マルクスの市場価値論

高橋勉『市場と恐慌』(法律文化社)

高橋勉『市場と恐慌』(法律文化社、2009年)を読み始めた。『季刊・経済理論』第47巻第3号(2010年10月、桜井書店)では、長島誠一氏が詳しい書評を書かれているが、なかなかの理論作品であることは間違いない。

まだ第1部「市場メカニズムに関する基礎的考察」の第2章までしか読んでいない。第1章で、投下労働を基準とした均衡が成り立っている場合には使用価値での部門間均衡が成り立つが、投下資本を基準とした均衡、投下自己資本を基準とした均衡では、均衡水準が動くので、使用価値での部門間均衡が崩れることが明らかにされている。投下自己資本を基準とした均衡というのが新しい議論なのだが、まだよく分からないところもある。いずれにせよ、生産価格が成り立つようになると、使用価値での部門間均衡が崩れ、そのことが資本主義の不均衡の一番根底にある不均衡ではないかという議論は、よく分かる。

しかし第2章でマルクスの市場価値論について著者が論じたもののを読んでいると、いろいろと疑問になるところが出てきた。それで、あらためて『資本論』を読み返してみた。自分でもまだも整理できていないが、とりあえずのメモとして、気づいたことなどを書いておく。

著者は、『資本論』第3部第10章での市場価値規定について、それが個別的価値の加重平均規定か、それとも大量支配規定(あるいは限界規定)かを問題にする。

そこで著者は、加重平均規定説こそがマルクスの市場価値論だとしている。確かに、著者が述べるように、「個別的価値の総計=社会的価値の総計という関係が必ず成り立つ」(いわゆる「総計一致」命題)ことを前提にすれば、個別的価値の加重平均による以外にありえない。このことは、数学的に自明のこと。『資本論』第3部第10章にそういうふうに読めるところがあることも事実だ。

しかし、他方で、『資本論』第1部第1章では、価値の大きさを規定する「社会的に必要な労働時間」とは「現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するの必要な労働時間」であると指摘されている(新日本新書<1>、66ページ) ((この記述は、『資本論』初版以来のもの。『経済学批判』にはこのような記述は出てこないし、草稿集にも出てこないと思われる。つまり、この点を明確にするというのが『資本論』での重要な理論的前進なのかも知れない。))。ここでは、社会的・標準的な生産諸条件および社会的平均的な熟練、労働強度から外れた生産諸条件との加重平均などということはまったく問題になっていない。マルクス自身、イギリスで蒸気織機が導入され、織布労働の社会的・標準的な生産力が2倍になると、一定分量の布の価値は半分に低下すると指摘しており、残された手織工との加重平均で価値の大きさかが決まる、などということは一言も述べていない。第1部第1章のこの叙述に従うならば、商品の社会的価値規定は大量支配規定説でしかありえないということになる。

したがって、著者がそう述べるほど、マルクスの価値規定は加重平均説だというのは自明なことではないのではない。『資本論』第1部第1章では大量支配説を述べながら、第3部ではそれと矛盾する加重平均説的な説明もしていることは、事実として認めざるをえない。となると、問題は、こうなる。マルクスは、個別的価値からどのように社会的価値が導かれるかという、労働価値説にとって決定的な問題で、あまりよく考えず、あるときは大量支配説、あるときは加重平均説というように、その場その場で適当な説明をしていたのか? そうでないとすれば、この矛盾をマルクスに即して説明することが必要だろう ((そこには、『資本論』第3部の草稿は第1部よりも前に書かれた、という事情も関係しているかも知れない。すなわち、社会的価値あるいは市場価値の規定についても、マルクスのなかで発展があったのかも知れないのだが、これまでそういう角度でこの問題を取り上げた論文を私は寡聞にして知らない。))。

さて、話は「総計一致」命題の問題に戻る。

総計一致の命題を前提にする限り、数学的にみて、社会的価値は個別的価値の加重平均としてしか決まりようがないことは前述の通り。そしてマルクスが、総計一致の命題は当然成り立つものと考えて叙述していることも明らかだ ((新日本新書<9>312〜313ページ。これは高橋氏の本でも引用されているとおり。))。しかし、よく読むと、マルクスは頭から総計一致の命題を自明の前提と思い込んで、そこから逆に加重平均規定を展開しているのであって、どのようにして総計一致の命題が成り立つかを論証している訳ではない。実は、後で述べるように、個別的価値と市場価値(あるいは生産価格)の総計一致という命題は、そう思われているほど自明ではない。本書ではこの問題は本格的に論じられていないが、例えば置塩信雄氏は総計一致命題は成立しないことを強調されている。

