日本史研究者ならこれは読まなくては…

『歴史評論』の9月号と『歴史学研究』の9月号。日本史研究者なら、これは読まなくてはいられません。

まず『歴史評論』の9月号。なんと、芝原拓自氏 ((芝原拓自氏は明治維新史研究者。代表的著作は、『明治維新の権力基盤』(御茶の水書房、1965年)、『所有と生産様式の歴史理論』(青木書店、1972年)、『日本近代化の世界史的位置』(岩波書店、1981年)など。1冊目は明治維新研究の必読文献の1つ。2冊目の『所有と生産様式の歴史理論』は、学生時代に読んで、図式的ではない史的唯物論の理論に初めて深く目を見開かせられました。同書では、『資本論』が長谷部訳で引用されていて、当時長谷部訳など持っていなかった僕は、図書館で長谷部訳の目次をコピーして、一生懸命、大月書店版『資本論』のページと照らし合わせたことがあります。3冊目は、学部生の時、佐々木ゼミでを読んだのですが、実はさっぱりわかりませんでした…。))が、「最近考えたこと」という短いエッセーを書かれています。論文でお名前を拝見するのは20年以上ぶりです。そこらあたりの事情については、ご本人が「ここ20年あまり、抑うつ性神経症という名の精神病をわずらい」と書かれているとおりですが、少しずつでも健康を回復されることを願ってやみません。

日本史研究者であれば、なにはともあれご一読を。

それから、『歴史学研究』9月号。1つは、三鬼清一郎氏の「批判と反省・山本博文著『天下人の一級資料』に接して」。

山本氏の著作は読んでいないので、本来は、私があれこれコメントすべきではないのですが、印象に残ったのは、三鬼氏が、個々の著作にたいする批評、研究批判というレベルにとどまらない、研究者としての姿勢にかかわるかなり根本的な批判を展開されていること。「おわりに」では、次のように述べられています。

 昨今の歴史学界には、克復すべき課題が山積している。とりわけ若手・中堅研究者の一部にみられる業績万能主義・モラルの低下は目に余るが、それを糺して自ら範を示すべき立場にある研究者の姿勢にこそ問題があるのではないか。

なかなか厳しい批判ですが、全体としては、山本氏が、従来の研究史で議論されてきたことを踏まえないで、しかも三鬼氏などの名前を挙げて従来の研究を批判されていることにたいする、きわめて学問的な批判です。

もう1つは、遠藤基郎『中世王権と王朝儀礼』にたいする井原今朝男氏の書評。

こちらも遠藤氏の著作を私は読んでいないのですが、結論として、井原氏も、「本書の著者における研究史のとらえ方が個人業績主義的であることについて一言しておきたい」と指摘され、学問の進歩とはどういうことかを厳しく問われています。

もちろん、これは一方の側の言い分であって、批判されている側には側の主張があるでしょう。遠藤氏の著作については、『歴史評論』9月号にも書評が掲載されており、そこでは「今後の中世前期研究の進展に大きく寄与するものと期待されよう」と述べられています。しかし、その『歴史評論』掲載書評でも、「本書で描かれる王権と権門寺院との関係は、実は従来の説とさほど隔たるものではないのではないだろうか」とも指摘されています。

はからずも、『歴史学研究』の同じ号で、「業績万能主義」「個人業績主義」の弊害が指摘をされた訳で、歴史学研究の(雑誌ではなく、学界の)在り方が問われているように思いました。

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