「兵事書類」というのは、戦前・戦中に全国の市町村役場が徴兵事務をおこなうためにつくった書類のこと。敗戦直後に陸軍が焼却処分を命じたために、ほとんど失われてしまった。
今朝のNHKニュースで、その兵事書類が、長野県大町市、旧社村の民家の土蔵からまとまって発見されたことを紹介していた。特集的なニュースだったので、NHKのサイトを覗いてみても記事は見つからなかったが、代わりに、信濃毎日新聞の記事を見つけた。
大町の兵事書類は「全国有数の量」 研究者が調査 : 信濃毎日新聞
信濃毎日新聞の記事によれば、兵事資料が発見されたのは、昨年12月31日。5月に専門研究者の調査がおこなわれたことをうけての、今回のニュースになったようだ。
前述したように、兵事資料は敗戦直後に処分されたため、いまだに徴兵が具体的にどのようにおこなわれたのか、詳しいことは分かっていない。NHKニュースでは、この社村でもどれだけの村民が徴兵されたのか不明なのだと伝えていた。資料を保管していた故・大日向正門氏は、村の兵事係だったというが、文字通り村人の生命のかかった記録を処分することができず、自宅に隠したのだろう。
詳しい解明が待たれる。
大町の兵事書類は「全国有数の量」 研究者が調査
[信濃毎日新聞 5月21日(木)]
旧北安曇郡社(やしろ)村(現大町市社)役場が戦前に行った徴兵業務などの記録をつづった「兵事書類」が保管されていた大町市内の民家などで20日、東海大の山本和重教授(軍隊社会史)による調査が行われた。この民家からは200点を超える書類が見つかっており、山本教授は「これまで見つかった書類の中でも、総量は全国有数」としている。
兵事書類は、終戦直後に陸軍などの命令で全国の市町村役場などで一斉に焼かれた。戦争責任の追及を回避するためだったとされる。
山本教授によると、現存するのは全国の約20町村分。社村の書類は、役場の兵事係だった故・大日向正門さん=大町市社常光寺=が自宅の土蔵に保管。正門さんが2006年に亡くなった後、長男の功さんが見つけた。また、ことしになって新たに約30点が見つかり、書類は全体で200点を超えた。
調査は、書類を保管している市文化財センターと大日向さん宅で行われた。山本教授は第2次大戦中の動員記録に注目。終戦時に軍部が最も強く焼却を命じた動員関連書類が、1941(昭和16)年から44年までの4年分が残っていることを確認した。軍用馬の動員記録もあり、「人だけでなく馬も戦争に動員されたことが分かる貴重な記録」とした。
新たに見つかった書類の中には、長野県を管轄した金沢師団司令部作成の冊子もあった。兵員の動員手続きなどが詳細に書かれている。現存するのは久留米(福岡県)、名古屋の2師団のみで、この冊子により各自治体でどのような業務が行われていたかが分かるという。
山本教授は「明治期から系統的に書類が残っている。あらためて調査に来たい」と話していた。
2大量の兵事書類見つかる 大町市の旧社村?兵事係が保管
[信濃毎日新聞 2009-01-01 10:28:55]
明治時代から第2次世界大戦が終わるまでの間、旧北安曇郡社(やしろ)村(現大町市社)役場が行った徴兵業務の記録などをつづった多数の「兵事書類」が、大町市内の民家に保管されていたことが31日、分かった。兵事書類は終戦直後、陸軍などの命令により、各県庁や全国1万余(当時)の市町村役場で一斉に焼かれ、まとまった形で残存した例は全国的にも珍しい。
終戦時の文書廃棄に詳しい小松芳郎・松本市文書館長は「文書の多くが焼却されてしまい、戦時下の歴史を明らかにできないでいる」と指摘。旧社村の兵事書類は、徴兵検査や志願兵募集、敗戦直前の防衛準備など多岐にわたっており、庶民が否応なく動員されていく戦争の実相を知る一級資料だ。
残っていた兵事書類は、明治16(1883)年から昭和20(1945)年の年号が付いた167冊。軍や県の指示書などの「兵事関係書類綴(つづり)」、徴兵年齢に達した村民の調書をつづった「壮(そう)丁(てい)名簿」のほか、「軍用保護馬鍛錬関係書類」「防衛召集書類綴」といった題名が付く。
これらの書類は、大戦当時に社村役場で兵事係を務めた故大日向正門さん=大町市社常光寺=が自宅に保存していた。2006年に正門さんが91歳で亡くなった後、長男の功さん(60)が土蔵内で見つけ、現在は大町市文化財センターが保管、整理を進めている。
兵事書類の焼却命令は、中央が連合国側の戦争責任追及を恐れたためと言われる。県内では終戦直後、県庁の戦争関係書類が長野市の裾花川の河原で数日かけて大量に焼かれたことが知られている。県は地方事務所を通じて町村に対し、各種機密書類や「国力判定ノ基トナル如キ数字アル文書」を速やかに焼くよう指示した。
現在も兵事書類が多数残るのは、旧上伊那郡赤穂町(現駒ケ根市)などわずか。旧社村の兵事書類は、強く焼却を求められた動員関係書類も残り、小松館長は「非常に貴重な資料だ」としている。
郷土誌「やしろ」によると、旧社村は1935年当時で、戸数418、人口2216人だった。