著者は、次に、単純商品市場において価値からどのようにして市場価格が成り立つかというプロセスを問題にしている。そこで著者は、価格調整型アプローチ、供給量調整型アプローチと検討した上で、相互調整型アプローチを主張している。しかし考えてみれば、市場での需給調整は、供給サイドだけに限ってみても、価格だけでおこなわれるわけでもなければ、供給量だけでおこなわれるわけでもなく、価格と供給量の両面でおこなわれているのだから、現実の市場価格決定プロセスを問題にする以上、相互調整型アプローチをとるというのは、ある意味で当然のことだろう。

それはさておき、とりあえず需給一致の場合の市場価格の決定プロセスを考えてみよう。ある商品の社会的な供給総量と需要総量は一致しており、いまそれを100単位と仮定する。100単位のうち、10単位は比較優位の生産諸条件で生産され、個別的価値は商品1単位あたり90だとしよう。逆に、商品20単位は比較劣位の生産物で、個別的価値は110である。残り70単位は、社会的・標準的な生産諸条件で生産され、その個別的価値は100である。

このときすべての生産者たちが、市場で、商品を個別的価値どおり売りに出すとすれば、まず比較優位にある生産者たちの商品10単位が価格90で売れ、そのあと標準的生産諸条件で生産している生産者たちの商品70単位が価格100で売れる。しかし、それでもまだ需要は満たされていないので、残された需要者は価格110で、比較劣位の生産者から商品20単位を購入するしかない。したがって、市場で販売された商品価格の総計は、90×10 + 100×70 + 110×20 = 10,100 となる。こうやってすべての商品が売れてしまった後で市場の平均価格を計算すれば、それは101という加重平均になる。しかし、101という平均価格が市場で成立した訳ではないし、101という価格で販売された商品も存在しない。個々の生産者には、101というのが市場価値だということを知るすべもない。101という加重平均は、あくまで、事後的に、個別的価格の平均値として計算されて出てきただけの数字である。

しかし、先ほどのように想定した場合、競争は生産者の側だけでなく需要者の側でも起こる。だれも望んで商品をより高い価格で買いたいとは思わないから、比較優位の生産者たちの商品10単位をめぐって、需要者のあいだに競争が起こる。すなわち、比較優位の生産者が価格90で売り出しているのにたいして、たとえばある需要者が91という価格付けをして、まず自分の需要を確保しようとする。そうすると別の需要者があらわれ、92という価格付けをして自分の需要を満たそうとする。この競争は、価格付けが標準的な生産諸条件にもとづく大量支配的な商品の価格100になるまで続く。したがって、比較優位の商品は、結局、需要者側の競争によって、標準的な生産諸条件のもとで生産された商品の価格100で販売される、とみなすことができる。

さて、こんどは比較劣位の商品20単位について。需給一致の前提のもとでは、比較劣位の商品20単位も最終的には売れてしまうのだが、比較劣位の生産者たちにはそのことは分からない。そこで、彼らは、自分の商品を個別的価値よりも低い、大量支配的な商品価格100で売り出さざるをえない。

したがって、すべての商品は100という価格で販売されることになる。この場合、市場価格は、個別的商品価値の加重平均である101ではなくて、大量支配的な商品の価値100に等しい。大量支配的な商品の価値によって市場価値が規定される、というのは、こういう意味だろう。もちろん、すべての商品が価格100で販売された場合、市場価値の総計は10,000となり、個別的価値の総計10,100とは一致しない。総計一致の命題も、決して自明の前提とはいえないのである。

もう1つの疑問。著者は、供給量調整型アプローチにたいする批判として、次のように述べている。

しかし、売り手間の自由な競争を前提にすれば、優位・中位・劣位という生産条件の序列は循環しているのであり、現時点では劣位のグループの資本も優位になったり中位になったりして、技術水準の序列の中のポジションが変化するのである。……現時点での自分の個別的価値より市場価値が低くなっているとしても、その部門において長期的・平均的に自分の個別的価値に等しい価値が保障される技術革新能力をもっていれば、資本はその部門から撤退しないであろう。自然条件の差などの場合を除いて、生産性の差は資本によって克服できるものであり、よって、一時点での生産性の差は資本にとって当該部門からの撤退を引き起こす決定的な要因ではないのである。(高橋2009、43ページ)

