雑誌『経済』7月号が「大恐慌から80年 現代の経済危機」を特集。そのなかで、井村喜代子さんが「現代資本主義と世界的金融危機」という論文を書いておられます。
問題のとらえ方の枠組みは、これまでも書かれてきたものと同じですが、リーマン・ショック後の経過をふまえて、あらためてこんにちの世界的金融危機の本質がどこにあるかを論じておられます。
まず「はじめに」で、「今回の世界的金融危機は資本主義の歴史では経験しない新しい失のものであって、これまでの危機とは比べられない深刻な内容をもっている」と指摘し、今回の論文で「今回の世界的金融危機がいかなる意味で資本主義の歴史で例のない新しい質のものであるか、現代資本主義にとっていかに深刻なものであるかを示す」と、その目的を明らかにされています。
第1節「世界的金融危機の根源――現代資本主義の変質・金融の変質」では、初期IMF体制の崩壊後、「実体経済から独立した投機的金融活動」がどのように拡大していったかが振り返られていますが、これまでも井村氏の論稿を紹介しながら思ったことですが、この部分は、単に1970年代以降の世界経済を歴史的に振り返ったものではなくて、それを理論的にどうつかむか、という問題がずばり展開されていて、そういうものとして読まないと、まったく意味がつかめないところです。
ここで理論的に提起されている問題の1つは、金・ドル交換停止、初期IMF体制の崩壊は「米国の経済力の衰退の現れ」ではあるが、そこに「米国の衰退のみを見ると大きな誤りに陥る」という問題。金・ドル交換停止によって、「金保有や国際収支問題にとらわれずに金融の自由化・国際化により米国の金融証券市場の活性化・金融収益膨大化・米国の金融覇権強化を実現するとともに、国際収支から自由になって通貨膨張・信用膨張、財政赤字拡大による経済政策を実施できるようにした」側面をきちんと見ておく必要があるという提起です。
で、この金・ドル交換停止と、レーガノミクス以来の「新自由主義的政策」の展開とは「米国の新しい世界戦略として一体的に把握すべきである」というのが、井村さんの持論。井村さんは、この「米国主導の新自由主義」を次の2点で特徴づけておられます。
- 「経済停滞の原因が大戦後の社会保障、高雇用政策、独占規制、労働者の諸権利拡大による資本と国家の負担増大にあると非難し、あらゆる面での規制緩和・競争市場原理導入」をすすめたこと。
- 米国が、その「規制緩和・競争市場原理主義」を先進諸国、世界中に押しつけて、「国境を超えた自由な金融活動・経済活動」のできる世界に変えようとしたこと。
1点目は、端的にいえば、資本の横暴を押さえてきた社会的なルールをなくそうという動きであり、2点目がいわゆる「グローバリゼーション」の動きになります。
これで、一応アメリカ経済は持ち直す訳ですが、それは金融中心、「規制緩和・競争市場原理による徹底的な効率化・コストダウン」のかぎりでの「経済再生」であって、国内の「技術と産業の本格的立て直しは提起されない」。結果的に、アメリカの「産業空洞化」はますます進み、それがさらに90年代以降の投機的金融活動と結びついて、「実体経済を不健全化」したと断じておられます。
そこで、「実体経済から独立した投機的金融活動」について。
投機とは「価格や金利の変動それ自体から変動差益=投機利益を獲得しようとする取引」のことであり、「資金は一般に借り入れに依存する」。
資本主義経済では本来金融は実体経済の活動(現実資本の運動)のためのものであり、銀行は実体経済の企業に対し資金の融通と信用創造(預金創造)による貸付を行い、実体経済で生まれた利潤の一部を利子として受けとる関係であった。(71ページ)
これは、『資本論』の利子生み資本のところで説明されているとおり。ところが、いまでや金融活動は別のものになってしまったというのです。
しかしいまや金融活動は、実体経済から独立して、金融面そのものでの収益をあげつつ膨大化し、銀行はかかる投機的活動(ヘッジファンドを含む)に対して信用創造を累積していき、金融は実体経済をはるかに上回って拡大していく。筆者がかねてから強調してきた「実体経済から独立した投機的金融活動」の展開である。(同前)
こうなると、デリバティブズでリスク回避と投機とが合体しているように、投機的収益を求める活動が多様なかたちで展開するため、「純粋な『投機』とそうでないものとを区別することは理論的にも〔実体的にも〕困難になっている」という。
そこで、「実体経済から独立した投機的金融活動」の膨大化によって、生み出された莫大な金融資産(2006年には152兆ドル、1京8000兆円。世界の名目GDPの3.2倍)の実体はいったい何なのか、という問題。それが、第3節「金融と実体経済」で取り上げられています。
井村さんが、ここで強調するのは、「膨張する金融資産・金融収益は実体のない『虚』の膨張」だということ。
このように大膨張を遂げた金融資産、金融収益の内実を理論的に考えると、金融資産のかなりは、価値物を生み出す実体経済とは関係なく、投機的金融収益のための金融操作の拡大から膨張したもので、価値物ではない「虚の富」の膨張であり、金融収益膨張のかなりは、かかる金融操作そのものから生じた「価値物ではない虚」の金融収益である。」(78ページ)
このような「虚」の金融資産・金融収益を生み出した仕掛けはなにか。
井村氏は、金・ドル交換停止で通貨膨張・信用膨張に歯止めがなくなったもとで、「銀行が投機的金融活動に対する信用創造を実体経済に対するよりもはるかに高い率で拡大」し、それによって「重層的な“信用膨張手法”が作られていった」からだと指摘されています。(78?79ページ)
