「です・ます」調での『資本論』翻訳の試み。第1章第1節の本文だけですが、完了しました。
やってみると、いわゆる翻訳調の堅苦しい文章のまま文末だけ「です・ます」にすることは不可能なので、全体を平易にせざるをえない。そこが面白いですね。
- 物のもつ有用性はその物を使用価値にします。しかし、この有用性は空中に浮いている訳ではありません。物の有用性は商品体の性質に条件づけられているので、商品体なしには存在しません。だから、鉄、小麦、ダイヤモンド等々といった商品体そのものが使用価値あるいは財なのです。 posted at 20:39:25
- 商品のこの性質は、人間がその商品の使用属性を手に入れるのにかかる労働が多いか少ないかということとは関係ありません。使用価値を取り上げる場合は、いつもその量的規定が前提になっています。たとえば1ダースの時計、1エレの亜麻布、1トンの鉄、等々というようにです。 posted at 20:52:15
- 商品の使用価値は、独自な学科である商品学に
素材材料を提供します。使用価値は、使うことで、あるいは消費することで実現されます。富の社会的形態がなんであれ、使用価値は富の素材的内容を構成します。私たちが取り上げるべき社会にあっては、それは同時に交換価値の素材的担い手になります。 posted at 21:06:28 使用価値交換価値は、とりあえず、ある種の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、比率のことです。それは、時間や場所によって絶えず変動する関係です。だから、交換価値は、何か偶然的なもの、純粋に相対的なもののように見えます。 posted at 23:14:27- したがって、商品に内的な、内在する交換価値(固有価値)というのは形容矛盾のように思われます。 posted at 23:15:00
- 何らかの商品、例えば1クオーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金、等々と交換されます。要するに、他の商品といろんな比率で交換されるわけです。だから、小麦は唯一の交換価値ではなく、多種多彩な交換価値を持っているのです。 posted at 23:23:13
- しかし、x量の靴墨もy量の絹もz量の金もみんな1クオーターの小麦の交換価値なのだから、x量の靴墨、y量の絹、z量の金は相互に置き換え可能な、互いに等しい大きさの交換価値であるはずです。 posted at 23:27:33
- だから、このことから次のような結論が出てきます。第1に、同じ商品の有効な交換価値は1つの同等物を表しているということ。そして、第2に、およそ交換価値は、それとは区別されるある内実の表現様式、「現象形態」にほかならないのではないか、ということです。 posted at 23:39:52
- さらに2つの商品を取り上げてみましょう。例えば、小麦と鉄です。その交換比率がいくらであっても、それは次のような1つの等式に表されます。与えられた量の小麦は何ほどかの量の鉄に等しい、例えば、1クオーターの小麦=aツェントナーの鉄、という等式です。 posted at 08:48:13
- この等式は何を意味しているでしょうか? それは、同じ大きさの共通物が2つの違った物の中に、1クオーターの小麦とaツェントナーの鉄の中に存在する、ということです。 posted at 08:52:57
- つまり、2つの物は何か第3のものに等しく、その第3のもの自体は2つの物のどちらでもない、ということです。この2つの物は、それが交換価値である限り、この第3のものに還元させられなけらばならないのです。 posted at 08:58:32
- 簡単な幾何学の例がこのことを簡単に説明してくれます。あらゆる直線形の面積を測り比較するために、人はそれをいくつかの三角形に還元します。三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現、底辺×高さ÷2に解消されます。 posted at 10:23:00
- 同じように、商品の交換価値はある共通物に還元され、その共通物の多い少ないが交換価値を表すのです。 posted at 10:25:13
- この共通物が、商品の幾何学的性質であったり、物理学的、化学的その他自然的な性質であったりすることはあり得ません。 posted at 10:52:04
- およそ商品の物体的な性質が問題になるのは、それが商品を役に立たせる、つまり使用価値にする限りでのことです。 posted at 22:24:30
- しかし他方で、交換関係を一目で特徴づけるものは、まさに使用価値の捨象です。交換関係の内部では、ある使用価値は、適当な割合でそこにありさえすれば、他の使用価値に相当するものとして通用します。 posted at 22:36:35