このような想定はよく分からない。著者は、技術水準の変化がどのようなかたちで起こると考えているのだろうか? 技術水準が変化するためには、古い技術水準にもとづいた生産手段を廃棄して、新しい技術水準にもとづいた新しい生産手段を導入しなければならない。つまり、そこには新規資本投下が必要なのであって、それができなければ、当該生産部門から撤退せざるをえない。当該生産部門への新規資本投下、あるいは当該生産部門からの撤退、こういうことなしに技術水準が変化するということはありえない。そういうものを抜きに技術水準の変化が想定されているとしたら疑問だ。またさらに、「その部門において長期的・平均的に自分の個別的価値に等しい価格が保障される技術革新能力」とはいったい何をさしているのだろうか? 個々の生産者には自分の生産する商品の費用価格と、目の前に与えられている市場価値とは分かるが、長期的・平均的に自分の商品の個別的価値が市場価値と一致するかどうかは分からないのではないだろうか ((この問題は、さらに高橋2009、第3章で論じられている。))。平均価格成立以前の抽象レベルで、市場価格がどのように成り立つかということを問題にしているときに、個々の資本の「技術革新能力」を導入するというのは、理論的な抽象レベルが違っているように思われる。

さて、高橋氏の著書を離れて、より一般的に問題を考えよう。

生産価格成立以前の理論レベルで、個別的価値から社会的価値あるいは市場価値がどのように導かれるか? これは、確かに『資本論』で明示的に分析・検討されている訳ではない。しかし、前に述べたように、これをどう考えるかという問題は、マルクスの労働価値説を今日でも妥当すると考えるわれわれにとって、決定的な問題だ。まずマルクスが「市場価値」というものを考えていたという証拠から。『資本論』第10章でマルクスは次のように述べている。

 <1>単なる生産諸部面の諸商品がその価値どおりに売られるという仮定が意味しているのは、もちろんただ、諸商品の価値が重心であり、諸商品の価格はこの重心をめぐって運動し、価格の不断の騰落はこの重心に均等化される、ということである。<2>その場合さらに、つねに市場価値……が、異なる諸生産者によって生産された個々の商品の個別的価値とは区別されなければならないであろう。<3>これらの商品のあるものの個別的価値は市場価値以下であろうし(すなわち、それらの生産のためには、市場価値が表現するよりも少ない労働時間が必要とされる)、他のものの個別的価値は市場価値以上であろう。<4>市場価値は、一面では、1つの部面で生産された諸商品の平均価値とみなされるべきであり、他面では、その部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大部分をなす諸商品の個別的価値とみなされるべきであろう。<5>ただ異常な組み合わせのもとでのみ、最悪の諸条件または最良の諸条件のもとで生産された諸商品が市場価値を規制するのであり、市場価値自体は市場価格の変動の中心をなす――といっても、市場価格は同じ種類の商品については同じである。<6>平均価値での、すなわち両極のあいだにある商品総量の中位価値での諸商品の供給が普通の需要を満たす場合には、市場価値以下の個別的価値をもつ諸商品は特別剰余価値または超過利潤を実現するが、他方、市場価値以上の個別的価値をもつ諸商品はそれに含まれている上価値の一部分を実現することができない。(『資本論』新日本新書<9>、306〜307ページ)

まず<1>の意味。ある生産部門の商品が「価値どおりに売られる」ということは、その商品がさまざまな価格で売買されるが、それらの価格は、その商品の「価値」を重心として変動するということであり、したがって価格の騰落を長期的に平均すれば、「重心」である価値に一致する、ということを意味する。これは分かりやすいところ。

<2>の文をどう解釈するか。僕は、これは個々の商品の個別的価値と市場価格とを結びつけようとするときには、その中間項として「市場価値」というものを考える必要がある、というマルクスの理論の筋道を指摘したものだと思う。マルクスが、上記引用では省略した部分で、「これについてはあとで述べる」と断っているのはそのせいだと思う。

