核兵器の持ち込みにかんする密約について、1963年にライシャワー駐日大使(当時)が、その公開を働きかけていたことを、当時、同大使の特別補佐官が証言。
核密約 元大使が公開働きかけ : NHKニュース
米 核密約の履行を再三要求 : NHKニュース
核密約 元大使が公開働きかけ
[NHKニュース 11月18日 21時23分 ]
核兵器の持ち込みをめぐる日米の「密約」問題で、1963年、アメリカの当時の駐日大使が、「密約」を公開するよう国務省に働きかけていたことが、元側近の証言でわかりました。
この問題は、1960年の日米安全保障条約の改定の際、核兵器を搭載したアメリカの艦船が日本に立ち寄ることを黙認する「密約」が、日米両国の間で結ばれていたとされるものです。今回、証言したのは、1963年から2年間、アメリカのライシャワー駐日大使の特別補佐官を務めたジョージ・パッカード氏で、「密約」をめぐって、1963年4月、ライシャワー大使と当時の大平正芳外務大臣が会談し、内容をあらためて確認し合っていたことを明らかにしました。
パッカード氏は、NHKのインタビューに対し、「大使はのちにこの会談の成果について満足したと話してくれた。国務省にも会談は成功したと連絡したということだった。大使は、大平外務大臣を尊敬していたし、この問題を処理してくれると考えていた」などと、密約をめぐる会談について、大使から直接話を聞いたときの様子を話しました。
さらに、パッカード氏は、この会談の直前にライシャワー大使が取った行動について、「大使は、密約の問題を公開するよう国務省に打診していた。公開しても、日本の人たちが受け入れると信じていた」と述べ、大使が、「密約」を公開するよう国務省に働きかけていたという新たな事実を明らかにしました。しかし、大使からの申し出は拒否されたということで、パッカード氏は、その理由について、「日本で1960年に安保反対運動が起きてから3年しかたっておらず、国務省は心配していた。日本政府への反発が起こり、日米関係が壊滅的な打撃を受けるかもしれないと考えていた」と述べました。日本とアメリカの間には、このほかにも1972年の沖縄返還をめぐって、アメリカ軍基地の撤去費用を日本が肩代わりすることなど複数の「密約」があったとされ、岡田外務大臣の指示のもと、外務省が現在進めている調査で、事実関係がどこまで明らかになるかが焦点となっています。
米 核密約の履行を再三要求
[ NHKニュース 11月19日 7時6分]
核兵器を搭載したアメリカの艦船の日本への立ち寄りを黙認する密約が日米両国の間で結ばれていたとされる問題で、アメリカ側が日本側に対し、密約の履行を繰り返し求めていたことがアメリカの公文書館で公開された文書からわかりました。
この問題は、1960年の日米安全保障条約の改定の際、核兵器を搭載したアメリカの艦船の日本への立ち寄りを黙認する「密約」が、日米両国の間で結ばれていたとされるものです。3年後の1963年、アメリカのライシャワー駐日大使が当時の大平正芳外務大臣と会い、内容を確認しあったことが関係者の証言などから明らかになっています。
今回の文書は、その後もアメリカ側が日本側に対し「密約」の履行を繰り返し求めていたことを示すもので、外交史研究家の新原昭治さんらがアメリカの公文書館で見つけました。それによりますと、1964年9月にライシャワー駐日大使が前の外務大臣だった大平氏とこの問題についてあらためて話し合ったほか、1968年1月には後任のジョンソン駐日大使が当時の外務省の幹部らと協議しました。いずれの会談でも日本政府が直前の国会で核兵器を搭載したアメリカの艦船の立ち寄りについて、「核兵器の持ち込みにあたり容認できない」という内容の答弁をしたことが議題となり、アメリカ側は「両国間の秘密了解と明らかに矛盾している」などとして、密約の確認を求めたということです。
日米両国の間には、このほかにも1972年の沖縄返還をめぐってアメリカ軍基地の撤去費用を日本が肩代わりすることなどの「密約」があったとされ、外務省で現在、調査が進められています。
しかし、この後の方の記事は、実は、「しんぶん赤旗」が11月2日付で報道していたもの。2週間以上遅れて「ニュース」として流すって、NHKは何を考えているんでしょうか?!
