米大使が、沖縄の米軍基地の全面的撤去の可能性を認めていた!

外務省が沖縄返還交渉にかんする外交文書を公開。

1本目の記事は、「糸で縄を買った」と言われた沖縄返還交渉で、佐藤首相の「密使」としてアメリカと交渉した若泉氏が著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で書いていたことが外務省資料で裏づけられたという話。これまで日本政府は、密約を否定してきたのだが、はたしてどうするつもりだろうか。

ニクソン大統領からの密約文書か 日米繊維交渉で交わす:朝日新聞

しかし、それより興味深いのは読売の記事。それによれば、1967年4月の段階で、ライシャワー駐日大使が、沖縄の米軍基地をすべてグアムに移転する可能性に言及していた。「沖縄はキーストーンだ」といって、何としても確保し続けようという動きもあっただろうが、他方で、沖縄県民の復帰要求を認め、日本返還は避けられないという状況判断が下されれば、基地の全面撤退だってちゃんと計算に入れる。アメリカの外交は、そういう合理性をもっている。

しかし、同年7月の三木首相とジョンソン米駐日大使との会談では、日本側から、米軍基地を存続させたまま「施政権」のみ返還するという方針で臨みたいと主張している。このとき、日本側がきっぱりと基地撤去を要求していれば、沖縄の基地はどうなっていたのだろうか。

在沖縄米軍の完全撤退に言及…67年に米元大使:読売新聞
沖縄基地存続求める「覚書」米に提示 返還交渉で政府:朝日新聞

ニクソン大統領からの密約文書か 日米繊維交渉で交わす

[asahi.com 2011年2月18日15時3]

 沖縄返還を進めるため、日本が対米繊維輸出の規制に向けた秘密交渉を約束したとされる1969年の「日米繊維密約」をめぐり、当時の佐藤栄作首相がニクソン大統領から首脳会談時に渡されたとみられる米側の秘密文書が外務省保管ファイルから見つかった。
 首相の密使とされた国際政治学者若泉敬氏が、会談前にキッシンジャー大統領補佐官から渡されたとして著書に収めたのと同じ内容。日本政府は若泉、キッシンジャー両氏の交渉を否定してきたが、若泉氏の記した通りだった可能性が強まった。
 文書は、外務省外交史料館で保管されている69年11月の首脳会談の繊維部分についての日本側会談録と同じ場所に収められていた。「毛製品および化合繊製品に、それぞれ別個の全体的な上限を設ける」など対米繊維輸出の上限などの規制内容が印字され、紙の上部に手書きで「Top Secret」(最高秘密)と書かれている。この一枚紙は会談録とともに、「特秘」の赤い印が押された外務省の封筒の中に保管されていたとみられる。
 若泉氏は著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」で、首脳会談の約2カ月前にキッシンジャー氏から、スタンズ商務長官が「日本に対して最大限譲れるギリギリのところ」を示した紙として「手渡された」と記している。日本政府は国会答弁等では両氏の秘密交渉を否定していた。
 18日に公開された日本側外交文書の中には「総理が首脳会談の際にニクソンから手交された紙の内容を某事務官が記憶により記したもの」として、米側文書とほぼ同じ規制内容が書かれていた手書きのメモもあった。下部には「商務省のタイプライター?」とも書かれ、タイプされたスタンズ商務長官の紙を再現したことをうかがわせる。
 繊維密約に詳しい日大の信夫隆司教授(日米外交史)は「若泉、キッシンジャー両氏の事前のシナリオ通りに、佐藤首相が早期解決を約束した可能性が高い」と分析する。日米は71年10月に政府間協定に仮調印したが、「首相が解決を約束したとみられるスタンズの紙に沿った結論だった」(信夫教授)という。
 さらに、首脳会談後に下田武三駐米大使が愛知揆一外相に密約状態の解消を繰り返し進言していたことを示す複数の文書も18日、公開された。
 70年1月の電報では「(首脳会談で)早期解決の実現方につき相当強いコミットメントを総理が行われたことも厳然たる事実」「この事実を秘匿してわが関係当局ないし業界を説得することは所せん困難」「事実は事実としてありのままに堂々と説明せられ、その同調を求められることとし差し支えなき筋合いか」と指摘。同年3月の電報でも「首脳会談の経緯を秘匿する必要は必ずしも大ではなかった」「従来の惰性によりこの経緯に触れることをタブーとし、ひたすらこれを秘匿し来った」「改めるのは今からでも決して遅くない」と進言していた。(鶴岡正寛)

