コンヴィチュニーの演出ということで話題にもなっている二期会オペラ劇場「サロメ」を見て参りました。
ですが、オイラの頭がアホなのか、はたまた芸術的センスがゼロなのか、さっぱり訳が分かりませんでした。(^_^;)
コンヴィチュニーの演出については、下の産経新聞の記事を参照してもらうとして、僕には分からなかったのは、サロメとヨカナーンの距離感。ヨカナーンはくり返し「私に触れてはいけない」といい、またサロメのほうを見ようとしないことになっているのだが、舞台のうえでは、サロメはヨカナーンに抱きつくし、ヨカナーンはサロメを追いかける。触れてはならないヨカナーンだからこそ、最後に、生首に接吻する意味があると思うのだが、そういうところはまったくお構いなしという感じだった。ヨカナーンが劇中でどたばたするのも理解に苦しむ。
ヘロデ王も、娘にたいして許されざる情欲を抱く一方でヨカナーンを真の予言者だと思い、畏怖するという二面性が、すこしも感じられない。サロメに、ヨカナーンの首をと言われて、さんざん逡巡するあたりが、なんだかよく分からないドタバタ劇のうちに終わってしまった。
登場人物を最初から全員舞台に上げてしまうというのは勝手だが、やることのない役者が、舞台のあちこちで余計な小芝居をするので、肝心のサロメたちのやりとりが埋没してしまう。
ほかにも、疑問だったり、安易に思われたりする場所は多々。それならコンヴィチュニーの演出を見に行かなければいいじゃないかと言われそうだが、原作と矛盾するような芝居をかぶせて「想像を絶する」演出といわれても、こちらは面食らうばかりだ。
ということで、カーテンコールでコンヴィチュニー氏が登場したさいには、生まれて初めてブーイングをさせていただきました。m(_’_)m
東京二期会「サロメ」非道徳が渦巻く舞台に光る人間存在の真実:MSN産経ニュース
東京二期会「サロメ」非道徳が渦巻く舞台に光る人間存在の真実
[MSN産経ニュース 2011.2.22 12:16]
世界的なオペラ演出家として知られるペーター・コンビチュニーが、新演出をほどこしたリヒャルト・シュトラウスの楽劇「サロメ」が東京二期会の公演として東京文化会館(上野公園)で上演される。英国の作家、オスカー・ワイルドが19世紀末的退廃を盛り込んだ原作にも通じる性や薬物などへの耽溺(たんでき)も憶することなく舞台に示し、大オーケストラの豊麗な響きを駆使したシュトラウスの音楽から、人間性の根源を鋭くえぐり出していく。
新約聖書の記述を元にした「サロメ」の原作は、紀元前後のエルサレムが舞台。領主の美しい娘、サロメは古井戸に幽閉された預言者のヨカナーンに心を強く引かれ、妖艶(ようえん)な踊りの褒美として、その生首を求める背徳の物語だ。
既成の概念をすべてひっくり返すような大胆な読み替えで知られるコンビチュニーは、今回も驚異的なステージを用意した。劇中の人物は登場人物に関係なく、全員が最初からステージに登場する。それは古代の宮廷ではなく、防空壕(ごう)か核シェルターを思わせる閉塞(へいそく)された空間で、名画「最後の晩餐(ばんさん)」をほうふつとさせる長いテーブルがあるだけ。
「舞台上にある世界は、現実の世界です。少なくともサロメにとって逃れがたい現実です」とコンビチュニー。舞台では性的暴行に加え、人肉食さえ思わせる場面が次々と展開される。
「現代の社会で、経済や政治といった大きな枠組みから逃れて生きていくことは難しくなっています。そして自分自身が抱いている倫理観や宗教観を正しいことだと信じています。さらには正義だと主張するものを相手に押しつけ、時には暴力や武力をもって実現しようとします。それはどの社会でも、誰にでも起こりうることです。そんな世界がオペラの舞台になっています」
非道徳的な惨状が繰り広げられる中で、サロメは超然とした存在感を持つヨカナーンに引かれる。ありったけの思いを訴えるが果たせず、苦しみを深くする。サロメは出口のない空間の壁に、ドアのような線を描いて、その胸の内を暗示する。コンビチュニーはそんなヒロインの心中をこう説明する。
「登場人物の中で、ただ一人純粋な愛を貫こうとするのがサロメです。目をそむけたくなるような人間の本質があらわになっている現実の中で唯一、まともな人間なのです。そして厳しい現実から脱出したいと熱望し、もがき苦しみます」
コンビチュニーは、それはいつの時代でもある人間の苦しみであり、現代社会が抱える問題が大きくなるほど、重くのしかかってくると説明する。
「サロメの描いた線は外の世界をのぞこうとする窓のようなものです。淫蕩(いんとう)にふける周囲の人間も、心底から脱出を渇望しながら絶望しているのです」
サロメは、ついにヨカナーンの命を奪ってさえも思いを果たそうと考える。ヨカナーンの首を求めたヒロインを断罪する声で幕となる。
