憲法記念日の地方紙の社説を眺めてみました。愛媛新聞や信濃毎日新聞などが連続社説を掲載している。
愛媛新聞は、5/2付では「9条 いま捨てるのはもったいない」と題して、「9条の歴史は、政府による苦しい解釈と歪曲(わいきょく)の変遷である」と政府の動きを批判し、世界に「日本国憲法の9条精神を評価する動きが広がっている」ことに注目して、「憲法前文に掲げた『崇高な理想』こそ海外に伝え、『平和のうちに生存する権利』を追求していく努力」を呼びかけているのが注目される。河北新報は、北朝鮮のミサイル発射に触れながら、「憲法の前文(「平和のうちに生存する権利」)や9条に表される『平和的生存権』にこだわらないわけにはいかない」と述べている。
ほかにも、「派遣切り」の動きなどにふれて、「健康で文化的な」生活をおくる権利を定めた第25条の実現を求める社説が目立つ。
北海道新聞は、9条と25条に注目して、「人として生き、平和を守る手段としてこの憲法を活用したい」「貧困にむしばまれた社会を憲法の理念に沿って立て直すときだ」と訴えている。神奈川新聞は、小林多喜二の『蟹工船』にも触れながら、人権や豊かな生活の保障は、戦前来の労働者などのたたかいによってかちとられたものであるとしている。中国新聞は、「貧困の原因は社会の経済制度そのものの中にあり、手当ては国の責務―という姿勢が明快だ」と指摘している。高知新聞は「生存権の危機」は「特別な人」だけの問題ではない、と主張している。
- 憲法09 生存権 ますます重要になる存在意義(愛媛新聞 5/1)
- 憲法09 9条 いま捨てるのはもったいない(愛媛新聞 5/2)
- 社説:憲法記念日 いま生きる手だてとして(北海道新聞)
- 社説:憲法記念日(神奈川新聞)
- 社説:憲法25条の今 生存権、空洞化させるな(中国新聞)
- 社説:憲法/「生存」の土台見つめ直して(河北新報)
- 憲法を生かす(2) いのちの土台立て直せ(信濃毎日新聞)
- 社説:憲法記念日 「主権者」とは何だろう(山陽新聞)
- 社説:憲法の生存権 「人間」を政策の中心に(高知新聞)
- 社説:あす憲法記念日(岐阜新聞)
- 社説:憲法記念日 暮らしの向上に生かそう(徳島新聞)
- 社説:憲法記念日/生存権が輝き増すように(北日本新聞)
- 社説:憲法記念日/もう一度、暮らしの隅々に(神戸新聞)
社説:憲法09 生存権 ますます重要になる存在意義
[2009年05月01日(金)付 愛媛新聞]
日本国憲法をつくった人たちには先見の明があった。施行から60年以上が経過したが、憲法週間が始まるにあたってあらためてその思いを強くしている。
日本国憲法は25条1項で、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めている。いわゆる基本的人権の一つとして、生存権を保障した規定だ。
憲法制定時、多くの人はまず空腹を満たすことに精いっぱいだった。そんな国民にとって25条は、大きな支えだったかもしれない。
「一億総中流」といわれた時代もあった。バブル景気を謳歌(おうか)したが、その崩壊で「失われた十年」を経験した。雇用回復の兆しが見え始めたころ、世界同時不況の大きな渦の中にのみ込まれた。
そして今、日本は雇用が崩壊し、職ばかりか多くの人が家を失い、路上生活を余儀なくされている。経済格差も広がっている。
年末年始の「派遣村」は、日本社会が抱える問題を象徴的に示していた。25条の生存権が、いやが上にもクローズアップされたのはまちがいない。
政府がこれまで進めてきた構造改革は、経済格差や貧困などの社会問題を拡大した。そして職を失うことが生存の危機に直結するという、セーフティーネット(安全網)のもろさを露呈した。
非正規が労働者全体の3分の1を占めるまでになっているにもかかわらず、政府は非正規労働者の多くが雇用保険に加入していない状態を放置してきた。これでは失業した際の安全網は働かない。
25条2項は政府の責務を規定してもいる。このことを考えれば放置した不作為は憲法精神に反し、明らかに政治の怠慢といえよう。
生活保護制度の「母子加算」や「老齢加算」の減額・廃止をめぐって、生存権を保障した憲法に反するとして全国で訴訟が提起されている。同制度は生存権に基づく安全網の最後のよりどころだ。政府や国会は生存権の意味をいま一度問い直すべきだ。
貧困問題などを論じるとき、時に自己責任が強調される。その一面があることは否定しないが、構造改革路線が格差を固定し、貧困の連鎖を生んできたことを忘れてはならない。自己責任を論じるよりも、再スタートを切れる安全網の整備を憲法は求めていると考えるべきだ。
25条は9条と同様に世界に誇っていい規定だ。「最低限度」でなく「健康で文化的な」の文節も大事にしたい。
経済格差や貧困が社会問題になっている折、25条の存在意義は重要だ。政府だけでなく、社会全体の取り組みも問われている。
社説:憲法09 9条 いま捨てるのはもったいない
[2009年05月02日(土)付 愛媛新聞]
「平和ボケ」「カネだけ出して汗を流さない」「一国平和主義」「旗を見せろ」
国際貢献や国際協調という言葉の前で、日本は必ずといっていいほど内外の批判や圧力にさらされる。そのたびに日本国憲法9条は大きく揺さぶられる。同時に憲法の3大原則のひとつ、平和主義のありようが試される。
9条1項は戦争放棄を高らかにうたう。そして、2項で戦力不保持と交戦権否認を規定する。
悲惨な第2次世界大戦と、その反省にたち、国際平和への願いと非戦の誓いをあらわすものだ。憲法記念日を前にその意味をかみしめたい。
9条の歴史は、政府による苦しい解釈と歪曲(わいきょく)の変遷である。東西冷戦終結後の1990年代から、政府は国際貢献を旗印に「自衛隊を海外に出す」ことに躍起になった。
それでも派遣のたびに国会などで論争となり、十分とはいえないまでも審議に時間を費やした。批判や圧力に対して、ぎりぎりの選択をしてきたともいえる。9条は一定の歯止めとなってきた。国民の多くが9条精神を尊重し、よりどころとしてきたからだ。
だが今世紀になると、海外派遣は変質した。米国主導の「対テロ戦争」に同調した政府は、派遣の目的として「国益」を前面に押し出す。小泉純一郎元首相の「自衛隊がいるところが非戦闘地域」が象徴するように、政府の説明と手続きも粗雑になった。
