唐突ですが、新日本出版社の『資本論』を読んでいると、「自己を発現する労働力」という表現がところどころで出てきます。たとえば、第5章「労働過程と価値増殖過程」の冒頭。
【邦訳1】 労働力の使用は労働そのものである。労働力の買い手は、その売り手を労働させることにより、労働力を消費する。労働力の売り手は、労働することによって、"現実に"自己を発現する労働力、労働者となるが、彼はそれ以前には"潜勢的に"そうであったにすぎない。自分の労働を商品に表わすためには、彼はなによりもまず、その労働を使用価値に、なんらかの種類の欲求の充足に役立つ物に表わさなくてはならない。(新日本出版社『資本論』上製版、Ia、303ページ。新書版第2分冊、303ページ)
「発現」とは、「実際に現われ出ること。現わし出すこと」です(『新明解国語辞典』第4版)。つまり、労働力が「自己を発現する」というのは、植物の種が(一定の条件さえあれば)ほったらかしておいても、おのずと芽を出し花開いていくように、労働力も、おのずから、他の助けなしに、おのれの力だけで自分自身を表に現わして、労働となっていくかのようです。
しかし、マルクスは、労働力を、こんなふうにヘーゲルばりの「生きた主体」として、本当にとらえていたのでしょうか? この「自己を発現する労働力」というのは、ドイツ語では sich betätigende Arbeitskraft です。そこでまず、『資本論』第1巻のなかで、この表現が出てくる箇所を調べてみました。
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