『1857-58年草稿』を読んでいます。マルクスは、一応、経済学の本を書くつもりでこの草稿を書き始めたとはいえ、途中で、ああでもないこうでもないと考え始めると、その「ああでもない、こうでもない」をそのまま草稿に書き込みながら考えをすすめています。だから、『草稿』を読んでいくときは、個々の記述を読み取るだけでなく、マルクスの思考の流れをつかむことが大事になってきます。
ということで、先日から、固定資本・流動資本関係のところを読んでいますが、僕自身は、マルクスの書いた中身を理解するので精一杯で、マルクスの思考の流れはさっぱりつかめませんでした。
でも、よく読むと、マルクス自身が「さて、本題に戻ろう」とか「上述の論点を詳論するまえに」とか、「最後に」とか、ちゃんと手がかりを書いています。
ということで、教えてもらった、この部分の組み立てをもとに、自分なりに、マルクスの思考の流れを読み取ってみました。はたして、どうでしょうか?
【1】本題の部分
p.356下段で、「さて、本題に戻ろう」と書いているのだから、ここで本題に戻っている。
問題は、その本題がどこまで続くか。p.391上段で、「さて、上述の論点を詳論する前に」といって、経済学者たちの議論をとりあげているから、とりあえず、そこまでが「本題」の部分だろう。
そこで、「本題」の中身。
【1?1】過程を統括する主体としての流動資本
p.356下段?p.357上段の第2段落。ここで、マルクスは「資本が通過する諸局面」「資本の一循環をなす諸局面」が、(1)剰余価値の創造、直接的生産過程。(2)生産物が市場にもとらされる。(3) α)W-Gと β)G-W。(4)生産過程の更新、という局面をたどることを明らかにしている。
第1。それを踏まえて、まずp.357上段?同下段の第4段落で、「資本の流通」は「交換という操作に媒介」されていること、そして、まず「生産物を一般的流通のなかに出して、「一般的流通からみずからを貨幣のかたちでの等価として取り戻」(W-G)し、のちに「貨幣としての自己の姿態を……ふたたび自己の流通過程から〔一般的流通に〕投げ出す」(G-W)。そのさい、「資本の流通からこのように脱落して通常の流通の手に帰属した生産物」がそのあとどうなっていくかは、「ここでのわれわれにはまったく関係がない」問題だといっている。
で、こういうふうに分析することで、マルクスは、資本の流通が「一般的流通」を自分自身の中に取り込んでいること、その結果、「一般的流通」そのものが「資本によって措定されたもの」として現われること、同時に、資本の流通自身も「一般的流通」の「契機」となること、を指摘する(p.357下段、最後のあたり)。
第2。ついで、「資本の総生産過程」が「本来的流通過程」と「本来的生産過程」を含んでいることが確認される(p.358上段)。そこから、「運動の全体」が「労働時間と流通時間との統一」「生産と流通との統一」であることが明らかにされ、さらに、「この統一そのものが運動であり、過程」であり、資本は、そうした「過程を進行する統一」として姿を現わすことが明らかにされる。
第3。流通時間が「分業および交換を土台とする生産の条件」であること。
それらを踏まえて、「この運動のさまざまな局面を統括する」主体として、「資本は流動資本である」ことが明らかにされる(p.358下段?p.359上段)。ここが最初の山場。
【1?2】経済学の混乱
そして、「流動および固定」という規定が引き起こした経済学の混乱の話(p.361上段?p.363上段)。そのなかで、総資本の一部は常に「固定」されざるをえないことを明らかにして、マルクスは「この二つの規定への分解は、可能なかぎりの価値増殖を目指す資本の傾向とは矛盾する」(p.382下段)ことを明らかにする。そして、流動資本と固定資本という「これらの規定を資本一般の形態規定として把握することは、絶対に重要である」と指摘し、「流動資本と固定資本」という規定の正しい把握ないと、「ブルジョア経済の多数の現象」すなわち「資本の1回限りの循環期間とは本質的に区別される経済循環の諸時期」〔景気循環のことか?〕、新たな需要の影響、新たな金銀生産諸国が一般的生産に及ぼす影響などが「理解不能になる」と述べている。
【1?3】資本の制限としての流通