「専守防衛」としてきた政府解釈の形骸化(けいがいか)は見過ごせない。憲法と法律の関係を逆転させるような対応はソマリア沖の海賊対策でも見られる。
活動の実質的な裏付けとなる海賊対処法案の成立を後回しにして現地に向かわせた。法案で武器使用を一部容認しながら、「警察活動だから武力行使ではない」と言い張る政府見解は詭弁(きべん)にしか聞こえない。
法案は今国会で審議しているが、与野党の議論は恐ろしいほど低調だ。あきらめのような姿勢は、もはや政治の責任放棄といえよう。
世界で戦争が絶えない。既存の国民国家が解決できないさまざまな問題が噴出している現実がある。だからこそ国家の枠組みを超えた武器を持たない市民の存在は大きい。
日本の市民は汗を流していないわけではない。平和創造を実践する非政府組織(NGO)の活動は世界各地で活発だ。1990年のハーグ国際平和市民会議を機に、日本国憲法の9条精神を評価する動きが広がっている。
いま、9条を捨て去るのはもったいない。憲法前文に掲げた「崇高な理想」こそ海外に伝え、「平和のうちに生存する権利」を追求していく努力は、わたしたち1人1人にも課せられている。
社説 憲法記念日 いま生きる手だてとして
[北海道新聞 5月3日]
日本国憲法が施行されてきょうで62年となる。
前文はうたっている。
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
これは、憲法の柱として、第9条の戦争放棄と、第25条の生存権、すなわち「平和」と「福祉」が一体の関係にあることを示している。
だが「派遣切り」に象徴される貧困問題が顕在化し、生きる権利そのものが侵害されている。国際貢献を名目に自衛隊を海外に派遣しようとする動きもやまない。
人として生き、平和を守る手段としてこの憲法を活用したい。深まる「生存の危機」
東京都内で3月下旬、「反貧困フェスタ」という催しがあった。
会場の都心の中学校には派遣切りにあった労働者や支援の労組、市民ら約1700人が参加した。校庭では歌舞の披露や炊き出しもあり、職を失った人たちを励ました。
底冷えのする体育館でのシンポジウムでは、口々に雇用の厳しさを訴える労働者に交じって、釧路出身の47歳の男性が立った。
「派遣会社の面接を受け埼玉、群馬の工場で働いた。でも首を切られ生活保護を受けている。やり直したいけれど先が見えない」
年末年始に東京・日比谷公園に開設された「年越し派遣村」には、突然、仕事と住まいを失い路上に放り出された労働者が集まった。
この春、同様の取り組みが各地に広がった。相談会にやってくる労働者には北海道、東北、沖縄など格差拡大と経済危機の打撃の大きい地域の出身者が目立つ。
憲法25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」としている。
しかし派遣村の光景は国民の生存権が脅かされ、憲法の理念とかけ離れた現実を浮かび上がらせた。
雇用、年金、医療、生活保護など社会保障制度の法的根拠はこの25条にある。第2項は、社会福祉や社会保障の確立に向けた国の責務を明確に規定している。
ところが日本社会のセーフティーネットは極めて不十分である。
労働者派遣制度は、企業が簡単に労働者の首を切れる雇用調整弁であることがはっきりした。厚生労働省は6月末までに20万人余の非正規労働者が職を失うとみる。
国民の安心を保障し、生き生きとした暮らしを実現することこそ、憲法が政府に課した仕事である。それをないがしろにした政治には、政策を語る資格があるだろうか。貧困の連鎖断たねば
派遣切りの問題は働く人の3分の1を占める非正規にとどまらず、リストラや雇用条件の切り下げとなって正社員にも跳ね返ってくる。
最終的なセーフティーネットである生活保護の受給者は163万人(厚労省調べ)に上るが、制度から漏れた生活困窮者は600万?850万人にも達するとみられる。
生活困窮者の増大は子供の世代にも及び、社会の劣化を招く悪循環に陥ろうとしている。
市場万能、競争至上の新自由主義経済は格差を拡大して破綻(はたん)し、潜在化していた貧困問題が昨年秋の経済危機で一気に噴き出した。
経済協力開発機構(OECD)の調査では、所得分布の中央値の半分に満たない人々の割合(相対的貧困率)は、先進国のなかで日本が米国に次いで高い。憲法が掲げた平和・福祉国家からほど遠い。
貧困にむしばまれた社会を憲法の理念に沿って立て直すときだ。
派遣村は多くの労組や市民ボランティアが支え、その訴えが国会や官公庁を動かした。国民が憲法の生きる権利を求めたと理解したい。政府はその重みを受け止めるべきだ。国民の意思問われる
国会ではソマリア沖の海賊対策を理由に自衛隊海外派遣を随時可能にする海賊対処法案の審議が進む。
成立すれば政府の一存で自衛隊を海外に送り出せるようになり、海外派遣恒久法に道を開く。
イラクへの自衛隊派遣からの一連の流れは、憲法が禁じた海外での武力行使や集団的自衛権の容認にまでつながる恐れがある。
もう一度、立ち止まってよく考えたい。ソマリアは軍事政権が崩壊し無政府状態にある。数百万人が国連などの食料援助に依存し、国内外に難民があふれている。
こうした現状を直視すれば、息の長い民生支援を通じ、国家の再建を図るほかないだろう。海賊対策は沿岸警備の問題であり、日本は教育や福祉支援などの地道な貧困対策で現地の人々を勇気づけたい。
それが「戦争放棄」を掲げた憲法9条の力を世界に広げ、日本の国際貢献の実をあげる道だ。
国民投票法によって2010年に改憲の発議が可能となる。秋までに行われる総選挙は、憲法の平和・福祉の理念を生かすために、有権者が意思表示する絶好の機会である。
社説:憲法記念日 社会保障の抜本改革を
[神奈川新聞 2009/05/03]
貧困、格差、派遣切り…。かつてない経済危機、社会不安の中で憲法記念日を迎えた。憲法は、人類が幾多の危機を乗り越え、よりよい社会をつくろうとしてきた努力の結晶である。今こそ、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とした生存権(25条)や、勤労の権利(27条)、労働基本権(28条)など、日本国憲法が定める社会権の意義を再確認し、社会保障制度の立て直しを進めたい。
