『1861-63年草稿』を読む(1)

大月書店「資本論草稿集」の『1861-63年草稿』<1>。

第3章「資本一般」I「資本の生産過程」1「貨幣の資本への転化」の部分。

『資本論』では、第2篇「貨幣の資本への転化」第4章「貨幣の資本への転化」に相当する部分だが、『資本論』では次の第3篇「絶対的剰余価値の生産」に含まれる「労働過程」や「価値増殖過程」、「貨幣の資本への転化が分解する2つの部分」(第6章「不変資本と可変資本」に相当)などが、ここに含まれている。

42ページ下段〜43ページ上段にかけて「資本主義的生産」が登場する。これが『1861-63年草稿』での初出か? しかしすでにマルクスは、「資本主義的生産」は自明な用語として使っている。「資本主義的生産」という言葉は、すでに「資本にかんする章のブラン草案」や「引用ノートへの索引」「私自身のノートにかんする摘録」(『資本論草稿集』第3分冊)に登場する。「資本主義的生産の制限」という表現が登場する(「自分自身を止揚する資本主義的生産の諸制限」454ページ上段、483ページ下段、515ページ上段) ((重田澄男『再論・資本主義の発見』桜井書店、2010年、によると、「資本主義的」という用語は「プラン草案」には1回、「私自身のノートにかんする摘録」では14回登場するらしい(同書、111ページ)。このことからみても、「プラン草案」→「私自身のノートにかんする摘録」という執筆順序が想定できる。))。「資本主義的」という形容詞が初めて登場するときに、それが「資本主義的生産の諸制限」という角度から登場したことは興味深い。

47ページから。cあるいはγ「労働との交換。労働過程。価値増殖過程……」の部分。

55ページまでは、「自由な労働者」の歴史的前提の話。これは『資本論』にもある。

56ページから、労働能力の「絶対的貧困」の話になる。この部分、話の中身は、『資本論』でいえば、第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」での「富の蓄積と貧困の蓄積」の議論と共通するもの。もちろん、草稿のこの部分では、まだ剰余価値の生産さえ明らかになっていないが。それでも、マルクスは、資本と労働能力との交換を、富の源泉であるはずの労働能力が「絶対的貧困」に陥るという形の「対立」として描き出そうとしている。「絶対的貧困」論は『1857-58年草稿』にも出てきた。そうした叙述は、『資本論』では消えている。

また、そうした対立を、マルクスは、労働能力の「絶対的貧困」として特徴づけているが、そうした論じ方も『資本論』では消えている。

マルクス自身、「さらに次のような対立」として「対象化された労働としての貨幣」と「生きた労働」との対立を論じた後で、資本と労働との対立は「この点は、またたぶんこの箇所全体が、もっとあとの資本と賃労働の項目に挿入されるべきである」と書いている(60ページ下段)。「この点」とはどの点か? 労働能力の「絶対的貧困」を含むのか? もう少し丁寧に読んでみる必要がありそう。

65ページ。労賃論。
「労働者の必需品の水準のこれらの運動についての問題は、この水準の上下への労働能力の市場価格の騰落についての問題と同じように、労賃論に属する」(65ページ上段)
「所与の大きさとしてのそれにではなくて変化する大きさとしてのそれにかかくぁる問題は、すべて賃労働についての特殊的諸研究に属する」(同下段)

71ページ下段?73ページ上段。ベイリのリカードウの労働価値説にたいする批判とそれに対するマルクスの批判。ベイリのリカードウ批判のこの部分は『資本論』にも登場する(第17章注21)が、『資本論』ではここでのようにマルクスの反論は書き込まれていない。

翻訳の問題。『資本論』の現行訳ではG-W-Gを「売るために買う」と訳しているが、この草稿集では、「購買したのち販売する」と訳している。um zu Verkaufen をどう訳すか、という問題。直訳すれば確かに「売るために買う」だが、それだとG-W-Gと語順が逆になる。その点、「買ったのちに売る」あるいは「買ってから売る」の方が語順が同じになってわかりやすい。ただし、um zu の目的を表すニュアンスが伝わらないが…。

ということで、第3分冊の「プラン草案」やら「引用ノートへの索引」「私自身のノートにかんする摘録」を読み返してみると、あらためて、マルクスがそれまでの経済学説をどういうふうに研究して、『資本論』を仕上げていったか、それをきちんと読み解かないといけないなぁと痛感。

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