昨日(13日付)の東京新聞「時代を読む」に、政治学者の佐々木毅氏が「憲法改正論議の点検」と題する評論を寄せられている。
佐々木毅氏といえば、政治改革の音頭をとってきた政治学者の一人として知られているが、この評論では、「盛り上がる憲法改正論議は『動かない政治』の現実を『憲法のせい』にする責任のがれの議論」「仕組みを変えても政治の体質が改善しないことはこの間十分証明された」など、昨今の憲法改正論議にたいする批判も見られる。
冒頭では、憲法論議をやっていれば「政治家らしく」見え、なおかつ「安全な」議論でもあった、と述べているのは、なかなか皮肉が効いていたりもする。
もちろん、氏の議論は「国会と2院制をめぐる大改革」をすすめよ、そこに「政治家集団が本当に憲法改正を俎上にのせるつもりがあるかどうかの目安」があるとする立場からのものであって、手放しで評価はできない、それでもやっぱり、昨今の、僕には「悪のり」としか思えない憲法改正論議にたいする1つの批判となっているのではないだろうか。
【時代を読む】憲法改正論議の点検
[東京新聞 2012/05/13]
佐々木 毅
憲法記念日ということでさまざまな特集が掲載された。本紙のように、大震災を踏まえて人権・生存権の問題を取り上げたものと並んで、今年は「動かない政治」に着目した憲法改正論議が目に付いた。
総選挙を近い将来に控え、各党が「動かない政治」に対する国民の目を気にして、従来の主張からさらに踏み込んだ憲法改正案を提出したこともそれに一役買っている。いずれにせよ、憲法九条改正論議を超えた幅広い話題が提起されたのが一つの特徴である。
憲法問題は政治家にとっていわば「立派な」話題である。この問題を取り上げるといかにも「政治家らしく」見え、批判の的になりやすい政治家の実像から距離を置くことができる。言い換えれば、どの政治家も憲法について論議している限り、立場の違いこそあれ、尊敬に値する存在に見せることができる。その上、憲法改正には衆参両院で総議員の3分の2以上の賛成が必要で、ハードルは高い。その意味では憲法論議は「政治家らしさ」を印象付ける、しかも、前途遼遠であるために「安全な」論議でもあった。
事態が少し変わったのは、憲法改正に関する国民投票法がちょうど5年前に成立し、憲法96条の改正手続きが具体化してからである。これで憲法論議は「政治家らしさ」を印象付ける「安全な」議論の領域から一歩踏み出した。ただし、改正原案を発議・審議する憲法審査会は長い間休眠状態が続き、ようやく国民投票法の付則に掲げられた3つの課題の審議を始めたばかりである。ここでも「動かない政治」は健在である。
それにしても素朴な疑問として出てくるのは、必要な法律さえ、なかなか成立させられない政治家集団に憲法改正などという大仕事ができるのかということである。憲法改正となれば血みどろの闘いを覚悟しなければならないが、少しの犠牲にも逡巡し、我慢ができない政治家たちの集団に憲法改正を語る資格があるのかと問いたくなるのが有権者の心情ではないか。こうした中で盛り上がる憲法改正論議は「動かない政治」の現実を「憲法のせい」にする責任逃れの議論であるか、根拠なき見通しに基づく議論であると考えられても仕方がない。
政治家集団が本当に憲法改正を姐上にのせるつもりがあるかどうかの目安は簡単である。それは国会とその2院制をどう改革するかについての議論があるかどうかであるが、日本の大政党は党内での憲法改正論議においてこの肝心な問題に触れることがほとんどなかった。「動かない政治」の主要な根源がここにあることはほぼ分かっているが、国会議員たちはこれまで、この既存の世界を守ることに共通の利益を見いだしてきた。現実には憲法改正どころか、1票の格差という憲法の大原則の実現においても及第点が怪しくなっている。これこそ国会議員天動説とでもいうべき事態であり、これが日本の政治のレベル感である。かくして国会と2院制をめぐる大改革などおぼつかないことになる。
いずれにせよ「動かない政治」が憲法改正について見事なまでに素晴らしいデザインカを発揮し、「動かない政治」と決別すると期待するのは奇跡に近い。まずは政党や国会の自己改革によって基礎体力を培養してからの話ではないか。仕組みを変えても政治の体質が改善しないことはこの間十分に証明された。その上、日本政治には憲法改正に多大なエネルギーを割く余裕はないし、ましてや、無理な妥協の産物の憲法改正などをされたら、後世に新たな禍根を残すだけである。(本社客員、学習院大教授)