ブームになった小林多喜二の小説「蟹工船」に見られる通り、20世紀前半までの労働現場では、むきだしの資本主義が労働者を苦しめ、命さえも奪っていた。人間の尊厳を問う激しい闘いが続いた。
そうした労働者の闘い、大恐慌や第2次大戦の経験によって、資本主義の持続には人権の尊重と、豊かな消費者、労働者の存在が不可欠であることが確認された。戦後の西側社会は憲法に社会権を規定し、福祉国家建設へと進んだ。豊かな社会の実現はその果実である。
その後、福祉国家の“行き過ぎ”を是正するものとして、「新自由主義」が英国などで力を得た。しかし、日本ではそもそも行き過ぎるほどの福祉国家を建設できていなかったのが実態だ。小泉改革など新自由主義的政策は、結果的に時代の針を戻すような取り組みとなった。セーフティーネットが不完全なまま経済危機に襲われ、「貧困」が深刻化している。
今年は総選挙が行われる。年金、生活保護など社会保障制度の抜本的改革が問われている。とりわけ大きな課題は、正規・非正規の枠を超えた新たな雇用制度の創造であろう。
ワーキングプア(働く貧困層)をなくし、ワークシェアリング、労働時間短縮による生活の質の向上を実現するには、対症療法ではない抜本的な雇用改革が必要だ。欧州では、政府、経済界、労働組合が合意してつくった「オランダ・モデル」「デンマーク・モデル」などの事例もある。国情の相違はあるものの、参考にすべき点は多い。各政党は英知を結集し、国民に具体案を示してほしい。
将来への安心を確保しなければ、内需の拡大も、少子化に歯止めをかけることも望めない。憲法が規定する社会権を現実化し、真の福祉国家を建設することが求められている。
社説:憲法25条の今 生存権、空洞化させるな
[中国新聞 2009/5/3]
すべての国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利がある、と憲法25条はうたう。しかし派遣切りなどで収入が絶え、すみかも失った人には、この条文はどう響くだろう。
世界第2位の国内総生産を誇る国で「貧困ライン」以下の所得しかない人が約15%に及ぶ。先進国の中では米国に次いで高い。憲法の保障する「生存権」の内実が問われている。
昨年末の「年越し派遣村」は象徴的な光景だった。仮設テントに集まったのは500人。寮を追い出されるなどして屋根の下で正月を迎えられない人たちの多さに、世間は衝撃を受けた。
働く人の3人に1人は、不安定な「非正規」。しかも細切れ雇用となると、失業保険や健康保険に入りにくい。解雇されたり病気をしたりしたら、すぐさま生活に困窮する。しかし生活保護もすんなりとは受給できない。
派遣村があぶり出したのは、働く人の足場のもろさ、そして安全網の不十分さだ。村長の湯浅誠さんが言うように、まさに「滑り台社会」である。
当初、こうした人たちは必ずしも温かい目で見られたわけではない。それは自己責任、つまり努力が足りない、と思われたからである。しかし貧困の責任は本人だけにあるのだろうか。
不安定な派遣という働き方を多業種に広げたのは小泉内閣の「規制緩和」だ。正社員のいすが減って「努力すれば得られる」というものではなくなった。年長者の雇用を守るため、若い人が労働市場からはじき出された。
このまま貧困層が増えればどうなるか。社会が二分化し、優しさや思いやり、一体感という日本の持っていたよさが失われ、ぎすぎすした国になるだろう。自殺や、社会にやいばを向ける事件がさらに増えることも予想される。
とすれば貧困は個人のせいとして片づけずに、社会に突き付けられた問題と受け止めなければなるまい。そうした見方も徐々に広がろうとしている。
当面必要なのは、滑り落ちた人のための「階段」である。相談窓口と緊急の避難所をセットで設ける。小口の貸付制度を使いやすく、アパートを借りやすくする。そうした細かい施策が、はい上がる足場になる。
貧困を生み出す構造にも切り込まなければならない。強者に都合のいい規制緩和の負の部分を、どう修正するか。生活できる賃金をどう保障していくか。
大きく開いた貧富の差も縮めなければならない。所得が2500万円以上になると所得税、社会保険料、消費税の3つを合わせた負担率は下がっていくとの試算がある。所得の再配分が急がれる。
62年前のきょう、憲法が施行された。貧困の原因は社会の経済制度そのものの中にあり、手当ては国の責務―という姿勢が明快だ。そこで打ち立てられたのが、人間の尊厳に基づく「生存権」だった。空洞化させてはならない。
憲法/「生存」の土台見つめ直して
[河北新報 2009年05月03日日曜日]
失業する人が急増している。この社会の安全網はもろく、そのまま貧困を拡大させる。あすはわが身か。不安が膨らむ。
切迫感はそこまで大きくないにしても、ミサイルを発射した隣の独裁国家の不快な言動も波紋を広げている。「核には核を」といった国内の短絡的な反応も含めてのことだ。
生活と平和。脅かされてはならない暮らしの土台が揺さぶられている。わたしたち国民一人一人の「生存権」が揺らいでいるのではないか。憲法の言葉遣いに倣えば、そう問い掛けることもできる。
わたしたちは憲法の研究者ではないのだから、条文の一つ一つ、一字一句に関心を寄せて日々を過ごしてはいない。
しかし、暮らしの心配事を掘り下げていけば、その問題は必ず、憲法の基本的な精神に行き当たる。大事なそのことを、生活そのものと平和にまつわる不安が増す今、あらためて思い起こしておきたい。
総務省が1日に発表した3月の完全失業率は4.8%。前の月より0.4ポイント、さらに悪化した。完全失業者は335万人に達し、ついに300万人を上回る事態になった。
昨年秋以降、さまざまな統計数値が、雇用不安の深刻化、貧困の増大を示してきた。年末から各地に出現した「派遣村」の光景は、国の安全網の乏しさを象徴的に見せつけた。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。憲法25条が規定するわたしたちの生存権が脅かされている。
政府に問おう。「社会福祉、社会保障の向上、増進」を国に義務付けたこの条文を、これからどう具現化するのかと。
