久しぶりのトリフォニーで“変身”

新日本フィルハーモニー交響楽団第450回定期演奏会

昨日は、新日本フィルの定期演奏会へ。6月、7月の定演は諸般の事情で行けなかったので、久しぶりのすみだトリフォニーでした。

プログラムは、以下のとおり。最初はいったいどういう趣向があるかよくわかりませんでしたが、会場でアルミンクのプレトークを聞いてみると、ゲーテがその答えでした。(^^;)←事前にチラシなどほとんど見ない男

  • メンデルスゾーン:序曲「海の静けさと幸ある航海」 op.27
  • R・シュトラウス:メタモルフォーゼン
  • ベートーヴェン:付随音楽「エグモント」 op.84 (全曲)

「エグモント」の全曲も珍しいですが、僕のお目当ては、2曲目の「メタモルフォーゼン」。

R・シュトラウスが1945年、ドイツ敗戦の3週間前に完成させた曲。壊れ去りつつある、偉大なドイツ帝国の葬送曲、といったところでしょうか。最後には、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の葬送行進曲が登場します。もうあと少しで、まったくの不協和音になってしまいそうな、ぎりぎりの音階で、聴く方もかなり疲れる曲ですが、実は、そこが大好きなんです。(^^;)

とはいえ、生演奏を聴くのは初めて。演奏は一応弦楽5部ということになっていますが、実際には、弦楽23重奏、といった感じで、変幻自在。聴く方だけでなく、演奏する側も大変な集中と緊張を強いられる作品だということがよくわかりました。新日本フィルは、その緊張感、不安感を見事に演奏していました。

休憩のあとは、ベートーヴェンの「エグモント」全曲。序曲は有名ですが、全曲を聞くのは初めてです。16世紀のオランダ(当時はスペイン領)の独立運動を描いた作品で、主人公エグモント伯爵は、自由と独立のシンボル的存在ですが、大逆罪でつかまります。恋人のクレールヒェンは市民に立ち上がるよう呼びかけますが、結局、市民は蜂起せず、クレールヒェンは自害し、エグモントは処刑されてしまうというストーリー。

今回は、音楽だけでなく、ゲーテの原詩から日本語での「語り」がつけられ、お話がわかるようになっています。事前には、知り合いから「エグモント全曲? ちょっと退屈するかもよ」と言われていたのですが、決してそんなことありませんでした。

しかし、ストーリーと音楽の展開がわかってみると、あらためて、民族独立の革命的な伝統がある国(民族)とない国(民族)の違いは大きいないなぁ?、と実感。自分たちの自由と権利――当日は「自由と特権」と言っていましたが、「自由と権利」の方がぴったりくるでしょう――のために立ち上がることが決して恐ろしいことでも何でもなく、市民全体の共通した「記憶」となって根づいていることが羨ましくもありました。(もちろん、「エグモント」では、市民が蜂起しなかったために、お話は悲劇に終わるのですが)

ただ、「語り」にマイクを使っていたのが、ちょっと残念。クラシックの演奏会に、マイクで拾った声は似合いません。もちろん、歌ならともかく、長台詞を肉声でホールいっぱいに響かせるのは不可能なのはわかってますが、楽器の音もナマなら、ソプラノのソリストもナマなのに、「語り」だけがスピーカーから流れるというのはやっぱり違和感が残りました。

それにしても、トリフォニーの3階席のお客さんは自由すぎます。隣のおっさんは、ずうっと、鼻をすすり上げ続けるし、その隣のおばさんは、演奏中に双眼鏡を取り出すために、マジックテープの音をバリバリとさせるし、反対側のおばさんは、プログラムを音立ててめくったり…と、とても演奏に集中できるような状態ではありませんでした。困ったもんです…。

【関連ブログ】

「語り」の問題は、東条碩夫氏も樋口裕一氏も、共通して感じておられるようです。それに樋口氏が指摘しておられるお客さんの集中力のなさ、これも同感です。

こっち↓はe+のブログに載ったアルミンクのインタビュー。前編とあるが、後編はどこ?

【演奏会情報】 新日本フィルハーモニー交響楽団第450回定期演奏会
指揮:クリスティアン・アルミンク/ソプラノ:サンドラ・トラットニック/語り:広瀬彰勇/コンサートマスター:崔文洙/会場:すみだトリフォニーホール/開演:2009年9月18日(金) 午後7時15分

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