<3><4>の限りでは、市場価値は価値と等しい。そこには難しい問題はなにもない。

問題は<5>だ。「異常な組み合わせ」のもとでは、市場価値は「最悪の諸条件または最良の諸条件のもとで生産された諸商品」の個別的価値によって「規制」されているので、この場合、市場価値と価値は等しくない。なぜなら、価値は、あくまで社会的・標準的な生産諸条件のもとで生産するのに必要な労働時間の大きさによって規定されるからだ。しかし、このような「異常な組み合わせ」のもとでも、市場価値は価格(市場価格)の「重心」となっている。価値から価格へと考えるときには、個別的価値→市場価値→市場価格という順番で展開するしかない。正常な場合には、市場価値は、大量支配的な商品の個別的価値によって規定されるが、「異常な組み合わせ」のもとでは、比較優位あるいは比較劣位の条件のもとで生産される商品の個別的価値が市場価値を規定する。そして、市場価格は日々変動するが、それはあくまで「市場価値」を重心として変動する、という訳だ。ついでに言えば、このような「異常な組み合わせ」のもとでは、最初から、価値と価格の総計一致命題は成り立たない。

最後に<6>。ここでマルクスは、個別的価値と市場価値との関係を述べているのだが、そのときマルクスは、その条件を「両極のあいだにある商品総量の中位価値での諸商品の供給が普通の需要を満たす場合」と述べている。これは、中位の商品で需要を満たしているのだから、優位や劣位の商品を含めれば市場は供給過剰であるという意味だろうか? それとも、比較優位、比較劣位の商品が占める割合はごくわずかだということを言いたいだけなのだろうか?

いずれにしても、比較優位にある生産者は、なにも個別的価値どおりの価格で商品を売り出す必要はない。大量支配的な商品の価値どおりの価格、つまり市場価値どおりの価格で売ることができる。だからマルクスが指摘しているとおり、特別剰余価値を実現することができるのだ。しかし、比較劣位にある生産者は、個別的価値どおりの価格で売り出したのでは自分の商品は売れ残ってしまうので、個別的価値以下の市場価値で売りに出さざるをえない。その結果、剰余価値の一部は実現されない訳だ ((加重平均説にしたがえば、比較優位と比較劣位の価値総量が相殺されない場合には、加重平均は標準的な生産諸条件で生産された商品の個別的価値とは一致しないことになる。その場合、標準的大量的商品についても特別剰余価値が生じたり、剰余価値の一部が実現されなかったりすることになるが、マルクスがそうした大量支配的商品に特別剰余価値が生じる可能性を指摘したような文章を私は知らない。)) ((ただし、このような場合でも、比較劣位の生産者の商品は市場価格で売りに出されているのだから、比較劣位の生産者の商品ばかりが売れ残ると考えることはできず、比較劣位の生産者から順番に市場から撤退を強いられるというふうに考えることもできないことは明らかだ。))。

市場価値の大きさについて、マルクスは<4>で、一方では個別的価値の加重平均によって、他方では大量支配的商品の個別的価値の大きさによって規定されるように述べているが、<6>の解釈からみて、マルクスの本来の考え方に即して考えれば、大量支配的商品の価値によって規定されると考えるべきだということではないだろうか。

さて、先ほどの「異常な組み合わせ」について、マルクスは、その次の段落で説明している。

<1>想定された場合にもし価格が中位の市場価値よりも高ければ、需要はより小さくなるであろう。一定の価格では、ある商品種類は市場において一定の広さの席を占めることができる ((この文の「一定」はgewiss、つまり「しかるべき」とか「なんらかの」という意味。コンスタントという意味の一定ではない。))。価格が変動してもこの席がもとのままであるのは、より高い価格がより少ない商品分量と、また、より低い価格がより大きな商品分量といっしょに現われる場合だけである ((この部分は文意が取りにくいが、現行版で「いっしょに現われる」zusammenf&ault;lltとなっているところは、草稿では「結びついている」combiniertとなっている。つまり、価格が高くなれば市場で商品が占める割合が小さくなり、価格が安くなれば大きくなるという、ごく当たり前のことが述べられているのだと思われる。))。<2>これにたいして、需要が非常に大きく、最悪の諸条件のもとで生産された諸商品の価値によって価格が規制されても需要が収縮しないならば、これらの商品が市場価値を規定する。このことが可能なのは、需要が普通の需要を超える場合か、または供給が普通の供給よりも減る場合だけである。<3>最後に、生産された諸商品の総量が、中位の市場価値で売れる分量よりも大きい場合には、最良の諸条件のもとで生産された諸商品が市場価値を規制する。たとえば、それらの商品〔最良の諸条件のもとで生産された諸商品――引用者〕は、まったくまたは近似的にその個別的価値どおりに販売されうるが、そのさい、最悪の諸条件のもとで生産された諸商品は、おそらくその費用価格さえも実現しえず、また、中位的平均の諸商品はそれに含まれている剰余価値の一部分しか実現しえないということが起こりうる。(『資本論』同前、307ページ)