「謝らなければ、核実験を再開する」。隣で北朝鮮がそう叫んでいる。先月のミサイル発射後、国連安全保障理事会が非難の議長声明を採択したことへの警告のつもりのようだ。
永田町に、声高な調子で対抗策を論じ始めた人たちがいる。「核に対抗できるのは核だけだ」「敵地攻撃能力の備えも議論しなければ」
憲法の前文(「平和のうちに生存する権利」)や9条に表される「平和的生存権」にこだわらないわけにはいかない。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こらないように決意」(前文)した戦後社会の出発点を忘れるわけにはいかない。
平和的生存権は具体的な権利ではなく、憲法の理念をうたったにすぎないという議論がある。イラクへの自衛隊派遣が違憲かどうかが全国11の地裁で争われ、先月、最後の地裁判決が出た一連の訴訟をはじめ、司法判断も分かれている。
しかし、わたしたちにとって学説や判例をめぐる論争の行方は重要ではない。平和が破壊されてしまえば、最低限の暮らしを営む生存権だって保障されるはずがないではないか。その明白な前提こそが重いのだ。
憲法を教典のようにあがめ奉る必要はないが、「生存」にかかわる盾として生かす視点を、もっと大事にしたいと思う。
憲法を生かす(2) いのちの土台立て直せ
[信濃毎日新聞 5月3日(日)]
職を失うと同時に住まいも追い出され、路頭に迷う人々…。年末年始の「年越し派遣村」と似たような光景は、いまも各地で繰り広げられている。
「もう貯金を取り崩している。これで休みが増えれば生活保護も考えないと」…。4月25日付本紙朝刊に紹介された県内企業に勤める契約社員の言葉が、重く響く。生産調整で長期休業に入らざるをえなくなった。母と認知症の祖母を抱える女性である。
〈屋根屋根の夕焼くるあすも仕事がない〉栗林一石路
小県郡青木村出身の俳人が戦前に詠んだ句が、すとんと胸に落ちる。いつのまにか日本は、そんな社会になっていた。<「自殺大国」の汚名>
自殺者は毎年3万人を超える。先進国のなかでは「自殺大国」だ。働き盛りの男性が、経済的な行き詰まりから命を絶つケースも目立っている。
お金のないお年寄りは、満足な介護も受けられない。劣悪な施設に送り込まれ、火災に遭う悲惨な事故も起きている。人間らしい暮らしを支える「土台」が、ことごとく崩れてしまった。
憲法25条に定めた「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」は、あまりに軽い。生存権の空洞化ともいうべき寒々とした風景が広がっている。
かつて「1億総中流」と呼ばれた社会が、なぜここまで劣化してしまったのか。原因を探り、立て直しを図らなければ、ますます生きにくい国になるだろう。<安全網が破れる>
大きな要因の1つは、政府が労働のあり方を変えたことだ。特定の業務に限られていた派遣労働を1999年に一部を除いて原則自由化し、2004年には製造現場にも解禁した。
雇用保険の整備や転職の支援策といった安全網(セーフティーネット)をおろそかにしたまま、企業に都合のいい「調整弁」を整えてきたのだ。
今回の不況で「派遣切り」や「雇い止め」が広がり、1日の暮らしにも困る人々が急増しているのは、こうした背景からだ。
政府はいまになって雇用保険の補強を始めたが、遅きに失した。安全網を張り直すとともに、派遣労働の是正を含めた抜本改革が必要だ。
要因の第2は、社会保障政策の貧しさである。とくに06年の「骨太の方針」で社会保障費を毎年2200億円圧縮する方針を打ち出し、政府の後ろ向きの姿勢が一段と鮮明になった。
「高負担・高福祉」のフィンランドと比較した本紙の特集記事(2月4日付朝刊)が興味深い。
税金と社会保険料を合わせた国民負担率が日本は約40%、フィンランドの約60%と比べて低い。一方、社会保障給付費の対国内総生産(GDP)の比率は、日本の約18%に対して、フィンランドは約26%と高い。
日本はフィンランドなどと比べると、「低負担・低福祉」の国なのだ。見方を変えれば、少子高齢化が急速に進んでいるのに、それに見合った社会保障改革を怠ってきたということでもある。
職を失ったり、資産がなかったりすると、非人間的な状況に一気に転落する。派遣村の村長を務めた「反貧困ネットワーク」事務局長の湯浅誠さんが名付けた「すべり台社会」が、国民の暮らしを脅かしている。
あらためて、憲法25条をかみしめてみたい。2項に「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と明記している。生存権を保障するさまざまな政策を、国に要請する条文である。<自己責任の落とし穴>
国は憲法をきちんと受け止め、十分な政策を打ち出してきたとは言えない。この点をはっきりさせておかないと、国民の暮らしを支える安心の土台はいっこうに改善されないだろう。
注意が要るのは、「自己責任」という言い方である。
失業して路頭に迷う人や、お金がなくて行き場を失ったお年寄りに対して、「自己責任」の名の下に政治責任をあいまいにしてきた風潮はなかったか。政府が「自己責任」を強調するとき、憲法の理念を果たすべき行政の役割は棚上げにされがちだ。
「落とし穴」に気をつけなければならない。医療や福祉分野に自己責任論が広がれば、究極の「すべり台社会」が生まれ、すさみきった日本になるだろう。
生きる土台を強くするのは、政治の力である。生存権を柱に据えた日本の将来像を各政党がきちんと示し、国民の審判を仰ぐ――。今度の総選挙こそ、社会保障の中身を競い合うものとしたい。
暮らしの安心が得られれば、経済も息を吹き返すだろう。
憲法記念日 「主権者」とは何だろう
[山陽新聞 2009年5月3日]
きょう3日、日本国憲法は施行から62年を迎えた。与野党の対立で鳴りをひそめていた憲法改正論議だが、改憲の手続きを定める国民投票法の施行まで約1年後となる中で、再び動き始めようとしている。
与党は、2007年に衆参両院に設置されながら休眠状態だった憲法審査会の委員数や議事手続きなどを定める審査会規程制定へ向け働きかけを強めている。衆参で多数が異なる「ねじれ」もあって具体的な改憲への進展は難しい状況で、次期衆院選を視野に党内に護憲派と改憲派を抱える民主党への陽動作戦との見方もあるが、選挙結果次第では加速する可能性もある。
