安保改定時から日本政府も「密約」であることを認識していた

「高知新聞」が、共同通信の配信記事として、「核密約」にかんする米国務省の秘密書簡が見つかったというニュースを1面トップで報道しています。

記事の中で「1960年の日米安全保障条約改定時に、藤山愛一郎外相が米国と交わした『秘密議事録』」と指摘されているのが、共産党の不破哲三・前議長がこれこそが密約本体だと指摘して追及した「討論記録」のこと。

外務省有識者委員会の報告書は、この「討論記録」について、1960年当時は日本側(岸首相や藤山外相)がその意味を認識しておらず、1963年4月にライシャワー駐日大使が大平外相に指摘して、初めてその意味を理解したとして、「暗黙の合意」が成立した(つまり、厳密な意味での密約ではない)と結論づけていました。

今回発見された書簡そのものは1963年3月のものですが、前年12月の書簡を引用する形で、1960年当時から岸、藤山両氏は「秘密議事録2項cの意味を明確に理解していた」と指摘しています。これによって、外務省有識者委員会の「暗黙の合意」「広義の密約」説は完全に崩壊。当初から、「密約」(公表しない外交上の取り決め)として1960年の「討論記録」が作成されたことがあらためて確認されたことになります。

安保改定時から密約認識 核持ち込み「明確に理解」:共同通信

安保改定時から密約認識 核持ち込み「明確に理解」

[2010/06/25 19:25 共同通信]

 米軍核搭載艦船の日本領海への通過・寄港を容認した核密約に関連し、1960年の日米安全保障条約改定時に、藤山愛一郎外相が米国と交わした「秘密議事録」について、岸信介首相と藤山外相が密約だと認識していたことを示す米国務省文書が25日までに見つかった。同議事録には、通過・寄港を日米間の事前協議の対象外としたい米側の意向を反映した条項が盛り込まれており、文書は岸、藤山両氏がこの意味を「明確に理解していた」と記している。
 安保改定時に日本側に密約の認識があったことを示す文書の発見は初めて。日米密約に関する報告書を3月に公表した外務省有識者委員会は、安保改定の3年後の63年4月、ライシャワー駐日米大使が大平正芳外相に「寄港は核持ち込みに当たらない」と伝えて以降「暗黙の合意」が固まり「広義の密約」になったと認定した。今回の文書はこれを覆す内容だ。
 文書は、63年3月15日付で在日米大使館のアール・リッチー一等書記官が国務省の日本担当官ロバート・フィアリー氏に送った秘密書簡で、福島大の黒崎輝准教授が米国立公文書館で発見した。
 リッチー氏は、安保改定交渉に関与したフィアリー氏が62年12月に送った書簡を引用する形で「安保改定交渉時、岸、藤山(両氏)は秘密議事録2項cの意味を明確に理解していた」と記述している。
 「2項c」は、安保改定以前から行われていた軍艦船や軍用機の通過・寄港、飛来に関する「現行の手続き」を事前協議の対象外と規定。米側は核搭載艦船もこれに含まれるとの立場を当初から取っており、秘密書簡はこうした米側解釈を岸氏らが容認していた事実を伝えている。
 書簡はまた、フィアリー氏の指摘を受け、大使館側が「2項C」に関する日米間の協議内容を記した文書の存否を調べたが、見つからなかったと報告。「第7艦隊の艦船や航空機に搭載された核兵器の問題はあまりにも政治的に機敏」だったとして、日米協議がマッカーサー駐日大使と岸、藤井両氏との間に限られ、記録を意図的に残さなかった可能性に触れている。

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