「『あの女を捕らえよ!』と、劇中の人物から声が発せられます。でも私はこの声の主が誰であるのかを深く考えてみました」とコンビチュニー。
「サロメは自分自身の気持ちに忠実に生きただけです。罪があると断言できるでしょうか。純粋な思いを果たそうと行動したことは、人間が現実の中で生きる上で、本当はどんな意味を持つのかを考えたかったのです。舞台の上の人物の問題ではなく、聴衆のみなさんの問題として考える場を提供したかったのです」
公演は22、23、25、26日。問い合わせ東京二期会03-3796-1831。
こちらも参照↓ ただしこれは、昨年のびわ湖ホールでの公演のときのもの。
ペーター・コンヴィチュニー『サロメ』を語る:東京二期会
ここ↑でコンヴィチュニー氏が語っているサロメやヨカナーンの人物像については、僕もその通りと思うのだが、はたして今日演出されたサロメやヨカナーンが、ここで語られていたような人物になっていたのか、かなり疑問。
【関連ブログ】
東条碩夫のコンサート日記 2・21(月)東京二期会 R・シュトラウス:「サロメ」ゲネプロ
オイラは貧乏人だから、がんばってせいぜい4階の止まり木席だったが、上から見ると、1階席や2階席はかなりガラガラ。ブーイングもさりながら、この入りの悪さも、「観客」の評価だろうか。
ところで、「朝日新聞」による指揮のシュテファン・ゾルテス氏へのインタビュー記事↓。
「サロメ」の狂気、繊細に ドイツの名匠ゾルテスが来日:朝日新聞
サロメのことより、最後の文化予算云々の話のほうがおもしろい。「些少の文化予算を削ったところで、財政危機は解決できない」とは至言である。
「サロメ」の狂気、繊細に ドイツの名匠ゾルテスが来日
[asahi.com 2011年2月17日15時6分]
ドイツの名門、エッセン歌劇場を名実ともに率いる名匠シュテファン・ゾルテスが今月、リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」を振るため来日した。「音楽と演出の両面から、このスキャンダラスな傑作の原点に戻る」と制作の狙いを語る。
今回の「サロメ」は、オランダとスウェーデンの各歌劇場と二期会による共同制作。預言者ヨカナーンの首を求めて舞う、狂気の王女サロメを素材としたリヒャルト最初期の野心作だ。
室内楽的な洗練へと至った「ばらの騎士」などに比べると、管弦楽に厚みがあり、響きの表現も斬新だが「作曲家自身は、メンデルスゾーン的な軽みを目指していたと語っている。壮大とはいえ、音響で圧倒するのではなく、繊細な表現を実現したい」と語る。
一方で、リヒャルトを「庶民からマニアまで、すべての層の人々の感情に訴えることをいつも考えていた」と分析する。「サロメ」は、そんな彼の職人気質が最も感じられる作品でもあるという。
演出は、時に音楽をも分断するほどの過激な舞台で知られる鬼才ペーター・コンビチュニー。今回の演出にもショッキングなシーンがふんだんに出てくるが「そもそもオスカー・ワイルドの原作自体がスキャンダルだった。『サロメ』は崩壊していく社会を見せるオペラであり、コンビチュニーの演出はその本質にかなっている」。
ハンガリー生まれ。ウィーンで指揮者として歩み始め、カラヤンやベームのアシスタントに。その後拠点をドイツに移し、ハンブルクやベルリンで活躍。1997年からエッセン歌劇場で、総裁兼音楽総監督を務めている。
欧州の歌劇場では、運営の責任者には経営にたけたビジネスマンがつくケースが増えており、ゾルテスのような「指揮棒を持つ総裁」はそう多くない。しかし「音楽の現場を知る人間がすべてを統治するのが、一番シンプル。いまどこにお金がいるか、どこに人が足らないか、どこに有望な若手がいるか、肌でわかるから」。
文化大国ドイツとて世界的な不況の波からは逃れられず、ゾルテス自身も歌劇場の予算を減らされぬため政府と闘う日々という。「文化予算を減らすことは財政危機の何の解決にもならない」と公開書簡を送ったことも。
「文化予算減らしは、『これほど切迫している』という無意味なアピールにすぎない。はっきり言いましょう。どの国だって、些少(さしょう)の文化予算を削ったところで、財政危機を解決することなどできない。警察や法律を整備して安全を提供することと同様、国には国民に質の高い文化を提供する『義務』がある」
出演はサロメの林正子(22、25日)、大隅智佳子(23、26日)ほか。22、25日午後7時、23、26日午後2時、東京・上野の東京文化会館。1万8千?8千円。電話03-3796-1831(二期会)。(吉田純子)
【公演詳細】 二期会オペラ劇場
指揮:シュテファン・ゾルテス/演出:ペーター・コンヴィチュニー/舞台美術・衣装:ヨハネス・ライアカー/サロメ:林正子/ヘロデ:高橋淳/ヘロディアス:板波利加/ヨカナーン:大沼徹/管弦楽:東京都交響楽団/会場:東京文化会館/開演:2011年2月22日 午後7時