この時期に、憲法をあらためて見詰め直しておく必要があろう。「国民主権」を掲げる憲法の理念は、直面する問題や、私たちの生活の中で生かされているのだろうか。救えぬ安全網
昨年末から年始にかけて東京・日比谷公園に人々の視線が注がれた。突然の解雇で、職と住居を失った非正規労働者たちを救済する「年越し派遣村」である。
「派遣切り」された多くの人々が炊き出しを受け、ごろ寝する。1年で最も厳粛な時期とはあまりにかけ離れた衝撃的な光景は、世界的な経済・金融危機が洗い出した日本の労働構造の脆弱(ぜいじゃく)さだった。非正規労働者は、小泉政権の規制緩和策による製造業への派遣労働者解禁で急増した。それが、大規模な不況に見舞われるやたちまち路頭に迷う大量の失業者を生み出した。
憲法25条は「全ての国民は健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」とする。これに基づいて雇用保険や生活保護などの安全網が一応はある。問題は、これらがうまく機能せず、救済の網に引っかからないことだ。制度の中身や周知不足、役所の「水際作戦」で生活保護が受けられないなどである。
派遣村の村長を務めた湯浅誠さんは「つけを将来に残す」という。厚生労働省によると、昨年10月から今年6月までに失職や、失う見通しの非正規労働者は20万人を超えた。生存権が揺らいでいる。司法参加への挑戦
主権者の位置付けから憲法論議を呼んでいるのが、今月21日に施行される裁判員制度である。
国民から選ばれた裁判員が、裁判官とともに重大な刑事事件の一審を審理、有罪無罪や量刑を判断する。日本の刑事司法にとって画期的なことだが、人を裁く重い問題だけに、立場や考えの違いなどが絡み合う。
反対論が指摘する憲法上の問題点は、国民の司法参加の規定がなく、憲法は裁判官による裁判だけを想定している上、裁判員の職務が憲法の禁ずる「意に反する苦役」に当たるなど。
これに対して賛成論は、参審制度の国でも憲法に規定はないとし、旧憲法の「裁判官の」裁判を受ける権利を、現憲法は「裁判所の」と意識的に改めたとする。また、裁判員の職務も、より良い社会構築への応分の責任で「苦役」ではないなどである。
初めてだけに不安や疑問な点はあろうが、主権者として司法に市民感覚を反映させる意義は大きい。辞退理由の柔軟な運用や、裁判員の守秘義務の再考など問題点を改めながら信頼される制度に高めていかなければならない。理念と現実検証を
憲法は主権者である国民の自由と幸福のための公権力への規範であり、国民生活の根幹をなす重要な存在である。その在るべき像について論議を深めることは大切だ。
しかし、その前に憲法の理念が生かされているか、現実と乖離(かいり)しているなら、そうなった原因は何かなどをよく検証してみることが必要だろう。もし、公権力側が理念をないがしろにしながら、都合が悪いからと改憲に走るならば、もってのほかだ。
それは主権者側の問題でもある。憲法12条は、憲法が国民に保障する自由と権利について、国民の不断の努力で保持しなければならないとしている。主権者にとって、政治や行政に声を届ける最も効果的な手段は選挙権であろう。近づく次期衆院選などで「物言う主権者」としての一票を行使したい。そのためにも、憲法への関心を一層高めなければならない。
【憲法の生存権】「人間」を政策の中心に
[高知新聞 2009年05月03日08時05分]
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
憲法25条が定める生存権は、人間が人間らしく生きるという、先進国であれば当たり前のことを記している。健やかに育てられ、教育を受け、働いて子どもを産み育て、穏やかな老後を送る。ごく普通の暮らしだ。
その暮らしを守るために、25条は第2項で、社会福祉や社会保障などの向上に努める国の義務を定める。だが終戦後の大量失業、激しいインフレや食糧難の時代には、各種の制度は貧弱なままだった。
生活保護や健康保険、年金などの社会保障制度は、戦後復興期、高度成長期を経て、徐々に整えられてきた。福祉や社会保障の水準は、時々の経済情勢と政府の経済政策に大きく影響される側面がある。
そしてバブル崩壊と「失われた10年」を経て、昨年末、人々に衝撃を与えたのが「年越し派遣村」の光景だった。職と住まいを一瞬にして失い、寒空の下に放り出される。国民の生存権が危機にひんしている状況を、象徴的に見せつけた。
貧困層の増加はそれまでにも、生活保護世帯の急増やワーキングプア(働く貧困層)などの形で現れていた。米国発の金融危機を受けた世界的不況で、蓄積されていた矛盾が一気に噴き出たようだった。
働くことは人間が生きていく上での基本であり、生存権を考える上で、派遣など非正規労働者の問題は避けて通れない。いまや労働者の3人に1人以上が非正規労働者だ。
国の経済政策との関連では、労働分野の規制緩和が進み、2003年に派遣の対象業務が製造業にも拡大されたことが大きい。その源流には1995年、当時の日経連がまとめた、正社員が基幹業務を、それ以外の業務を非正規が担うとする将来像がある。
企業にとって望ましい雇用環境をつくり、世界との競争に打ち勝つことによって経済成長を維持する。政府の構造改革路線がそれを後押しした。基本的人権の重さ
「モノは使われれば捨てられるが、人は捨てられても生きてゆく。社会は彼らをどうするのか。次の世代を誰が担うのか」
「派遣村」村長で反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠さんは、貧困は社会の存続にかかわる問題だという。
きのうまで普通に働いていた人が突然、滑り台を落ち、はい上がれない。社会のセーフティーネット(安全網)がほころび、網からこぼれ落ちている人は膨大な数に上る。
労働者だけではない。生活保護では「母子加算」や「老齢加算」の減額・廃止も、生存権をおびやかす問題として浮上した。こうした人たちが生きていくにも膨大な社会費用がかかる。その負担を次の世代に回すなら、少子化に拍車がかかり、社会が先細りする負の連鎖に陥りかねない。
政府は、国民が人間らしく生きていける社会が岐路に立っていると強く認識すべきだ。いくら企業の業績が回復しても、基本的人権が軽んじられるような仕組みのままでは意味がない。経済や社会保障の政策の中心に「人間」を据え直す時ではないか。