核密約 米が再三圧力/63年に続き64年も 解禁文書で判明 : しんぶん赤旗
核密約 米が再三圧力/63年に続き64年も 解禁文書で判明
[2009年11月2日 しんぶん赤旗]
日本への核兵器持ち込み密約に関し、日本政府の閣僚が1964年9月に核積載艦船の寄港は事前協議の対象になると発言したことに対し、米政府が「密約違反」として日本側への抗議・申し入れを決め、ライシャワー駐日大使が前外相の大平正芳自民党副幹事長と会談していたことが分かりました。国際問題研究者の新原昭治氏が入手した米政府解禁文書で判明しました。
60年の日米安保条約改定時に結ばれた核密約を日米間で再確認したものとしては、63年4月4日の大平(当時は外相)・ライシャワー会談がよく知られています。しかし、64年にも密約の再確認が行われていたことが詳しい経過とともに分かったのは初めて。米政府が核密約に徹底して固執し、日本政府を監視下に置いて、密約に反する言動に対しては変更を迫る干渉を繰り返していたことを示しています。
日米両政府は64年8月28日、米原子力潜水艦の日本初寄港で正式合意。日本政府は原潜に搭載される対潜水艦用ミサイル・サブロックの弾頭が核弾頭であることを明らかにし、大問題になります。これを受け、鈴木善幸官房長官、椎名悦三郎外相、小泉純也防衛庁長官が国会などで、サブロック搭載原潜の寄港は事前協議の対象になり、寄港は認めないと言明します。
新原氏入手の米国務省極秘文書(64年9月4日)は、これらの言明が核兵器積載艦船の寄港は安保条約に基づく事前協議を必要としないとした「(日米)両国間の秘密了解と明らかに矛盾している」と指摘。日本政府の最高レベルに対し、米政府の「深刻な懸念」を表明するよう在日米大使館に訓令が発せられたことを明らかにしています。
訓令を受け同大使館はライシャワー大使が椎名外相らと会談することを検討。国務・国防両省はこれを了承するとともに、63年に外相として密約の確認をした大平氏に接触することを提案します。
ライシャワー大使は64年9月26日に大平氏と会談し、日本側は再び密約の確認をさせられます。
日本政府が60年に核密約を受け入れ、調印したことを盾に米政府が干渉を繰り返し、日本国民に対する日米合作のウソが固められていくことになったのです。【解説】安保絶対外交の始まり
核兵器持ち込み密約に反する日本政府の発言に対し、密約の確認を求める米政府の繰り返しの干渉は、どのような結果を生んだのでしょうか。
米側の干渉は、1963年の際も、64年の際も、米攻撃型原子力潜水艦の日本初寄港問題をめぐって起こりました。
63年4月4日に核密約の内容を再確認した大平正芳外相とライシャワー大使との会談の場合、米側が同年1月に原潜寄港を正式に申し入れた問題に関する、日本政府の国会答弁が発端でした。
池田勇人首相は、核積載原潜の寄港を認めないと言明。志賀健次郎防衛庁長官は、米艦船・航空機による核兵器の持ち込みは事前協議の対象になると、密約に反する見解を示します。ところが、大平・ライシャワー会談後の答弁は一変。原潜寄港は「事前協議の対象にならない」との言明が繰り返されます。(表の(1))
64年の場合も同じです。
日本政府が同年8月28日に寄港受け入れを正式決定した原潜には近い将来、対潜水艦核ミサイル・サブロックが搭載されることが判明。鈴木善幸官房長官や椎名悦三郎外相らがサブロック積載の原潜寄港は事前協議の対象と述べます。しかし、9月26日のライシャワー・大平会談後の国会答弁は大きな後退を見せるのです。(表の(2))
こうした一連の経過は、米政府の圧力に唯々諾々と言いなりになって国会答弁まで変えてしまう日本政府の対米追随ぶりを示すとともに、日米安保絶対の「思考停止」外交の始まりとなります。
日本政府の核持ち込みと事前協議をめぐる国会答弁はその後、日米の共謀で、米国との「信頼関係」を強調しつつ、“米側から事前協議の申し入れがないので核持ち込みはない。日本側からあえてただすつもりはない”というものに定着していくのです。
一方で、日本政府が核積載艦船の日本寄港が事前協議の対象になると、密約に反する答弁をせざるを得なかったのには、日本国民のたたかい、野党の徹底した追及がありました。
例えば、在日米大使館の機密電報(64年3月9日)は、野党議員が米艦船の核持ち込み問題で「大平(外相)を窮地に追い込むことに成功」したと指摘しています。
そこには、日本国民にウソをつき続けてひそかな核持ち込みを保証しようとした核密約の本質的矛盾が示されています。(榎本好孝)■核持ち込み問題をめぐる政府答弁の変化
(1)1963年
池田勇人首相「核弾頭を持った潜水艦は寄港を認めない」(3月6日、参院予算委員会)
志賀健次郎防衛庁長官「もし核弾頭を装着したものを持ってくる場合には必ず事前協議に付せられるべきだと信じているし、アメリカと固い約束をしている」(3月2日、衆院予算委員会)【4月4日に大平・ライシャワー会談で核密約を確認後】
大平正芳外相「アメリカも日本の意向に反してそういう(核持ち込みの)要請をするつもりはないという約束になっているので、事前協議という場面が物理的に出てこない仕組みになっている」(5月14日、参院外務委員会)
(2)1964年
鈴木善幸官房長官「サブロックを積載した米原子力潜水艦の寄港は事前協議の対象であり、寄港は認められない」(9月2日、記者会見)
椎名悦三郎外相「サブロックが核弾頭のみに限定する方針に変わった。核兵器を積んでいる限りは事前協議の対象になる」(9月3日、参院外務委員会)【9月26日の大平・ライシャワー会談後】
椎名外相「(原潜がサブロックを)積んでいないことがどうして分かるかという質問だが、これは両国の信頼関係である。日米安保条約を締結している以上、ことごとに猜疑(さいぎ)心を働かしていたら、この協約体制は一朝にして崩れる」(10月6日、衆院予算委員会)
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核密約 1960年1月6日に藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日米大使が署名した「討論記録」。核兵器を積載した米艦船の寄港・領海通過や核積載航空機の飛来は、改定安保条約の下で定められた事前協議の対象外であることを定め、米軍による自由な核持ち込みを保証しました。
核密約については、日本共産党が2000年から一貫して追及してきている。「しんぶん赤旗」のホームページのこちらの特集を参考にされたい。