「重層的」というのは、「虚」の金融収益が膨らむかぎり、銀行はその一部を受け取りながら、それを根拠にさらに投機的金融活動に対する信用創造を拡大する、という相互促進的な拡大の関係だ。そのさい、簿外取引やSIVによる金融取引の拡大など、「銀行の信用創造ではない、“信用膨張手法”による金融取引膨張がある」とも指摘されています(79ページ)。
で、問題は、「膨張する金融資産・金融収益は、以上のような内実〔つまり実体のない『虚』の膨張〕であっても、購買力をもつものとして現れる」ということ。その結果、実体経済を膨張させていく。住宅ブーム、自動車、家具、電化製品等の大型消費支出などであり、それがまた実体経済の拡大を支えていくことになります。
したがって、この間のアメリカの「景気回復」の正体とは、こうした「『虚』の金融資産・『虚』の金融収益の大膨張をつうじて生みだされた消費拡大であり、実体経済の回復であった」(80ページ)。
今回の経済危機について、たんなる金融危機としてとらえるのではなく、実体経済での過剰生産恐慌と金融危機とが結びついたものとしてとらえる、さまざまな金融的手法をとりながら架空の需要が生みだされていた、それが今回の経済危機の根底にあるとみなければならないということが指摘されていますが、それは、こういうことを指しているわけです。
井村さんは、「おわりに」で、今後の問題についても論及されています。
まず第1に、「今回の金融危機に対して、まず欧米諸国がとった政策の特徴は徹底的な金融救済であった」こと。そのために巨大な公的資金が投入されてきたけれども、それによっても「実体経済を回復させることは決してできない」。
しかし問題はそれだけではない。井村氏は、次のように指摘されています。
…かかる異常ともいえる金融救済は金融機関の資金・信用膨張力を温存させ、「実体経済から独立した投機的金融活動」が新しい分野で新たに活性化し、投機・各種のバブルを生みだしていくことを許すものである。(81ページ)
この指摘は、すでに、原油価格が再び高騰しようとし始めるなど、現実の問題になりつつあります。ニューヨークや東京などでの株価回復の動きも、実体経済の回復を反映したものなどとはとうてい言えない以上、新しい投機の始まりを反映したものなのかも知れません。その点で、井村氏の次のような指摘がこんご非常に大事な争点になってくると思います。
しかし、投機的金融活動を極力抑制し、実体経済の立て直し、安定した国際通貨体制の立て直しをはかっていかないかぎり、世界大での金融救済の拡大と膨大な財政赤字累増による財政ばら撒きは、国債発行難、インフレ、国民負担増の拡大、貧困層の拡大等の危険を生みだすとともに、世界的な投機的金融活動が新しい部面で新しい投機・バブルを発生させていく危険を増幅することになる。(81ページ)
そして、最後にマルクス経済に課せられた課題について、次のように指摘されています。
米欧日諸国が国際協調的に資金供給、、金融機関救済を続け、膨大な財政赤字膨張・巨大規模の財政出動を続けることが、どのような新しい矛盾を生みだしていくのか、を理論的に解明するとともに、本稿で明らかにした現代資本主義の「変質」・金融の「変質」後の「実体経済から独立した投機的金融活動」が生みだした歪んだ経済を根本的に転換させる途を摸索する必要がある。これがマルクス経済学に課せられた緊急の最重要課題である。(82ページ)
ところで、平凡社のPR誌『月刊百科』で、いま斎藤貴男氏が「経済学者に会いに行く」という連載を続けていますが、その第3回、第4回(同誌2009年1月号、2月号)で、井村喜代子氏のインタビューを行っています。
井村さんご自身が「私は取材とか対談は基本的にお断りしているんです」と述べておられるように、ホントに珍しいインタビュー。僕は、この連載で、はじめて井村さんのお写真を拝見しました。(^_^;)
この連載のねらいの1つに、いろいろな経済学者に、それぞれの立場からいまの経済危機をどう見るかということを聞くだけでなく、そういう見方がどういうところから生まれてくるか、背景的なところにまでさかのぼってインタビューする、ということがあるのではないかと、僕は勝手に思っているのですが、実際、連載では、斎藤氏がよく勉強して、そうしたあたりを追究しています。
で、井村さんのインタビューでは、戦後日本経済に与えた朝鮮戦争(朝鮮特需)の影響などを実体験的にふまえながら、井村さんが、日本経済がなぜいまこのようになっているのかを徹底的に追究してこられたあたりを斎藤氏が的確に聞き出しています。
さらに最後には、1930年生まれの井村さんが、戦争体験をとおして「社会科学を学びたい、戦争とは何だったのかを自分で考える力を持ちたい」と思って大学進学をこころざしながら、女性には願書もくれない現実にやむをえず津田塾専門学校の英文科にすすみ、そこから慶応大学の3年次に編入して、経済学者をめざして苦労されたことなども登場します。今でこそ、女性の研究者も決して珍しくはなくなった(といっても、まだまだ少数ですが)とはいえ、井村さんの世代では女性が大学だけでなく大学院にまで進み、その後も研究者として大学に残るというのはどれほど大変なことだったか。
論文の一言一言を厳密に、文字どおり刻みつけるように理論的に詰めて論文を著そうとする井村さんの姿勢がどこから生まれたかに触れたように思いました。