生存権の危機は特別な人にだけ起こるのではなく、安易な自己責任論ではかたづけられない。「すべて国民は」という基本的人権の重さを、社会全体で憲法記念日にかみしめたい。
あす憲法記念日 国民の権利を問い直そう
[岐阜新聞 2009年 5月 2日(土)]
日本国憲法はあす、施行から62年を迎える。来年5月18日には国民投票法が施行され、憲法問題は新たな段階に入る。
声高な改憲論議はその後、鳴りを潜めているが、当たり前だと思っている自分たちの権利や自由が侵害されていないかどうか、憲法の意義と大切さをあらためて考えたい。
国民投票法は2007年5月に成立した。改正原案を審議する憲法審査会が衆参両院に設置されたものの、与野党対立の中で宙に浮いたままだ。審査会規程の制定は見通しが立たず、立法府としての不作為が続くことは好ましくない。
同法は投票年齢を18歳とし、民法の成人年齢や公選法の投票年齢(いずれも20歳)など関係法令を見直すよう求めた。
だが、法制審議会での議論はまとまらず、18歳投票は来年の施行に間に合いそうにない。
憲法は15条で「成年者による普通選挙を保障する」と規定している。改憲の必要はないのだから、投票年齢の引き下げは難しいことではない。世界の大半の国が18歳で選挙権を与えている。若者の権利拡大と政治参加を促すためにも早期に実現すべきだ。
現在の国会論議や次期衆院選の争点としては景気対策など喫緊の課題が優先され、憲法問題は脇に追いやられた感がある。しかし憲法の理念に立ち返って問い直すべき問題は少なくない。
憲法25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあるが、昨年来の容赦ない派遣切りや年収200万円以下のワーキングプアの増大は、生存権すら脅かしている。
25条に基づく代表的な法律が生活保護法だ。窓口での対応が少しは弾力的になったとはいえ、財源不足などから受給はまだ不十分だ。
同条2項は国による社会福祉、社会保障の増進をうたっている。年金、医療、介護など国民が安心できる保障制度を確立することは政府の重要な責務だ。同時に、持続可能な制度づくりは党派を超えての課題である。
憲法は国家権力に一定の権限を授けるとともに、権力を制限することで国民の権利と自由を保障している。後者にこそ立憲主義の本質があり、「すべて国民は、個人として尊重される」(13条)ことを再認識したい。権力は暴走しがちであり、表現や思想・良心の自由は「国民の不断の努力によって保持しなければならない」(12条)ことも確かだ。
戦後の平和の礎となった9条をめぐる議論は絶えず続いている。自衛隊の海外派遣はソマリア沖などで活動するための海賊対処法案が成立すれば、また歩を進める。海賊行為は本来、周辺国の警察力で取り締まるのが筋であり、自衛隊派遣は抑制的であるべきだ。
北朝鮮ミサイル発射に対抗する形で、専守防衛の枠を超えた敵基地攻撃論や核保有論が自民党幹部からまたもや飛び出したが、悪乗りと言うほかない。
核超大国のオバマ米大統領が核廃絶への決意を表明しているのに、時代に逆行する発言が唯一の被爆国でなされるのは残念だ。
憲法前文は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、…」と戒めている。主権者である国民は政治が判断を誤らないよう、厳しく監視していく必要がある。
憲法記念日 暮らしの向上に生かそう
[徳島新聞 5月3日付]
日本国憲法はきょう、施行から62年を迎えた。
戦争の惨禍を経て生まれた憲法は、国民を抑圧した戦前の反省から、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3つを基本原則にした。
大事なことは国民が決める。国民が幸せに暮らせるよう、さまざまな権利を保障する。国が2度と戦争をしないよう、厳しい歯止めをかける――。簡単に言うと、こんなふうになるだろう。
憲法記念日に当たり、それらに込められた重い意味をあらためて胸に刻みたい。
時代の変化に合わせて憲法を改正すべきだという意見もある。議論の中心になってきたのが、戦争放棄などをうたった九条である。特に2年前までは、安倍晋三元首相が改憲を政権の重要課題に掲げたこともあり、論議が盛んに行われた。
当時に比べると今は静かだ。だが憲法を取り巻く状況は少しずつ変わってきている。来年5月には改正手続きを定めた国民投票法が施行され、改正の法的環境が整う。
問題なのは、多くの国民が気付かないうちに、なし崩し的な「改正」が徐々に進められていることだ。その1つが、海賊から船舶を守る目的で自衛隊をソマリア沖などに派遣する海賊対処法案である。
これまでの自衛隊の派遣では、テロ対策特別措置法のように法律をその都度作っていた。しかし法案が成立すれば、海賊対処のためなら随時、どこにでも出せるようになる。
武器使用の基準も緩くなる。現在は相手が攻撃してきた際などの正当防衛か緊急避難に限っているが、警告射撃に従わずに民間船に接近し続ける海賊船への射撃も認められる。
政府は、海賊行為は犯罪だから武器を使っても憲法が禁じる武力行使にはならないとしている。だが、これを突破口に武器使用基準を広げたいとの思惑も透けて見える。
揺らいでいるのは9条だけではない。基本的人権である生存権を定めた25条も危機にひんしている。
象徴的なのが非正規労働者だ。構造改革の名の下に進められた規制緩和で急増し、景気が悪くなると真っ先に切り捨てられた。昨年十月から来月末までの失業者は20万人を超えるという。
昨年暮れに東京・日比谷に設けられた「年越し派遣村」に大勢の人が押し寄せた光景は記憶に新しい。
生活保護の受給者は今年1月時点で162万人にも上る。4月からは、収入が最も少ないとされる母子家庭に支給されてきた母子加算が廃止された。
豊かであるはずの経済大国で貧困が深刻な社会問題になっている現実は、社会保障制度の脆弱(ぜいじゃく)さを映し出していると言える。
25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とし、国に社会保障の充実に努めるよう義務付けている。
