東京新聞夕刊「百年の手紙」

「東京新聞」の夕刊に、ノンフィクション作家の梯久美子さんが「百年の手紙」を連載されています。

先週の第26回(8月26日)には宮本百合子の夫・顕治への手紙が、第27回(29日)には夫・宮本顕治から百合子への手紙が取り上げられ、へぇ〜と思って眺めていたら、昨日(第28回)には、小林多喜二と志賀直哉の交流が紹介されていました。

連載のサブタイトルは「20世紀の日本を生きた人びと」。そんななかに、治安維持法で獄の内外に隔てられた宮本百合子と顕治、そして若くして命を奪われた小林多喜二がきちんと取り上げられたというのは大事なことだと思いました。

まず百合子の回。

梯さんは、夫婦でも恋文が書かれることがある、それはなんらかの事情で夫婦が別れて暮らさなければならなくなったときだ、として、夫婦が獄舎の内と外に隔てられた場合の恋文として、宮本百合子と顕治の『十二年の手紙』を取り上げられています。

紹介されているのは、体調がすぐれなかった百合子が、自身の死を意識して、1937年(昭和12年)8月29日に書いた手紙。「どこで自分の生涯が終わるかということは分からないが、最後の挨拶とよろこびを貴方につたえないでしまうということはどうも残念なの」という百合子の手紙を、梯さんは「自身の愛情を伝えるためだけに言葉が費やされている」と紹介しています。

他方、顕治の手紙は、「百合子より9歳年下だが、まるで父か兄のように語りかけているのが印象的だ」というのが梯さんの評価。百合子の手紙が「目の前にいる相手に向かっておしゃべりをするように書かれている」のにたいして、「顕治の手紙は短く簡潔で、用件に終始したものが多い」と指摘し、その理由にも梯さんはちゃんと触れておられます。

しかし、そういう短い、簡潔な手紙の中で、顕治さんが、万葉集から百合の花を詠んだ歌を探して書き記していることに梯さんは注目。「拘置所の狭いボックスで、背後に看守の気配を感じながら書いたのだろうか。共産党のドンといわれた人物の、別の顔を見るようだ」と結んでおられます。

多喜二の回は、プロレタリア作家の小林多喜二と、日本の小説の父といわれる志賀直哉との、たった1度しか会ったことはないけれども、心にも歴史にも残る交流が紹介されています。多喜二が築地署で虐殺されたとき、志賀は日記に「小林多喜二 二月二十日(余の誕生日)に捕らえられ死す。警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会わぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持になる」と記しました。そして、多喜二の母にも手紙(お悔やみ状)を書き、香典を送ったそうです。

この回、梯さんが紹介されている、志賀直哉が1929年から9年間暮らしたという奈良市高畑町の家は、ボクも高校生の頃に尋ねた記憶があります。高校生の頃は、多喜二の激しい文章になじめず、むしろ志賀直哉を愛読しましたが、数年前にあらためて多喜二の作品を読んでみると、高校生の頃とは違って、一見激しい文章に多喜二の人間味があふれているように感じました。

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