そこから次に、「資本に立脚する生産のこうした諸制限」の話に移る(p.363下段?)。この「制限」というのは、資本の一部が常に固定資本の形態をとらざるを得ないということが「可能なかぎりの価値増殖を目指す資本の傾向と矛盾する」という先ほどの規定。で、マルクスは、「これらの制限」が「生産それ自体の法則ではない」ことを明らかにする。「交換価値がもはや物質的生産の制限をなさず、個人の全面的発展に対する物質的生産の関係によって物質的生産の制限が措定されるようになると、物質的生産の痙攣〔恐慌のことだろう〕や苦痛をともなう出来事のいっさいがなくなってしまう」(p.363下段)。そして、貨幣が物々交換の制限を一般化することによって克服したように、資本のこのような制限は、信用によって一般化されることによってのみ止揚される。
【1?4】本来的な流通費用
続いて、「本来的な流通費用」についての検討(p.364上段?p.367上段)。結論として、「資本の流通は、さまざまの局面を通って価値が通過していく形態変化」であり、「この家庭にかかる時間、またはこの過程を維持するために要する時間は、流通の、分業の、交換にもとづく生産の生産費用に属する」ということが明らかにされている。
【1?5】回転
その次は、回転の問題(p.368上段から)。一定時間のうちにつくりだされる価値、剰余価値の総額は、この期間内に生産過程が何回繰り返されるかに依存する。そして、それは、資本の回転=生産時間+流通時間によって決まる。そこで、「流通時間」それ自体が「生産契機」「生産の限界」として現われ、「価値創造にとっての1つの規定的契機になる」というのが「資本にもとづく生産の本性」だ、ということが明らかにされる(p.369下段)。
【1?6】流通費ゼロを目指す資本の本性
そして、価値増殖の「最大限」が、流通時間=ゼロの場合であることが明らかにされる(p.373上段)。そして、付随的な問題が2つとりあげられている。1つは、流通時間が短くなればなるほど、資本の回転数が増えて、利潤が増えることから、「流通時間がそれ自体として生産的であるかのような外観」が生まれる問題(p.373下段?p.374上段)。もう1つは、短期で回転を繰り返す資本が、剰余価値を拡大再生産に投下する場合に生じる複利的な生産拡大の問題(p.374上段?同下段)。
交換が価値を生まない、ということの解明(p.375上段?p.378上段)。――これは、先ほど言った「流通時間がそれ自体として生産的であるかのような」外観にたいする批判。その批判の結論として、「共同所有者」たちの共同労働・共同生産の場合には「交換は行なわれず、共同的な消費が行なわれる」から、「交換費用はなくなる」という指摘(p.377下段)。
それを受けて、「流通費用それ自体」は「生産上の空費」であること、しかし「流通操作」そのものは「資本の生産にとっての必要条件」であることが確認されている。(p.378下段?379下段)
続いて、流通費用が「生産上の空費」であるといっても、「資本家が交換のなかで失う時間」は、社会的に見て「労働時間」に含まれるわけではない、ということが解明されている(p.379下段)。もともと、「資本家の時間」は「余計な時間」「非労働時間」「非価値創造的な時間」であり、資本家にとっては社会的な必要労働時間というものは存在しない、という話があって、最後に「自由な時間」とは何か、という問題がとりあげられてる。
次の段落も、同じ問題の続き。マルクスは、流通が資本家の時間を奪うという問題について、「経済学的に見れば、資本家自身の時間を奪うというかぎりでの流通時間がわれわれに関わりがあるのは、資本家が彼の高級娼婦と過ごす時間がわれわれに関わりがあるのとまったく同じ程度のこと」と言っている。つまり、関係ない、流通のために資本家が失う時間というのは、経済学としてはどうでもいい問題だと言っているのだ。
その次は、「本来の流通費」のなかに運輸費を持ち込む議論の批判(p.382上段)。「市場への搬送は、生産過程そのものに入れられるべきもの」だから、価値を生む。しかし、そのなかで、「商業は生産物に新たな使用価値を与える」とっているのは、どういう意味だろうか? マルクスは、「重さや長さを測ったり包装したりして、生産物にふさわしい形態を与える小売商人」の例を挙げている。そういう小売商人の労働は、価値を生むということなのだろうか?