憲法は、私たちの暮らしに直結する問題と深くかかわっている。しかし、せっかくの理念や条文も、使わなければ役に立たない。なし崩しの改正は許さず、憲法を大いに活用し、生かしていきたい。
社説:憲法記念日/生存権が輝き増すように
[北日本新聞 2009年05月03日]
憲法25条がうたう生存権がクローズアップされることが多くなった。「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。もっぱら語られるのは、この理念とかけ離れた社会の現状だ。象徴的だったのが、年末年始に東京・日比谷公園に設けられた年越し派遣村だろう。
昨年秋以来の急激な経済の落ち込みを受け、派遣村には失業者、ホームレスら約500人が集まった。この数字が暗示しているのは、職を失えばあっという間に自力で生活することが困難になる人の多さである。派遣村村長の湯浅誠さん(反貧困ネットワーク事務局長)は、安全網が欠けたまま貧困に滑り落ちてしまう「すべり台社会」と表現する。
本紙などが加盟する共同通信社が開いた憲法講演会で、湯浅さんは貧困の現場から見える日本社会の現状を嘆いた。派遣切りに遭った人の例が分かりやすい。生きていくため日々の金と住まいがいる。月給仕事はまず選択肢から消え、寮付き日払い仕事が一番合理的な選択となる。貧困が固定化し、労働市場も壊れていくという負の連鎖に陥りかねない。「日本社会の存続にかかわる問題としてとらえなければならない」という。
自殺者が再び増加傾向にあるのも、こうした状況と無関係ではあるまい。国内では自殺者が11年連続で3万人を超えている。警察庁のまとめでは、今年1?3月は計8,198人で、前年同期を300人余り上回る。今年も3万人を超えてしまいそうなペースである。県内も同様の傾向で、今年1?3月に87人が自殺し前年同期を16人上回っている。突然職を失う人が増え、それが自殺の増加に結びついているとしたら何ともやりきれない。
自殺原因は経済問題ばかりではないにせよ、世界有数の経済大国のはずが、自殺死亡率の高い有数の国でもあるのは憂慮すべきことだ。6月までに職を失う非正規労働者が、昨年10月からの合計で20万人を突破する見込みという。リストラの波は正社員にも容赦ない状況となっている。生活苦による自殺者を水際で食い止める対策を講じねばなるまい。国や地方自治体によるセーフティーネット(安全網)の「網の目」をより細かくすることが必要だ。
生存権を保障するのは国の社会的使命である。政府は過去に例のない大型の追加経済対策を含む補正予算を提案している。当面の危機脱出策、将来にわたる成長戦略が欠かせないが、安全網への目配りこそ社会の底力をつけ、不況を乗り切る足腰の強さにつながるのではないか。
きょう3日は憲法記念日である。来年5月に国民投票法が施行されるが、国会での憲法論議は停滞したままとなっている。憲法審査会の委員数や手続きを定める委員会規程の制定を与党が提案しているが、野党と入り口でもみ合っている状況だ。そもそも、憲法改正に向けた動きが国民的うねりとなっているとは言い難い。
生存権に代表されるように、広く国民生活に現憲法の理念が生かされているか、足元を丹念に検証することが求められる。
社説:喪失の時代と憲法 日本再生の指針として
[新潟日報5月3日(日)]
大不況の中、憲法施行から62年を迎えた。憲法を、私たちの社会を立て直す指針としてあらためて位置付け直す必要がある。いま、痛感させられるのはそのことである。
大企業が利益確保のために雇用を切り捨て、暮らしを脅かす。なのに、政治からは危機感が伝わらない。北朝鮮のミサイル発射をめぐり、「戦争ごっこ」のような騒ぎが起こる。
経済だけでなく、社会全体の底が抜けそうな寄る辺なき時代である。喪失の時代といってもいい。再生の鍵は憲法の精神に立ち返ることだ。そこに規定された平和と民主主義こそが、人が人らしく生きる土台だからだ。最も強力な安全網だ
憲法を読み込めば、それが私たちにとって最大のセーフティーネット(安全網)であると分かる。
25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と、生存権をうたう。雇用崩壊が叫ばれるいま、最も注目されている条文である。当初の連合国軍総司令部(GHQ)案にはなく、修正追加された日本独自のものという。
これに照らせば、国民が生活できる権利をきちんと保障することは国に課せられた責務なのである。
だが、実態はどうか。規制緩和の号令の下、労働者派遣法の対象職種拡大は製造業にまで行き着き、その後の景気悪化によって大量の派遣切りにつながった。企業の都合で簡単にクビを切られる雇用環境では、生存権が重んじられているとはいえない。
職を奪われ、企業から与えられていた住まいを追われる。派遣切りは多くの生活困窮者を生んだ。こうした人々のよりどころになったのが、労組や市民団体が設けた「派遣村」である。国や大企業の不始末を民間の善意がカバーする。これでは順序が逆だ。気付いたらでは遅い
憲法は国の「背骨」である。にもかかわらず、日本を取り巻く情勢が変化するにつれて憲法が時代遅れであるかのような指摘が勢いを得ている。雇用不安や貧困問題は、憲法軽視の空気と無縁とはいえないのではないか。
戦後日本が守り続けてきた平和の礎となってきたのは、戦争放棄を定めた9条である。改憲論議では必ず焦点となるこの条文も、自衛隊の海外派遣など、なし崩し的な既成事実の積み重ねによってその力をそがれている。
海賊対策として海上自衛隊がソマリア沖に派遣され、現地では警護活動が行われている。しかし、派遣の根拠となる法案は国会で審議されている最中だ。こんなあべこべともいえる政府のやり方に対しても、憲法違反を問う声は高まらない。
イラクへの陸上自衛隊派遣では、海外での武力行使につながりかねないなどとして批判がわき上がった。自衛隊の海外派遣に対する慣れが、今回の状況を生むことになったのだろうか。
政府の短絡的な対応は思慮のなさを示すものだ。一方、世論が歯止めとならない現状も気掛かりである。
撃ち落とせる。それは無理だ。4月5日の北朝鮮によるミサイル発射を前に、こんな論争が政府内で持ち上がった。日本のミサイル防衛システムの能力をめぐるものである。
