共通論題「サブプライム・ショックとグローバル資本主義のゆくえ」の特集。河村哲二、建部正義、姉歯暁の3氏の報告が掲載されているが、面白く思ったのは、3報告にたいする井村喜代子氏のコメント。

井村氏は「報告へのコメント」で、おおむね次のような問題を提起されている ((3報告に即して書かれている部分は省略。))。

  1. 金融が現実資本(実体経済)をはるかに上回って膨大化したというが、膨大な資金(いわゆる「過剰流動性」)はどこから、いかにしてもたらされたか。
  2. 金融(活動)の肥大化・金融収益の拡大と現実資本(実体経済)との関連をいかに把握するか。
  3. 金融工学の「リスクの分散・移転によるリスク処理」という方式・思想が「実体経済から独立した金融活動」に対して果たした役割をどう考えるか。(井村氏は、「はるかに重要なもの」とされる)
  4. 米国主導の国際的な膨大な資金供給の連続および金融支援のための財政出動は、いかなる問題を部分的・一時的に解決し、いかなる新たな諸問題・諸矛盾を生み出すか。

このなかで、特に重要だと思ったのは、第1、第2の問題。“金融は新たな価値を生むことができないので、既存の付加価値を再配分するだけだ”と、しばしば言われるが、しかし、現実には、金融的取引による利益は、すでに実体経済の何倍にもなっている。それをどう考えたらよいのか?

井村氏は、次のように指摘されている。(同誌、43ページ)

 いまや、金融活動それ自体で利益を求める金融活動が肥大化し、銀行がかかる活動(ヘッジファンドを含む)に対して行う信用創造が右肩上がりで急増し続けている。金(きん)とはまったく関係のないドルの累積であるが、これは「購買力」を新たに付与するものとして現れる。これが実体経済の生産物・サービスに向かえば、実体経済への需要拡大により国内外の将来の再生産規模・付加価値を増大させる。他方、金融資産・不動産・為替に向かえば、価格上昇・為替変動により、国家資産や企業・個人資産の現在、将来の資産価値を変化させ、将来の再生産をも変化させる。政府の金融政策もある。
 「既存の付加価値」の「再配分」にとどまらないのが、新しい金融の「世界」の特徴である。

上記は、第2の問題について述べられたものだが、これは第1の問題にもつながる論点だろう。そして、そのような金融肥大化を可能にしたものとして、金融工学の果たした役割をもっとしっかりとらえる必要がある、というのが第3の指摘だろう。

第4の点にかんしては、まず、今回、米国主導で米欧諸国でとられた対策が「徹底的な金融面での救済策」であるという指摘が問題の本質を突いていると思った。その内容は、「米国主導で史上はじめて国際協調的に」おこなわれた「巨大規模な資金供給(流動性供給)」および、「財政出動」と「金融支援(金融機関への公的資金注入、不良債権買い上げ)」だ。現在、国際協調的にすすめられている「救済策」について、こういう角度からとらえる必要があるだろう。

同号には、吉原直毅氏の『労働搾取の厚生理論序説』(岩波書店)の書評(藤森頼明氏)も載っている。

数理経済学的な部分については、僕はよく分からないが、吉原氏が搾取理論の「ミクロ的基礎付け」を問題にしていることにたいして、藤森氏が、「Marxの理論は、最初に階級規定が来る。標語的に言えば、ミクロより前にマクロ、つまりマクロ的基礎がくるように見える」と指摘しているのは大事な点だと思う。また、マルクスの理論、あるいは置塩氏のマルクス理解は、「必ずしも個々の経済主体の最適化行動として描写されていない」という指摘は重要だろう。マクロ的なものがすべてミクロ的なものから規定されている、という訳ではない、ということだ。

【書誌情報】
雑誌名:季刊 経済理論/巻号:第46巻第1号/編集:経済理論学会/発行:桜井書店/出版年月:2009年4月/ISBN978-4-922190-71-2/定価:本体2,000円+税

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膨大な金融的利得はどこから来たのか?」への2件のフィードバック

  1. はじめまして。

    雑誌atプラスの02号に掲載された吉原さんの論文を読み、著書についての情報から検索してここにたどり着きました。

    昨年の最初のエントリの、

    >しかも、なぜ資本財が、ある個人の手に独占されているのか?
    >という問題を、吉原氏はまったく等閑視してしまっている。

    というのは、収奪 expropriation と 搾取 exploitation は別であり、前者を後者に還元することはできないのではないか、ということで、これは藤森さんの、階級が先にある、というお話でもありますね。確かにそこは論文を読んでも疑問に思うところです。

    さらに、論文の結論部で労働時間と自由時間との区別を吉原さんは論じるのですが、そこの17番の注にあるマルクスからの引用における、「そしてそれ(労働者たちによる労働者自身の剰余労働の労働者自身による領有)とともに自由に処分できる時間が敵対的実存を持たなくなるならば」という条件節もまたその階級=収奪者の問題と結びついている。「領有」というのは「(再)占領する、奪い返す」わけで「収奪」が前提のお話のはずです。reappropriaion は、expropriation を前提とする。吉原さんは「搾取者」を「社会的必要労働よりもより少ない労働量を供給する」社会的存在とするわけですが、ここでは「社会的必要労働よりもより少ない労働量を供給する労働者」という語句の「労働者」が落ちています。「搾取者」と「被搾取者」はともに「労働者」である、ということらしい。その場合、先の「労働者たちによる労働者自身の剰余労働の労働者自身による領有」というのは、どういうことになるのか。吉原さんの想定する、「敵対的実存をもたない自由時間」にアクセスできるのが「搾取者」としての「労働者」、できないのが「被搾取者」としての「労働者」というような状況の「自由時間」をマルクスが「敵対的実存をもたない自由時間」と呼ぶかどうか。

    また、吉原さんは、「搾取者」である「労働者」ほど「所得1単位取得のために供給する労働時間は少ないので、反対に自由時間はより多くなる」と述べ、それは「所得を用いて自分の自由な発展のための活動に費やす時間がそれだけ多いので、それらの所得と時間という資源を利用してその個人が実現できる機能の種類もその達成水準もより開かれたものとなる」とセンの機能と潜在能力の話につなげる。ここで疑問なのは、資本による労働の包摂の問題です。たとえばある業務に必要な資格取得のために費やされる時間はマルクスにとってはおそらく「敵対的実存をもつ自由時間」ですね。吉原さんの議論は、「自由時間」における「敵対的実存」の問題を無視してしまっているんじゃないかという疑問も残りますね。

  2. 整理すると、

    「階級」概念が「先に」措定されていない(「収奪」が「搾取」に還元される)→「労働者間のみ」に「搾取関係」があるとされる→「資本」カテゴリーが「搾取」において意味をなさなくなる(「資本による労働の包摂」が問題とならなくなる)→「敵対的実存をもつ自由時間」と「敵対的実存をもたない自由時間」との区別が問題とされなくなる。

    ということで、これはロールズの影響を受けて、「分配的正義」の話に重点を移したマルクス解釈の問題点なんでしょう。

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