在沖縄米軍の完全撤退に言及…67年に米元大使

[2011年2月18日12時29分 読売新聞]

 外務省は18日午前、沖縄返還や日米繊維交渉の記録などの外交文書のファイル606冊を東京・麻布台の外交史料館で公開した。
 この中で、米国のライシャワー元駐日大使が大使退任後の1967年4月、沖縄の米軍基地に関して「グアム島にそっくり移すことは理論的には可能であるが、30(億)ないし40億ドル(当時1兆800億〜1兆4400億円)の経費がかかるという推定が軍部によってなされている由である」と発言していたことが明らかになった。米軍が返還後の沖縄から完全撤退するケースも含めて検討していたことがうかがえる。
 在米日本大使館から外務省に送られた公電によると、ライシャワー氏は外務省関係者に対し、軍部による移転費用の試算に言及したうえで、「かりにこれが議会に伝えられた場合、議会全体として『日本を安みんさせておくためにこんなきょ額を出すのは反対』という反応が非常に強いであろう」と指摘していた。
 また、下田武三駐米大使が愛知揆一外相に送った公電で、米政府が69年10月、「沖縄返還に伴うあらゆる補償債権の推定」として、日本側に6億5000万ドル(当時2340億円)の負担を要求していたことも明らかになった。

沖縄基地存続求める「覚書」米に提示 返還交渉で政府

[asahi.com 2011年2月18日10時8分]

 沖縄返還に向けて日米両政府が交渉していた1967年、外務省が米政府に対し、米軍基地を存続させたままで施政権の返還を求める内容の文書を提示していたことが、18日、公開された外交記録文書で明らかになった。
 以来、基地の維持を前提に協議は進められ、返還後も広大な基地が残る形となる。交渉が本格化した時点で日本側が、沖縄返還と基地の関係について公式に考えを示したもので、専門家は、文書を重要な転換点の一つとみている。
 文書は「覚書」と題され、日本文で9ページ。67年7月15日の三木武夫外相とジョンソン駐日米大使(いずれも当時)との会談の際に、米側に渡された。会談では、沖縄返還とともに、当時まだ米国が統治していた小笠原の返還について協議された。
 文書の冒頭部分で、沖縄などが「日本及び極東の平和と安全のため果たしている役割り」に触れ、そのうえで「沖縄の果すべき軍事的役割り」と「施政権返還の国民的願望」を調整する方法として「米軍基地を存続せしめつつ施政権を返還する方途を探求することとなる」と明言している。
 小笠原については「軍事的役割りが限られているやにみられる」として、米国が施政権を「保持し続けなければならない理由は容易に理解し難い」と指摘しつつ、沖縄、小笠原の問題は「日本の安全保障の問題であり、極東における平和と安全の問題である」としている。
 その後の交渉では、基地の存続と「抑止力」を前提に、核兵器の扱いや有事の際の出撃が焦点となるが、具体的な基地の機能の必要性について論議が深まらないまま、多くの基地が残ることとなる。
 67年当時、外務省北米課長として交渉にあたった枝村純郎氏=元駐ロシア大使=は「沖縄の基地を撤去するということは日本政府では考えられなかった」と話している。
 返還交渉に詳しい琉球大学の我部政明教授(国際政治学)の話 67年の日米交渉を通じ、日本は米国と同じ視点で基地の重要性を認め、そのことが大きな転換点となった。しかし、具体的な基地機能への理解は欠いたまま現在に至っている。(川端俊一)

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