冷静さを忘れ、ミサイル発射を控えて高揚しているかのようだった政府の対応は何に由来するのか。平和憲法とのあまりの落差に驚くばかりだ。
気が付けば9条は有名無実化し、いつか来た道を歩んでいた。そうならないよう目を凝らさなければならない。総選挙で大いに語れ
主権は国民にある。恒久平和を念願する。国民に多大な犠牲を強いた戦争への反省を背景に生まれた憲法の根底には、1人1人が大切にされる社会を目指すという確固とした意志が宿っているといっていいだろう。
ただし、それを生かせるかどうかは国民の側に懸かっている。憲法を大事にしたいと願うのなら、政府がその理念を尊重しているかどうかを注視する必要があるからだ。
秋までには必ず総選挙が行われる。政党や立候補者に望みたいのは、憲法に対する自らの姿勢を明確に示してほしいということだ。
来年5月には国民投票法が施行される。憲法改正原案を審議する国会の憲法審査会の委員数などを定める規程制定への動きも活発化し始めた。憲法論議が再燃する可能性がある。
改憲は自民党の党是だ。民主党では集団的自衛権など安全保障問題で議員の考えに隔たりが大きい。選挙で憲法が語られないまま、改憲論議が進んでしまうようだと困る。憲法を無視するようでは、生活に根差した国政運営など期待できない。
「民主々義の〈民〉は庶民の民だ。ぼくらの暮しをなによりも第一にするということだ」。「暮しの手帖」編集長だった花森安治さんはこう書いた。
民主主義を、庶民を、暮らしを、平和を大切にする政治かどうか。社会の土台が揺らいでいるからこそ、憲法を通してそのことを確かめたい。
社説:憲法記念日/もう一度、暮らしの隅々に
[神戸新聞 5/3 09:47]
先が見えない同時不況に、新型インフルエンザが追い打ちをかける。不安が世界を覆うなか、きょう憲法が施行62年を迎えた。ひところの改正機運は薄れている。しかし、相次ぐ危機に暮らしが激しく揺れる今、憲法を意識する機会はむしろ増え、掲げた理念がいよいよ大切に思える。
私たちの憲法をもっと根付かせたい。その決意を固め直す日だ。◇
「災害の直後、自らの弱点をのぞきこめる『窓』がわずかの間だけ開く」。米ノースリッジ地震(1994年)の報告書にある指摘だが、「災害」を「危機」と置き換えても通用するだろう。
世界金融危機の引き金となったリーマンショックから3カ月。年末の日比谷公園に現れた「年越し派遣村」は、この国にひそむ弱点を象徴的に示すものだった。
危機の拡大を前にして、企業は競うように「派遣切り」に走った。仕事がなくなれば住まいもなくなる。雇用保険も資金の貸付制度も十分機能せず、行き場を失う。そんな多くの人が派遣村に身を寄せた。
憲法25条は「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と記す。生存権と呼ばれるものだ。
しかし、生活の安定があっという間に崩れ、政治は後追いの対応しかできない。
憲法をよりどころにしたはずの国づくりが、一皮めくれば底の浅いものだったのではないか。派遣村という「窓」から見えた国の現状は、そんな疑問を抱かせた。人権が揺れている
憲法は国民1人1人の人権を守り、人間らしい生活を保障する。だが、最近はそれに背くような動きが多すぎる。
職を失う非正規労働者の増加に比例するように生活保護受給者が増え、この1月には約162万人に上った。年収が200万円以下の人は1,000万人以上といわれる。
公的な支援システムの不全が新たな貧困層を生んでいく。親の経済格差が子どもの教育格差につながっていく。
その先にあるのは格差が固定され、若者は希望がもてず、一体感も消える社会だろうか。だとするなら、憲法がうたう人権や人間らしさは遠くにかすんでしまう。
経済危機の克服に向けて、麻生首相はかつてない規模の景気対策を打ち出した。しかし、国が抱える膨大な借金を考えれば、いずれ負担増か福祉水準の引き下げが避けられないのではないか。そう感じる国民は少なくないだろう。
福祉サービスの利用を原則1割負担とした「障害者自立支援法」は、憲法違反だとする訴えが相次ぐ。これ1つとっても、理念と現実との間に生じた亀裂は深い。
難局を打開する展望がないまま弱い立場の人たちへのしわ寄せが強まり、暮らしを守るべきセーフティーネットにも欠けている。これでは、とうてい政治が責任を果たしたとはいえない。
「季節は春へと向かっているが、社会はますます冬へ向かっている。折り返し点はまだ見えない」。少し前、73歳の男性が本紙に寄せた投書でこう指摘していた。
たとえ景気が回復しても、温かさに欠ける高齢者医療やワーキングプア、限界集落といった問題が残ったままでは喜べない。後を絶たない子どもへの虐待や「ネットいじめ」の横行など最近の世相が、その嘆きを深くしているのかもしれない。
憲法には戦後日本の理想と目標が詰まっている。国民主権、平和主義とともに基本的人権の尊重は根幹であり、社会がどう変わろうとも守り抜くべきものだ。それが空洞化しつつあるようなら、「自らの弱点」では済まなくなる。問われるのは政治
憲法改正の手続きを定めた「国民投票法」の施行が、1年後に迫った。
衆参の「ねじれ」もあって、停滞していた論議は総選挙後に動きだす見通しだ。常に議論の中心にあった第九条などをめぐり、活発なやりとりが再開されるだろう。
だが、まず国民生活の視点から憲法の存在を洗い直すべきではないか。
グローバル化が進み、遠い国の変調が大きな波となって日本に押し寄せる。金融危機で思い知ったことだ。足元では超高齢化とともに人口減が現実になってきた。
そんな社会のなかで、私たちの生活は憲法がうたう通りになっているのかどうか。それをきちんと見極める必要がある。
地方は今、自治体の財政難や地域経済の停滞にあえぐ。「地方自治の本旨」に基づく自治、分権がどこまで実現しているだろう。「表現の自由」や「知る権利」が揺らいでいるのでは、との懸念も消えない。
憲法の中身を問う前に、憲法を尊重し、精神を実現すべき政治が問われる。その自覚を忘れてはならない。
先の米報告書は、「窓」が開いているときには通常ならできない試みが可能になるとも記す。窓から見えた「弱点」を放置してはいけないという戒めだろう。
戦後60年余を経てほころびた部分に目を向け、もう一度、憲法を暮らしの隅々にまで行き渡らせるときだ。
ピンバック: とりから準備室