『1861-63年草稿』第3分冊後半を引き続きざっくり読む

続きです。

こういう学説史の部分を読んでいると、ついついマルクスが引用しているリカードウの部分を、リカードウの著作にもどって読み直して、リカードウの論理をどういうふうにマルクスが批判したのかを追体験? し直そうとしてしまいますが、そうやってリカードウにさかのぼってみても、結局、マルクスがリカードウの学説を検討することを通じて、みずからの経済学の認識をどう発展させたのか、という肝心の問題はちっとも深まらない。

だから、そういう「さかのぼり」はこの際きっぱり諦めて、関心を、もっぱら、マルクスがリカードウ学説との格闘を通じて、自分の経済理論をどう発展させたのか、自分の理論としてどんな新境地を切り開いていったのか、というところに向けて、読んでいった方がいいと思う。ほんま。(^_^;)

ということで、大月書店『資本論草稿集』6、561ページ「一 労働量と労働の価値」から。

冒頭でマルクスは、スミスが商品の生産に必要な労働量による商品の価値規定と、労働の価値(すなわち労働の報酬)による商品の価値規定を混同している、という問題を取り上げている。

これは、『資本論』第1章注16でも取り上げられている、重要な問題。この注については、ここに前に書いた。資本論では、ごく簡単に結論だけが書かれているけれど、草稿集のこの部分では、この問題の意味が詳しく明らかにされている(562ページ上段〜下段にかけての段落)。

さらに、563ページ下段からの段落では、その問題がもっとわかりやすく取り上げられている。「労働の価値と労働の量とは、対象化された労働だけが問題である限りでは、同義の表現であるが、対象化された労働と生きた労働が交換されるようになると、それらは同義の表現であることをやめる」云々。ここでマルクスは、アダム・スミスの言うとおりなら、なぜ12時間の生きた労働の対価として、6時間の対象化した労働しか支払われないのか? という問題を提起している。

そのあとのところで、マルクスは、「一方は生きている労働であり、他方は対象化された労働である。したがって、それらは二つの違った形態の労働にすぎない。相違はただ形態にすぎないのだから、なぜ一方にあてはまる法則が他方にあてはまらないのか? リカードウは、それに答えていないし、この問題を提起さえしていない」と書いているが、だからといって、マルクスが「一方は生きている労働であり、他方は対象化された労働である。したがって、それらは二つの違った形態の労働にすぎない。相違はただ形態にすぎないのだから、なぜ一方にあてはまる法則が他方にあてはまらないのか?」と考えていたと読んではいけない。566ページ上段にいくと、「問題をこのように提起するならば、それは……解決不可能である」と書いている。つまり、マルクスは、「一方は生きている労働であり、他方は対象化された労働である。したがって、それらは二つの違った形態の労働にすぎない。相違はただ形態にすぎないのだから、なぜ一方にあてはまる法則が他方にあてはまらないのか?』という問題の立て方そのものを批判しているのだ。

これで「一 労働量と労働の価値」は終わり。

続いて、567ページ「二 労働能力の価値。労働の価値」。

568ページで、マルクスは、リカードウによる「労働の価値」規定を引用している(この引用は、『諸原理』第5章から。岩波文庫だと、上、133ページおよび139ページ)。で、それをマルクスの言葉で要約。「労働の価値は、ある与えられた社会で労働者の扶養や増殖にとって伝統的に必要な生活手段によって規定されている」(568ページ下段)。

で、おもしろいのは、マルクスがこのリカードウの「労働の価値」規定を、「実際には、需要供給の法則が労働の経院価格を労働者の生計に必要な生活手段に帰着させるということ以外にはなんの答えももっていない」と答えていること。

569ページ下段。ベイリのリカードウ批判の引用。これは、『資本論』第6篇「労賃」の第17章「労働力の価値または価格の労賃への転化」の冒頭の注21に再現している。そこではマルクスは、引用だけしかしていないが、草稿集では、「この反駁は一語一語正しい」と手厳しい。

そのあと、同じ段落だけど、話は「名目賃金と実質賃金」の話に代わっていることに注意。

572ページ下段。アダム・スミスが「一定量の労働」を「価値の尺度」「つねに同じ価値を持つ」と主張していることについては、前出、『資本論』第1章第2節の注(16)に出てくる問題。ここでおもしろいのは、そのスミスの誤りにたいして、「リカードウは二重に誤りを犯す」としているところ。

以上で、「二 労働能力の価値。労働の価値」は終わり。

573ページ「三 剰余価値」。

575ページ下段。リカードウの経済理論の位置づけ。「リカードウは、資本主義的生産の眼前の事実から出発する。労働の価値は、労働がつくり出す生産物の価値よりも小さい。したがって、生産物の価値は、それを生産する労働の価値よりも、すなわち賃金の価値よりも、大きい。生産物の価値のうち賃金の価値を超える超過分は剰余価値である(リカードウは間違って利潤といっているが……)。彼にとっては、生産物の価値が賃金の価値よりも大きいということは、事実なのである。この事実がどのようにして成立するかは、はっきりしないままである」云々。だから、剰余価値がどこから生まれてくるかは説明できず、「剰余価値の増減」だけが説明できることになる。

576ページ下段。剰余価値の生産のためには「まず、労働者が、前に述べたような限界を超えて労働することが強制されなければならない。そして、この強制を加える者が資本なのである。リカードウにはこの点が欠けている」云々。だからリカードウには「標準労働日の制定のための全闘争が欠けている」。

581ページ下段〜582ページ上段。「リカードウは、与えられた価値を持っている諸商品から、すなわち与えられた労働量を表わす諸商品から、出発する。そして、この出発点からすれば、絶対的剰余価値と相対的剰余価値とはつねに一致するように見える」。「これは、彼の議論の進め方の一面性を明らかにしている」云々。

これにたいするマルクスの批判。「こうした外観は間違いである」「ここで問題なのは、商品ではなく、資本主義的生産であり、資本の生産物としての商品である」とズバリ。

586ページ上段。真ん中あたり。「こうして、リカードウの場合に見いだされるものは、ただ、私が相対的剰余価値と呼んだものについての説明だけである」。

リカードウは「労働日の大きさは与えられているということから出発する」。「しかし、そのときだっても、この命題〔同じ人数の労働者はつねに同じ価値を生産する、という命題〕は、それがここで言い表されているような一般的形式では、まちがいである」云々。これは不変資本のうち、どれだけが生産物の価値に入っていくかという問題。

以上で、「三 剰余価値」は終わり。

あくまでザックリ、ザックリです。(^_^;)

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