- 【訂正】あるいは、老バーボンが言うように、「交換価値の大きさが等しければ、ある種類の商品と別の種類の商品とは同じである。交換価値の大きさが等しい物の間にはなんの違いも区別もない」ということです。 posted at 23:15:00
- 使用価値として商品は、なにより、質の違ったものですが、交換価値としては、ただ量が違っているだけです。だから、少しも使用価値を含んでいません。 posted at 00:09:54
- 商品体の使用価値を捨象すると、商品体には一つの性質だけが残ります。それは、労働生産物であると言う性質です。とは言え、労働生産物もすでに私たちの手の中で変化しています。 posted at 00:16:29
- 労働生産物の使用価値を捨象するということは、労働生産物を使用価値にしている物体的な成分や形態を捨象するということです。それはもはやテーブルでも家や糸でも、その他役に立つ物でもありません。その感覚的につかめるすべての性質が消え去っています。 posted at 00:50:36
- それはもはや指物労働や農耕労働、紡績労働、あるいはその他なんらかの生産労働の産物ではありません。労働生産物の役に立つ性質と一緒に、その中に表現されている労働の役に立つ性質も消滅しています。したがって、それらの労働のいろいろな具体的な形態も消滅しています。 posted at 08:37:30
- それらはもはや違いもなく、すべて同等の人間労働、抽象的人間労働に還元されています。 posted at 08:43:54
- それでは労働生産物に残っている物を考えてみましょう。そこに残っているのは、同一の、亡霊のような対象性、区別のない人間労働の単なる固まり以外の何ものでもありません。すなわち、支出の形態とは関係のない人間労働の支出です。 posted at 08:59:59
- これらの物が表わしているのは、その生産に人間労働が支出され、堆積されているということにすぎません。これらに共通な社会的実体の結晶として、これらの物は価値ーー商品価値であるのです。 posted at 09:22:17
- 商品の交換関係の中では、商品の交換価値はその使用価値とはまったく無関係な何かあるものとして、私たちの前に現われました。そこで実際に労働生産物の使用価値を捨象すれば、いま規定された通りの価値が残されます。posted at 17:56:40
- つまり、商品の交換関係あるいは交換価値の中に現われる共通物とはその価値なのです。研究が進めば、価値の必然的な表現様式あるいは現象形態としての交換価値に立ち返ることになるでしょう。しかし、とりあえず価値はこの形態とは無関係に取り上げなければなりません。 posted at 18:02:51
- 【訂正】要するに、ある使用価値あるいは財は、その中に抽象的人間労働が対象化され物質化されているからこそ、ある価値を持っているのです。 posted at 18:49:02
- では、その価値の大きさはどのようにして測るのでしょうか? それは、その中に保存されている「価値を形づくる実体」の量によって、つまり労働の量によってです。 posted at 18:54:43
- 労働の量そのものは時間の長さで測られ、労働時間は労働時間で、1時間、1日、等々といった、時間で区切られた労働時間の基準を持っています。 posted at 20:33:15
- もしある商品の価値がその商品を生産する間に支出された労働量によって決まるのであれば、人がより怠け者で不器用であればあるほど、商品の製造に余計に時間がかかるので、それだけその人の商品の価値は大きくなるように見えるかもしれません。 posted at 20:40:39
- しかし、価値の実体になっている労働は、同等な人間労働、同じ人間労働力の支出です。商品世界の価値の中に表わされている社会の総労働力は、無数の個人の労働力から構成されているとはいえ、ここでは、同じ一つの人間労働力とみなされます。 posted at 21:06:58
- これらの個人の労働力は、それが社会的な平均労働力という性格を持ち、そのような社会的な平均労働力として作用する限りで、したがって商品の生産に平均的に必要な、あるいは社会的に必要な労働時間だけが支出される限りで、他の個人の労働力と同じ人間労働力なのです。 posted at 21:27:47
- 社会的必要労働時間とは、何かある使用価値を、いまある社会的に標準的な労働諸条件と、社会的平均度合いの熟練と労働の強度をもって生産するために必要とされる労働時間のことです。 posted at 22:26:40
- 例えば、イングランドで力織機が採用されたあとでは、ある与えられた量の糸を布に変えるのに、もしかするとかつての半分の労働で十分であるかもしれません。 posted at 20:11:16
- イングランドの手織り工は実際にはこの糸から布への転化にあいかわらず同じ労働時間を使っています。しかし、彼の個人的な労働時間の生産物は、いまでは、半分の社会的労働時間しか表わしておらず、したがってその価値はかつての価値の半分になってしまったのです。 posted at 20:12:30
