今日の「東京新聞」夕刊に、作家の金原ひとみさんが福島原発事故についての文章を書かれている。金原さんは、原発事故のあと、娘さんといっしょに岡山に避難して、4月、岡山で2人目のお子さん(娘さん)を産み、いまも岡山で生活しているそうだ。
2人目の娘さんは母乳を飲ませ、保育所に通う上の娘さんにはお弁当、水筒、おやつを持参させ、食べ物は九州のものか輸入物を買い、牛乳とヨーグルトはやめて豆乳を飲んでいるという。その気持ちをこう書かれている。
放射能を心配する親を、気にしすぎだと揶揄する人もいるらしい。人は多少被曝しても平気なのかもしれない。でも、平気じゃないかもしれないのだ。よく分からない以上、私は食べさせたくはないし、東京に戻りたくはない。
ここまでは、彼女の個人的なこと。そのあと、彼女は、いまの時代の雰囲気について、次のように書いている。いまの重たくたれこめたような閉塞感を、彼女なりに的確に表現していると思う。
原発はすぐにでも全炉停止した方がいい。二度とこんなことは起こってほしくないし、今回の件で、今や一部の利権のためだけに原発があることが、周知の事実となったからだ。食べ物の基準値は引き上げ前の値に戻し、汚染食品が乳幼児の口に入らないよう規制する。そして危険とされる場所に住む人々の疎開は国が全面的に援助し、生活を保障する。
こういう誰にでも分かるはずのことができないのは、政府や東京電力の社員が悪人だったり、無能だからではないのだろう。反原発の総理大臣にも、原発推進の流れは変えられなかった。天皇がそれを望んでも変わらないだろう。数万人がデモを起こしても、デモに行かなかった何百倍、何千倍もの人々が願っていても、変わらないままだ。
既に放射能の危険性を考えなくなった人は多い。何もできないのが分かっていれば、余計に辛いだけだからだ。命よりも大切なものはないと言うが、失業を理由に自殺する人が多いとされるこの国で、失業を理由に逃げられない人、人事が怖くて何もできない人いることは不思議ではない。
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しかし多くの人が癌で死ぬ可能性よりも、個々の人間とは無関係、無慈悲に動いていくこの社会に対して、私が何もできないことの方が、余程絶望的なのかもしれないのだ。
確かに、原発事故が原因で癌で死ぬ危険性よりも、この国の持てるすべての力をつかって福島の人たちを助けようとせず、これだけの事故を起こしておきながら原発をなくそうとしないこの国こそが、絶望的な気分を生み出しているといえるのかもしれない。
しかし、「それでも」と言わなくてはいけないと僕は思う。人間が奴隷であることができない以上、たとえそれが「主人すらいない奴隷」であったとしても、やはりそこから抜け出そうとするところに、人間らしさを見いだす以外、いまの時代を生きてゆくことは不可能なのではないか。
金原さんが書かれているとおり、何万人もの人々がデモを起こしていて、そのなかには「初めてデモをする」という人もたくさんいる。その何百倍、何千倍もの人が、原発をなくしてほしいと願っている。それを、政治の課題として、具体的にかたちあるものとして示してみせることができれば、きっと大きなエネルギーが発揮されるに違いない。どうすれば、その「かたち」が見えてくるのか。そこに知恵を発揮することが求められているのだろうと思う。