マルクス年譜

アドラツキー監修『カール・マルクス年譜』(広島定吉訳、改造社、1936年刊)

マルクスの年譜というと、大月書店から出版された『マルクス=エンゲルス略年譜』 ((1975年刊。1976年に、同書店「国民文庫」の1冊としても刊行された。))がよく知られているが、こちらは、戦前、改造社から発行された『カール・マルクス年譜』(広島定吉訳、1936年刊)。ソ連のマルクス・エンゲルス・レーニン研究所からアドラツキーの監修で出されたロシア語版(1935年)の翻訳。

大月書店の『マルクス・エンゲルス略年譜』と違って、マルクスの年譜なので1883年3月17日で終わっているが、それだけでなく、各項目に典拠が記されているところが一番大きな違いだろう。その多くは、マルクスやエンゲルスの著作あるいは手紙だが、なかには、全集には収録されていない典拠が指摘されている項目もある。たとえば1846年2月の項(このころにマルクスたちが共産主義者通信委員会を組織し始めた)では、その典拠が、1846年3月30日付のエンゲルス宛ジョージ・ハーニの手紙および同年7月27日付マルクス宛エーヴェルベックの手紙であると書かれている ((これらの手紙は、大月書店『マルクス・エンゲルス全集』には未収録だが、新MEGAで読むことができる。))。

また、年譜の項目数(もちろん、マルクスにかんするものだけ)で比べても、戦前の『年譜』のほうがはるかに多く、内容もより詳しく拾われている。たとえば、1867年をとってみると、1月には「マルクスひどく金に困り、パン屋だけでも20ポンドからの借金が溜る。家主より家賃を片づけてくれなければ、家を出てくれと申渡さる」とか「トロルド・ロシャースの『農業史』を読む」などと書かれている。

また、国際労働者協会総評議会へのマルクスの出席も、議事録から詳しく拾われていて、同年だけでも、1月22日(これは大月版『略年譜』にもあり)、2月26日、3月5日、3月12日、7月9日(『略年譜』にあり)、7月23日、7月30日、8月6日、8月13日(『略年譜』にあり)、8月27日、9月24日(『略年譜』にあり)、10月8日、10月22日、11月5日、11月19-20日(20日については『略年譜』に記述あり)、11月26日、12月3日、12月17日の会議に出席したことが指摘されている ((この日付からお気づきの通り、国際労働者協会総評議会は、毎週会議を開いていたのだろう。ちなみにインターネットで調べると、これは毎週火曜日ということになるのだが、ほんとにそれで合ってるのだろうか))。

その各項目でも、たんに総評議会に出席したというだけの日もあるが、たとえば、3月5日の会議では、パリで「罷業中の青銅工の応援策を議す」、7月23日には「ニューヨークのドイツ共産主義者倶楽部が国際労働者協会に加入した報告をなし、労働組合が対外貿易に与える影響如何の問題について討論す」と書かれている。9月24日については、大月版『略年譜』ではマルクスが「ドイツ担当通信書記に再選される」としか書かれていないが、『年譜』には、この日の会議でオッジャーの議長再選が提案されたのにたいし、マルクスが議長職の廃止を提案して可決されたことも記されている。

このように見てくると、この『年譜』はかなり使えそうな気がする。

実は、このマルクス・エンゲルス・レーニン研究所の『マルクス年譜』は、戦後、ドイツ語版の翻訳が、岡崎次郎、渡辺寛訳で、1960年に青木書店から出版されている。しかし、古本市場ではかなり高価で、戦前の改造社版のほうが断然お手頃価格だ(私が買ったのは1,000円)。

ちなみにドイツ語版の原著タイトルは、Karl Marx Chronik seines Lebens in Einzeldaten. 1971年にフランクフルトでリプリントが発行されたようで、洋古書としてそれなりに出回り品がある。価格もあまり高くなかったので、とりあえず注文してみた。

「訳者序」を読むと、「欧州の政局はラインラントを中心にしきりに戦雲の急を告げ ((ドイツ・ヒトラー政権によるラインラント進駐は1936年3月7日。訳者序は同14日付。))、世界の緊迫した神経は、いまやこのライン流域に集まっている」と書かれていて、時代を感じさせる。

【追記】
大月書店の『略年譜』は、同書店『マルクス・エンゲルス8巻選集』の完結を記念して刊行されたもので、『マルクス・エンゲルス全集』第1巻〜第22巻の巻末につけられている「マルクス・エンゲルス――生活と活動」を元に、同書店編集部が独自に編集したもの。そこで、あらためて『全集』の「生活と活動」をめくって見ると、たとえば、1867年には、「1月から2月まで」として「マルクスは非常な物質的困窮に悩む。彼の家族は立ち退きを迫られ、家財の差し押さえを受けそうになる。エンゲルスがマルクスを援助する」と書かれている。こういう項目は、「マルクス、エンゲルスの理論的政治的活動が全体としてつかめることを旨」(凡例)とした『略年譜』では、不要だと判断されて省略されたのだろう。しかし、国際労働者協会総評議会の会議への出欠については、もともと『全集』の「生活と活動」に記述が少ない。国際労働者協会での活動がマルクスの生涯にわたる理論的政治的活動にとってどれほど大きな意味をもっているか、ということに、あまり考慮が払われていなかったのかも知れない。

なお、国際労働者協会の総評議会(中央評議会)は、実際、毎週火曜日に会議を開いていた。後輩のM田くんから、『全集』第16巻に収められている「労働諸団体への中央評議会のよびかけ」(パンフレットで発行された)で、中央評議会は「毎週火曜日、午後8時から10時までグリーク街18番でひらかれる」と書かれていることを教えてもらった。ありがとう。

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