『1861-63年草稿』第3分冊後半をざっくり読む

『資本論草稿集』1861-63年草稿の第3分冊(「剰余価値にかんする諸学説」)の後半部分(大月書店『資本論草稿集』6、530ページ以下)をざっくりと読んでみます。

530ページに「剰余価値にかんするリカードウの理論」の見出し。これはマルクスのもの。とはいえ、ここで取り上げられているのは『経済学と課税の諸原理』の後半部分。

章の書かれていない530ページの冒頭部分の引用は、第25章「植民地貿易について」から。

そのあとは、

第26章「総収入と純収入について」(531ページ)
第12章「地租」(535ページ)
第13章「金にたいする課税」(536ページ)
第15章「利潤にたいする課税」(543ページ下段)
第17章「原生産物以外の諸商品にたいする課税」(549ページ上段)

など。

で、561ページ下段(草稿650ページ)で、「われわれは、こんどはリカードウの剰余価値論の説明に移ろう」と書かれている。このあとは、第1章「価値について」からの引用がおこなわれているし、「一 労働量と労働の価値」(561ページ)から「五 利潤論」(604ページ)まで見出しを立てて書いている。あらためてリカードウの価値論・剰余価値論の批判を始めたということだろう。

しかし、いつものように後ろに行くほど長くなって、章立てが不揃いになる。

「一 労働量と労働の価値」は日本語訳561〜567ページ(草稿650ページ〜652ページ)
「二 労働能力の価値。労働の価値」は567〜573ページ(同652〜655ページ)
「三 剰余価値」は573〜591ページ(草稿655〜661ページ)
「四 相対的剰余価値」は591〜603ページ(草稿661〜666ページ)
「五 利潤論」は604〜619ページ(草稿666〜673ページ) ※619ページ「利潤率の低下にかんする法則」まで

このあとは、数字がなくなり、「利潤率の低下にかんする法則」が619〜665ページ(草稿673〜694ページ)が続き、666ページからは「蓄積論」が始まる(草稿694〜732ページ)。

「蓄積論」の最後には、「以上が、蓄積と利潤率低下の法則とにかんするリカードウの所説である」とあるので、マルクスの意識としては「利潤率の低下にかんする法則」の項と「蓄積論」の項は一体なのかも知れない(あるいは、「五 利潤論」の中の小項目か?)。

「蓄積論」の中では、邦訳712ページから、「恐慌の可能性」についての考察が始まっている。

第1。販売と購買の分離のうちにのみ存在する恐慌の可能性。必然的に相互補完的な諸形態・諸局面が、内的で必然的な相互関係にもかかわらず、相互に無関心に存在し、時間的にも空間的にも分裂し、相互に分離しうるしまた分離させられた、その過程の独立の部分でありその諸形態であるということ。

直接的な物々交換の場合には、恐慌の可能性は存在しない。

ここで言われているのは、「この形態そのもののなかに、本質的には相互補完的な諸契機が分裂してばらばらになる可能性が横たわっている、ということだけ」(713ページ下段)

第2の形態は、715ページ下段に登場。

すぐそのあとから、この2つの形態が、「資本の再生産過程」でどのように拡大されるかが論じられている。

第1の形態がどう拡大されるかは、716ページで。

第2の形態、士は依頼手段としての貨幣の形態から生じる恐慌の可能性がどう拡大されるかは、716ページ下段3行目の段落から。

718ページ上段。「したがってなぜこれらの形態がその危機的な側面を表に出すのか、なぜこれらの形態に潜在的に含まれている矛盾が実際に矛盾として現われてくるのか、ということは、これらの形態だけからは明らかにすることができない」

「いま問題であるのは、潜在的恐慌のより進んだ発展――現実の恐慌は、資本主義的生産の現実の運動、競争と信用からのみ説明することができる――を追跡することである」(同、下段)。

直接的生産過程(第1部)では「恐慌の新しい要素は付け加わらない」。

「その事態」(価値の実現、剰余価値の実現)は「それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程において初めて現われうる」(710ページ上段)。

「完成した資本……を説明する前に、流通過程、すなわち再生産過程を説明しなければならない」(710ページ上段)

だから、再生産過程と、この際生産過程のなかでさらに発展した恐慌の基礎とは、この項目そのもののもとでは、ただ、不完全にしか説明されないのであって、「資本と利潤」の章でその補足を必要とする。(710ページ上段〜下段)

次のパラフレーズは、どう解釈したらよいのだろうか。

「資本の総流通過程またはその総再生産過程は、資本の生産部面とその流通部面との統一であり、両方の過程を自己の諸部面として通過するところの一過程である。この過程のなかに、さらに発展した恐慌の可能性またはその抽象的な形態が存在する」(710ページ下段)

後ろの文の「この過程」というのは、その前の文の「一過程」のこと。で、その「一過程」は、「生産部面と流通部面の統一」のことだ。ということは、ここで言っているのは、『資本論』第2部のこと? それとも、第3部のこと? どっちなんでしょうか。

う〜む、まだよう分からん。「ざっくり」といいながら、ちっともざっくりこない…。

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