- ここでは、個々の商品は、その種類の商品の平均的見本とみなされます。ですから、同じ量の労働を含んでいる商品、言い換えると同じ労働時間で生産することのできる商品は、価値の大きさが同じなのです。 posted at 20:35:23
- 「価値としては、すべての商品は、ある決まった量の凝固した労働時間にすぎない」。 posted at 12:52:33
- だから、ある商品の生産に必要とされる労働時間が変わらなければ、その商品の価値の大きさは変わりません。しかし、労働の生産力が変化するたびに、商品の生産に必要とされる労働時間は変化します。 posted at 12:57:33
- 労働の生産力は様々な事情によって決まりますが、なかでも、労働の平均的な熟練度合い、科学の発展とその技術的応用可能性、生産過程の社会的結合、生産手段の規模と作用能力によって、それに自然条件によって決まります。 posted at 13:07:48
- 同じ量の労働が、豊作の年には8ブッシェルの小麦に、不作の年には4ブッシェルの小麦に現われる。同じ量の労働でも、豊富な鉱山では、貧しい鉱山よりもたくさんの金属が取れる、等々です。 posted at 13:21:54
- ダイアモンドは地表ではめったに見つかりません。だからそれを発見するのには、平均的にみれば、多くの労働時間がかかります。だから、ダイアモンドはわずかな量でたくさんの労働を表わすのです。 posted at 13:29:08
- ヤコブは、これまでに金がその価値を全額支払われたことがあるかどうか疑っていますが、これはダイアモンドにはもっと言えることです。 posted at 19:58:20
- エシュヴェッジによれば、1823年の時点で、ブラジルのダイアモンド鉱山の過去80年間の総産出高は、ブラジルの砂糖あるいはコーヒープランテーションの平均生産物1年半分の価格にさえ達しませんでした。 posted at 20:09:14
- ダイアモンドの方がより多くの労働を、したがってより多くの価値を表わしているにもかかわらず、そうなのです。もっと豊かな鉱山があれば、同じ労働量でもっと多くのダイアモンドがとれたでしょう。そうなればダイアモンドの価値は下がったことでしょう。 posted at 20:15:07
- もしわずかな労働で石炭をダイアモンドに変化させることに成功したとすれば、ダイアモンドの価値は煉瓦の価値未満に落ち込むでしょう。 posted at 20:20:11
- 一般的に、労働の生産力が大きければ大きいほど、ある製品の生産に必要とされる労働時間はそれだけ小さくなり、その中に結晶化してある労働量も小さくなり、それだけその価値も小さくなります。 posted at 20:28:36
- 反対に労働の生産力が小さくなればなるほど、ある製品の生産に必要な労働時間はそれだけ大きくなり、その価値も大きくなります。 posted at 20:30:57
- つまり、ある商品の価値の大きさは、その商品の中に実現されている労働の量に正比例し、その生産力に反比例します。 posted at 20:34:05
- ある物が、使用価値であるにもかかわらず価値ではない、ということもあり得ます。それは、人間にとってのその商品の有用性が労働によって媒介されていない場合のことです。例えば、空気、未開拓地、自然の草原、原生林、等々です。 posted at 22:44:04
- ある物が、有用であり労働の生産物であるにもかかわらず、商品ではないということもあり得ます。その生産物で自分自身の欲求を満足させる人は、使用価値を生産しますが、商品を生産するわけではありません。 posted at 22:55:53
- 商品を生産するためには、単に使用価値を生産するのではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければなりません。[しかも単に他人のための使用価値を生産すればよいのではありません。 posted at 23:08:28
- 中世の農民は封建領主のために貢租穀物を、教会のために十分の一税穀物を生産します。しかし貢租穀物も十分の一税穀物も、他人のために生産されるからといって商品にはなりません。 posted at 23:12:19
- 商品になるためには、生産物が、それが使用価値として役に立つ他人に、交換によって移っていかなければなりません。posted at 23:12:42
- 最後に、使用対象でないにもかかわらず価値であるというような物はあり得ません。物が役に立たなければ、その物に含まれる労働も役に立たず、労働としてはカウントされないのであり、したがって価値を形成しません。 posted at 23:19:07
- さてこれで、『資本論』第1章第1節本文の「ですます調」翻訳はおしまいです。やってみると、けっこうおもしろいですね。 posted at 23:21:30