その次の段落(p.382上段?p.384上段)は引用集。
その次は、「単純な流通」は、たんなる「多数の同時的交換または継起的交換」から成り立っていたが、「資本の流通」では、それらの交換は「一続きの交換操作、交換行為」になる、一つ一つの交換が「資本の再生産と増大とにおける契機」となっている(p.368上段?同下段)という話。
その次は、資本の流通、資本の循環において、「形態面」からみれば、その過程のどの契機も「次の局面に移行することの可能性」という意味で「可能的に資本として……現われる」のにたいして、「素材的側面」からみれば、資本は原料、用具、労働者の生活手段などから成り立つ。貨幣は、一面では、実現された資本であるが、他面では、たんなる流通手段、「瞬過的な媒介」にすぎない(p.387上段?同下段)。
そして、この2つの段落の締めくくりとして、「流通は、資本にとってたんに外的な操作ではない」こと、「流通は、資本の概念に入れられるべきもの」であることを確認している(p.387下段?p.388上段)。その結果として、「資本の価産出それ自体」が、流通によって「制約されたもの」として現われる。どういう意味で、「資本の価値産出」は流通によって制約されているか。(1)質的に。流通の諸局面を通過しなければ、資本は生産局面を更新できない、という意味で。(2)量的に。資本の産出する価値の分量が、所定の期間のなかでの回転数によって左右されるという意味で。(3)流通時間が、(1)(2)の意味で、生産時間の制限として現われる、という意味で。
以上のような意味で、「資本は、本質的に流動資本なのである」と、マルクスは、あらためて、最初の概念規定を再確認している。そして、その次が面白いところで、マルクスは、資本は「生産過程」では「所有者かつ主人」だったが、流通過程では「従属的なもの」「社会的関連によって規定されたもの」として現われる、と言っている。そして、その「社会的関連」は、まだ「資本一般」を想定している現時点では明らかではない。だから、「この流通は一種の霧であり、その影にはまた、まるまる1つの世界が、資本の諸関連という世界が隠れている」と言っている。
この「資本の諸関連」の世界は、「資本一般」の話をしている現時点では、「いまだに遠方にある眺望」だが、それはすでに2つの地点で明らかだ、という。それは、(1)資本が生産物を、資本の流通から突き出す地点(W-G)と、(2)資本が流通から他の生産物を自分の循環に引き入れる地点(G-W)の2つ。
そこで、「資本の本来の流通」は「商人と商人のあいだの流通」であって、「小売業者と消費者とのあいだの流通」は「資本の直接的な流通領域には属さない第2の軌道」であることが明らかになる。(以上、p.389)
最後に、「資本の回転の総数を計算し、測定するための一般的期間」の単位は1年である、とマルクスは言っている。(p.390)
【2】経済学者の話
以上で、「本題」の部分が終了。そこで、「上述の論点を詳論する」前に、経済学者たちの話に移っている。この経済学者の話は、いろいろな覚書的な書き込みをはさみつつ、なんだかんだと、p.443の上段まで続く(p.442下段からの段落の冒頭に「最後に信用」と書かれているのは、これが経済学者たちの話の「最後」だという意味)。
【2?1】流動資本・固定資本の区別と利潤・利子
なぜ流動資本・固定資本の区別が利潤・利子の区別に対応することになるかは、前に、ここに書いた記事参照。
そのあとは、J・St・ミル、アンダスン、セー、ド・クィンシ、ラムジの話。ド・クィンシが「流動資本とは……生産的に使用されて使用行為そのもののうちで消滅する、どんなものであれ何らかの作用因」「資本が固定されているのは、事物が同じ作業にたえず繰り返しなんども役に立つ場合」といっているのにたいして、マルクスが「この場合の区別づけには、生産行為における技術学的区別への観点があるだけであって、形態的な観点はまったくない」と批判したことも前述(pp.394-395)。
回転に関する話を挟んで、p.398下段の最終行から、リカードウの議論にたいする批判。ここでは、リカードウの固定資本・流動資本の区別を「程度の違い」といって批判している。