<1>の部分の読み方が難しいが、<2><3>と併せて考えるならば、ここでマルクスが述べているのは、<1>需要と供給とが一定の価格調整によって釣り合う場合、<2>需要が供給を大幅に上回っていて、市場で均衡が成立しない場合、<3>供給が需要を大幅に上回っていて、市場で均衡が成立しない場合、の3つの場合を設定して、それぞれの場合に、<1>中位、<2>劣位、<3>優位にある商品の個別的価値が市場価値を規制するという、市場価値の成立プロセスではないだろうか ((ここで指摘したように、劣位商品、優位商品の個別的価値によって市場価値が規定されるのは、需要と供給の不均衡が非常に大きくて、市場均衡が成り立たないような場合のことだと考えなければならない。))。

ここでマルクスが、需要と供給の組み合わせによる長期的な市場均衡価格を論じているのではないことにも注意しておく必要がある。需要の大きさも供給の大きさも所与のものとされていて、それがほぼ均衡している場合には大量支配的な商品の個別価値が市場価値を規制し、需要と供給が大きく均衡を外れている場合には比較劣位あるいは比較優位の商品の個別価値が市場価値を規制する、という説明になっている。市場価値よりも高い価格で売り出された商品は売れ残るだけ。需要超過で、現に市場にある商品だけで満たされなかった需要も、そのまま残される。需要と供給が出合い、その過不足が需要量や供給量の増減によって調整されるプロセスは想定されていない。時間はゼロ。需要と供給は、瞬時に出合い、瞬時に満たされる。価格変動なし、追加供給も追加需要もなし。それで市場価値の成立プロセスが説明されているかどうかは分からないが、すくなくともここでのマルクスの想定はそうなっている ((ただし理論的には、まず比較優位の商品と中位の商品とが売り尽くされ、そのあと比較劣位の商品がより高い価格で売られていくというプロセスがあり、さらにその次の段階では比較優位の商品も中位の商品も最初から比較劣位の価格で売り出されるようになるというプロセスが想定されているだろうが。))。

さらに、新日本新書版で312ページから317ページにかけて、マルクスはもう一度、市場価値と個別的価値との関係を論じている。そこでマルクスは、まず次のように2つの場合に分け、さらに第2の場合を3つのケースにに分けて、話をすすめている。

  1. 「商品総量全体、すなわち、まず1つの生産部門の商品総量全体を1つの商品と考え、多数の同一商品の価格の総額を1つの価格に集計されたものと考える場合」(同前、312ページ)。
  2. 「商品の大部分がほぼ同じ標準的な社会的諸条件のもとで生産」されていて、「比較的小さい一部分」がより悪い条件のもとで生産され、他の「比較的小さい一部分」がよりよい条件のもとで生産される場合。
    • より悪い条件の下で生産された商品の価値とよりよい条件の下で生産された商品の価値とが相殺される場合(同前、313ページ)。
    • 「より悪い諸条件のもとで生産された商品総量部分が中位の総量に比べても、相対的にいちじるしく大きい」ために、「より悪い諸条件のもとで生産された諸商品の価値がよりよい諸商品のもとで生産された諸商品の価値と相殺されない」場合(同前、313ページ)。
    • 「中位よりもよい諸条件のもとで生産された商品総量が、中位よりも悪い諸条件のもとで生産された商品総量をいちじるしく凌駕し、また、中位の事情のもとで生産された商品総量に比べてもいちじるしく大きい」ために、相殺されない場合。(同前、314ページ)

