東京新聞夕刊「百年の手紙」

「東京新聞」の夕刊に、ノンフィクション作家の梯久美子さんが「百年の手紙」を連載されています。

先週の第26回(8月26日)には宮本百合子の夫・顕治への手紙が、第27回(29日)には夫・宮本顕治から百合子への手紙が取り上げられ、へぇ〜と思って眺めていたら、昨日(第28回)には、小林多喜二と志賀直哉の交流が紹介されていました。

連載のサブタイトルは「20世紀の日本を生きた人びと」。そんななかに、治安維持法で獄の内外に隔てられた宮本百合子と顕治、そして若くして命を奪われた小林多喜二がきちんと取り上げられたというのは大事なことだと思いました。

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4つめの「調査委員会」

以前、『資本論』には3つの工場調査委員会が出てくると書きましたが、あらためてよく読んでみると、そのほかにもう1つ、調査委員会が登場します。

それは、第24章「いわゆる本源的蓄積」第6節「産業資本家の創生記」の原注(246)のなかに、フランシス・ホーナー ((工場監督官レナード・ホーナーの兄で、ホイッグ党下院議員。))の言葉として出てきます。

もう1つ、もっと恐ろしい事件が、議会の調査委員会の一員としての自分の耳に入った。 ((新日本出版社『資本論』上製版Ib、1293ページ、新書版第4分冊、1299ページ、ヴェルケ版786〜787ページ))

ここで言われている「議会の調査委員会」とはいったい何なのか? 手がかりは、1815年ごろの存在した委員会だということと、王立の委員会ではなくて「議会の」委員会だということです。

それで、いろいろ調べてみると、これは、1816年に下院に設けられた「工場児童にかんする調査委員会」だということが分かりました。児童保護法案の審議のためにつくられた委員会で、同法案を提案したロバート・ピール卿の名前をとって、「ピール委員会」と通称されているようです。

この原注246に書かれているように、ロバート・ピール卿は、1815年6月に「児童保護法案」を提案。その審議のために下院内に委員会が設けられました(だから「議会の」委員会)。そして、翌1816年4月から6月にかけて各階層47人の証人喚問 ((証人となったのは、綿工場主、綿業以外の工場主、商人、医師、治安判事など。))を実施しました。この法案の制定を働きかけたのがロバート・オウエンで、オウエン自身も同調査委員会の証人としてピール卿の質問に答えています。

結局、同法案は、1819年に成立しますが、その中身は、オウエンの考えていたものとはかけ離れたものになってしまいました。成立した法律は以下のようなものでした。

  • 9歳未満の児童について工場労働を禁止。(オウエンは12歳未満の禁止を要求)
  • 16歳未満の全員について食事時間を除いて1日12時間以上働かせることを禁止。(オウエンは10時間半への制限を主張)
  • 適用されるのは綿工場の一部のみ。(オウエンは、20人以上が雇用されている綿・羊毛・亜麻・その他の工場への適用を主張)

なお、原注246では、マルクスは、F・ホーナーの発言を1815年のものとして紹介していますが、内容から考えて、これはマルクスの思い違いでしょう。法案の提出は1815年ですが、同委員会の設置された1816年から同法が成立する1819年までの発言だと思われます。ちなみに、注246の、このF・ホーナーの発言のくだりは、ジョン・フィールデン『工場制度の呪詛』(1836年刊)の11〜12ページ ((Marx Engels Collected Works、vol.26の編集注672、新MEGAアパラートによる。))からとられていますが、引用するさいに、マルクスは法案が提出された1815年のものと思い込んでいたのかも知れません ((したがってまた、注246で、ホーナーの「2年前」という言葉にマルクスが「1813年」と書き込んでいるのも、本当に1813年の事件だったのかどうかは調べてみないと断定できないでしょう。))。

【参考文献】

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