しかし、同じリカードウの続きである、p.403下段になると、リカードウが固定資本・流動資本の区別を「再生産の緩急」に求めていることを「リカードウの説明の優れている点は」といってほめている。先ほどと、評価が逆転している。そのあと、同じ段落とその次の段落でシスモンディ批判。
【2?2】自由放任主義についての覚書
p.407上段からp.410下段まで、{}に囲まれて、マルクスの「自由放任主義」についての覚書。
【2?3】生産時間と労働時間
p.411下段から。「固定資本および流動資本についての諸見解の検討を進める前に、ちょっとの間、以前に展開したところに立ち返ろう」といって、生産時間と労働時間の問題を展開している。
記号を使った数式まで出てくるが、話の中心の1つは、要するに、資本主義は流通時間ゼロをめざす、という話。途中で、競争の基本法則についての覚書を挟みつつ、基本的にp.443上段、この【2】の部分の終わりまで続くのだろう。
【2?4】競争の基本法則について
p.419上段から同下段末尾まで。ここは{}でなく()で囲まれているけれども、やはりまるくすの覚書だろう。
【3】「大流通」と「小流通」
で、その次、p.443上段から、マルクスの新しい議論が始まっている。それは「総過程としての流通過程」を「大流通」と「小流通」に分ける、という話。
「大流通」とは、先ほどの「商人と商人とのあいだの流通」であり、いわば資本家同士の交換。それにたいして「小流通」は、資本家と労働者とのあいだの流通、つまり先ほどのでいえば「小売商人と消費者とのあいだの流通」。そしてまず、p.443上段?p.445上段の段落で「大流通」が取り上げられ、p.445上段の最後?p.449上段までが「小流通」の話。
で、もう一度、それをまとめて、流通全体を(1)総過程、(2)小流通、(3)大流通の3つに区分して、それと、固定資本・流動資本の概念規定の問題を結びつけようとする(p.449下段?)。しかし、固定資本と流動資本という2つに区分する問題を、総過程、小流通、大流通という3つの区分と結びつける、という議論は、どう考えても、あまりしっくりいかない。
「資本の一部は、この部分が生産過程にはけっしてはいらないが、しかし絶えずこれに随伴しているがゆえに、とりわけすぐれた流動資本として措定される」と言っているのが、「小流通」つまり可変資本部分のこと。これが流動資本の「形態第2」で、それにたいして、いわゆる固定資本にあらざる部分という意味での流動資本が「形態第3」。だから、「形態第3における流動資本は形態第2をも含んでいる」が「形態第2は形態第3を含まない」(p.450下段)というのだ。「規定第1」というのは、最初に出てきた「家庭を統一する主体としての流動資本」だ。
で、そういうことを議論しているうちに、固定資本が「第2の形態での流動資本」(つまり可変資本)に比べて大きくなるという、いわゆる有機的構成の高度化の問題にマルクスは気づいて、「この矛盾は面白い。展開しなければならない」(p.451)といって、その後、展開が始まる。
【4】固定資本の4つの規定
【4?1】第1の規定
そこで登場するのが、「固定資本の第1の規定」(p.454下段)。つまり、固定資本は「使用価値としては、つまりそれの物質的定在から見れば、生産過程からけっして歩み出ないし、また流通にふたたびはいることはけっしてない」、というのが「第1の規定」。
【4?2】第2の規定
その次が「第2」の規定(p.455上段?)。その話が、p.464上段まで続く。
【4?3】第3の規定
その次が、p.464下段の「第3に」で始まる部分。この部分がず〜〜〜っと続いて、p.508上段になって、「第4に」の部分が始まる。新MEGAでは、この「第3に」の部分を、途中で、見出しを立てて切ってしまっているが、これは無視。
【4?4】第4の規定
で、「第4に」の部分では、「これまでのものとは違う、固定資本と流動資本の諸関連を考察しなければならない」ということで、この考察が、途中にいろいろなものをはさみつつ、p.551の最後まで続いているのだろう。
以上が、この部分の大づかみな流れ。