これら場合分けは、同じ次元で分類している訳でなく、想定する条件がだんだんと複雑になっていることが分かるだろう。

第1の場合について、マルクスは次のように述べている。

事態がもっとも分かりやすく示されるのは、商品総量全体、すなわち、まず1つの生産部門の商品総量全体を1つの商品と考え、多数の同一商品の価格の総額を1つの価格に集計されたものと考える場合である。その場合には、個々の商品について言われたことが、いまでは文字どおり、市場に現存する、一定の生産部門の商品総量にあてはまる。商品の個別的価値が商品の社会的価値に一致するということは、いまや総分量〔商品総量〕はその生産に必要な社会的労働を含んでいるということにまで、そしてこの総量の価値はその市場価値に等しいということにまで、現実化され、または、いっそう進んで規定されている。(『資本論』同前、312〜313ページ)

これを高橋氏は加重平均説が正しいという論拠の1つにしている ((高橋2009、31ページ。))。しかし、あらためて読んでみるとちょっと違うのではないだろうか。むしろ注目すべきは「事態が最も分かりやすく示されるのは」という最初の文句。それに注目してみると、僕には、マルクスは大量支配的な価値規定を主張したいのだが、それが分かりにくいと考えて、近似的な説明として、まず「1つの生産部門の商品総量全体を1つの商品と考え」てはどうかと言っているように読めるのだが、どうだろうか。

そこで次の段落で、第2の場合として、「1つの生産部門の商品総量全体」が「1つの商品」とはみなされないが、「標準的な社会的諸条件」で生産された商品が「1つの生産部門の商品総量全体」の大部分を占めていて、比較優位および比較劣位の商品は「1つの生産部門の商品総量全体」の「比較的小さい一部分」しか占めない場合に話を進めている。そしてまず、比較優位の商品全体の価値と比較劣位の商品全体の価値が「相殺」される場合を取り上げる。このケースでは、市場価値は「中位の諸条件のもとで生産された諸商品の価値によって規定される」(同前、313ページ)だけでなく、比較優位の商品価値と比較劣位の商品価値とが相殺されるので「総計一致」命題がなりたつから、個々の商品の市場価値と加重平均とは等しい。市場価値の大きさについての説明としては、第1の場合に次いで分かりやすいと言える。
 しかし、比較劣位の商品全体の価値と比較優位の商品全体の価値とが一致するというのは例外的にしか成り立たない。そこでマルクスは、それらが相殺されないケースをあげて、個別的価値と市場価値の関係を論じている。

こういうふうに考えれば、マルクスの考えは大量支配規定説あるいは限界規定説であって、加重平均説的な説明はあくまで大量支配規定説を読者に分かってもらうための便宜的な説明だと読めないだろうか ((ただし、そう考えたとしても、高橋氏が29ページで引用されている、『資本論』新日本新書<9>、316ページからの引用部分は、加重平均の説明としか読めないが。))。

おもしろいのは、そうした説明の最後にマルクスがこう述べていることだ。

 ここで抽象的に述べたこのような市場価値の確定は、現実の市場では、買い手たちのあいだの競争によって媒介される――ただし、需要が、こうして確定された価値どおりに商品総量をちょうど吸収するだけの大きさであるということを前提してのことであるが。(『資本論』同前、317ページ)

つまり、マルクスは、需要は供給をちょうど吸収するということをを前提にしながら、買い手の競争によって市場価値は確定される、と考えているのだ ((先ほどの中位の商品だけでほぼ需要を満たすという想定との関係はよく分からないが。))。高橋氏は、もっぱら売り手側の競争によって市場価値の規定を論じているが、マルクスのこの想定はどう考えるだろうか。

実はマルクスは、このあともまだまだ市場価値の規定について考察を進めており、さらにマルクスに即して考えなければならないのだが、もはや長くなりすぎたので続きはまた今度。

【書誌情報】
著者:高橋勉(たかはし・つとむ)/書名:市場と恐慌 資本主義経済の安定性と不安定性/出版社:法律文化社/発行:2009年12月/定価:6,600円+税/ISBN978-4-589-03194-5

マルクスの市場価値論」への2件のフィードバック

  1. 1857-8年の貨幣飢饉でも、戦前日本の金解禁失敗でも、とりあえづはひとつ(なんでもいいと思います)恐慌の事例を深めるのもいいと思います。
    そうすれば、資産取引における交通関係の今昔が分かりますし……

  2. 本書は私も興味深く読んでいます。なるほど!と言うような論点もあるのですが、?ということもあります。高橋氏の富塚批判などです。高橋氏は一橋出身みたいで、昔から一橋のマルクス経済学者は少し論点に強引な点があるのが難点です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください