第2次世界大戦以後のエジプトの歴史を調べようと思ったが、インターネットでエジプトの歴史にかんする文献を探してみると、ほとんどがピラミッドやクレオパトラ、ツタンカーメンのお話ばかり。ようやく見つけたのが、これ。
山口直彦『エジプト近現代史』(明石書店、2006年)
全部で350ページ近くある本ですが、第2次世界大戦後となると最後の50ページほど。書かれたのがちょうど5年前、前回の大統領選挙でムバラクが再選された直後。だから、サダト、ムバラクの時代は10ページほどしかなく、詳しいことはほとんど分からない。(^_^;)
それでも、第2次世界大戦あたりからの歴史をメモってみると、おおよそこんなところ。
エジプトはイギリスの植民地だったので、反英感情が強かったけれど、第2次世界大戦では、ともかく連合国側にたって参戦。
第2次世界大戦後、イスラエルが建国を宣言すると、周囲のアラブ諸国が建国を認めず、イスラエルに攻め込む(1948年)。このとき、周辺のアラブ諸国はほとんど封建王政だった。
しかしエジプト軍はイスラエル軍に大敗。これがきっかけとなって、エジプトはイギリスとの同盟条約を一方的に破棄して、対英武装闘争が始まり、結局、1952年に革命(翌年、共和制に移行)。このエジプト革命を率いたのがナセル ((オイラが子どもの頃は、「なせばなる、なさねばならぬ何事も。ならぬは人のなさぬなりけり」のもじりとして、「なせばなる、ナセルはアラブの大統領」という地口(「なんの園まり、天地真理」みたいなもの)があった。それぐらいナセルによるエジプト革命は世界的ニュースだったということだ。))。
エジプト革命の中心となった「自由将校団」は、ナギブを中心としたものだったが、クーデター後の改革をめぐって対立して、1953年11月にはナギブが失脚、ナセルが中心に座った。ナセルはスエズ運河を国有化するが、それに不満な英仏が、イスラエルにエジプトを攻撃させ、それを口実にスエズ運河を確保する軍事作戦を計画(スエズ動乱=第2次中東戦争)。しかし、計画は失敗。イスラエルはシナイ半島の大半を占領していたが、翌年、撤退。ナセルは、軍事的にはかなり苦しいたたかいを余儀なくされたが、エジプト国内はかえってナセルを中心に団結し、ナセルはアラブの英雄に。それで、1958年に、シリアとのあいだで「アラブ共和国連合」がつくられる。
1961年7月、ナセルが社会主義化政策を発表。2ヶ月後、シリアでエジプトとの統合に反対する軍がクーデタ、アラブ共和国連合からの離脱を発表。
1967年、第3次中東戦争が勃発。短時間でイスラエルがエジプト、シリア、ヨルダンを圧倒し、シナイ半島全域を占領。
1970年、ナセル急死。副大統領のサダトが大統領に。
1973年10月、エジプト軍がシリア軍とともにイスラエルを先制攻撃。スエズ運河の渡河に成功。その後、軍事的にはイスラエルが反攻するが、ともかく1975年に兵力引き離し協定ができあがり、スエズ運河を再開。そして、1977年、サダトがエルサレムを訪問。1978年、カーター米大統領の立ち会いの下で「キャンプ・デービッド合意」を締結、1979年にイスラエルと和平条約を結ぶ ((このとき、エジプトはアラブ連盟から除名され、アラブ連盟の本部がチュニスに移った。))。
1981年9月、サダト大統領が批判勢力の大規模摘発をおこなうが、その結果、10月、第4次中東戦争戦勝記念式典で暗殺される。
サダト暗殺で、ムバラクが大統領に。サダトの政策を継承しつつ、アラブ諸国との関係改善にもとりくみ、1984年にヨルダン、モロッコと国交回復。アラブ連盟に復帰。
1990年、湾岸戦争では、多国籍軍に参加。
【年表】
1914 イギリスがエジプトを保護領に。
1922 エジプトが一方的に独立を宣言。アワード、初代エジプト国王に即位。
1923 独立後初の憲法を公布(1923年憲法)
1930 国王の権限を拡大した新憲法公布(1930年憲法)
1934 1923年憲法に復帰
1936 イギリス・エジプト同盟条約を締結。アワード死去、ファルーク即位
1940 イタリア軍がエジプト侵攻
1943 北アフリカの枢軸国軍が降伏
1945 第2次世界大戦終結河地帯をのぞき撤退。エルが建国を宣言。エジプト、シリア、ヨルダン、レバノンの5カ国がイスラエルに宣戦布告し、パレスチナ戦争始まる(第1次中東戦争)。しかし、エジプト軍は敗北
1949 エジプト、イスラエルと屈辱的な停戦を余儀なくされる。51 エジプト、対英同盟条約を一方的に破棄し、スーダンの併合を宣言。対英武装闘争始まる。全土に非常事態宣言。
1952 自由将校団によるエジプト革命。ファルークが亡命。ナギブ内閣が発足。農地法を公布(土地所有の上限を設ける)。
1953 革命委員会、過渡的軍政を宣言。既成政党を解散。共和制に移行。ナギブが大統領兼首相に。
1954 ムスリム同胞団、非合法化。ナセル暗殺未遂事件。スエズ運河の英軍撤退条約を締結。ナギブ大統領解任
1955 ナセル、バンドン会議に出席。英軍、スーダンから撤退。アスワン・ハイダムの建設を発表。
1956 スーダン独立。エジプト、中華人民共和国を承認。軍政が終わり、国民投票でナセルが大統領に当選、新憲法も制定される。英軍、エジプトからの撤退を完了し、エジプトがスエズ運河地帯の英軍基地を接収。7月、ナセル、スエズ運河の国有化を宣言。英仏がスエズ運河確保のために、イスラエルにエジプトを攻撃させ、軍事介入をはかる(スエズ動乱=第2次中東戦争)。しかし英仏の軍事作戦は失敗、イスラエルも翌年3月に撤退。
1958 2月、シリアと「アラブ共和国連合」を結成。
1961 7月、ナセル、社会主義化政策を発表。9月、シリアでクーデタ、「アラブ共和国連合」から離脱。
1967 6月、第3次中東戦争。エジプトはガザとシナイ半島全域を失う。
1970 9月、ナセル心臓麻痺で急死。サダト副大統領が大統領に。
1973 10月、第4次中東戦争
1975 6月、イスラエルとの戦力引離し協定
1977 11月、サダト大統領、イスラエルを訪問。
1978 9月、「キャンプ・デービッド合意」
1979 3月、エジプト・イスラエル平和条約を締結
1981 10月、サダト大統領、戦争記念式典で暗殺される。ムバラク副大統領が大統領に。
この本では、ムバラク政権については、「経済政策でも大きな成果を上げた」と書かれている。このあたりは、5年前に書かれたものだから、そういうものとして読む必要があるが、1991年から経済構造改革に取り組み、GDPの2割に達していた財政赤字は1997/98年度には1%に縮小。2桁台だったインフレとも、2000/01年度には2.2%にまで低下。1人あたりGNPは、1990年から1998年までに倍増。IMF自身が、エジプトの経済改革を「特記すべき成功事例」と評価したらしい。(本書、336〜337ページ)
他方で、中東和平の行き詰まり、対イラク戦争などで、エジプト国内では反米感情が増幅。アメリカ国内でも「エジプトなどの親米アラブ諸国の非民主性こそが国際テロの温床」との議論もだされているそうだ。(同、338ページ)
経済面でも、最近は、ドバイなどの急成長で、地盤沈下しているらしい。さらに、貧富の格差の拡大。貧困層の比率は、22%(1990年)から44%(1995年)に拡大。人口の0.2%が富の8割を握っているとの研究もあるらしい。失業率は、公式統計で、9.85%(2008/09年度)、とくに15〜25歳の若者では3人に1人が失業。年率2%で人口が増えているが、教育予算が増えていないため、教育はむしろ質が低下し、非識字率も5割近い。(同、338〜339ページ)
こういうなかで、「イスラム原理主義」の問題も深刻になっている。
ということで、大雑把にエジプトの歴史は分かったけれど、チュニジアはとなると、まったく本がない。チュニジアの歴史の本を調べてみると、みんなカルタゴの話ばかり。あと、チュニジア関係の本というと、ほとんど観光案内ばかり。う〜む、困った。
【書誌情報】
著者:山口直彦(やまぐち・なおひこ 日本貿易振興機構勤務)/書名:エジプト近現代史――ムハンマド・アリ朝成立から現代までの200年/出版社:明石書店/発行:2006年/定価:本体4,500円+税/ISBN4-7503-2238-5