- 新日本出版社『資本論』上製版、第二部、375頁10行目「更新する原因とはならない」のあとの「、」は「。」が正しい。新書版(6)372頁は正しく「。」になっている。上製版に移した時の誤植が見逃されたのでしょう。 posted at 09:38:54
- 資本論第二部、第12章の精読完了。引き続き第13章に取り掛かる。 posted at 10:57:56
まだまだ続く…
- 新日本出版社『資本論』第二部、第13章、上製版381頁の訳注*1で、パドル法の発明年が1748年になっているのは間違い。1784年が正しい。新書版では正しく書かれていたが、上製版に移した時の誤植。 posted at 15:30:07
- パドル法について、マルクスはフランス語版の第25章「資本主義的蓄積の一般的法則」の第2節でやや詳しく書き加えているが、そこでマルクス自身がパドル法の発明年を1780年としている。 posted at 15:40:23
- 資本論第一部第25章で、マルクスは、ヨーロッパからの大量の移民がアメリカ東部諸州に「停滞的沈殿物」を残すと書いている。ディカプリオ主演の映画「ギャング・オブ・ニューヨーク」はちょうどこの時代を描いている。あそこに登場するギャングたちが「沈殿物」にあたるのだろう。 posted at 16:22:11
- Google Books でキルヒホーフの『農業経営学提要』1852年を発見! これもマルクスが資本論で使ったもの。ただしヒゲ文字なのでほとんど読めない。^^; posted at 17:02:49
- しかし、これだけGoogle Booksでマルクスの引用した文献が読めるとなると、それ抜きにした研究はだんだんとむずかしくなるな。研究者のみなさんには、ますますご苦労様なことだ。^^; posted at 17:20:46
- @KKomine 私は、ドイツ語と対照しながら邦訳を読み返して、疑問に思うところは、さらに各種既訳もみながら、自分なりに筋の通った日本語になるように訳し直しています。おかげで、ドイツ語の勉強になるのはもちろんですが、日本語の勉強にもなります。^^; posted at 17:27:58
- 新日本出版社『資本論』第二部、上製版383頁4行目「農業の労働時間」は誤植、「農業の労働期間」が正しい。新書版(6)380頁では正しく「労働期間」となっている。原文はArbeitsperiodeで、マルクスは12章で労働時間と労働期間の区別をしている。 posted at 17:37:37
同じ日にさらにつぶやいたので、追加します。
- 新日本出版社『資本論』上製版、第二部382ページ後ろから3〜2行目「五月なかばまで」には訳注がついていて、カウツキー版だけ「五月末まで」と指摘されている。実はキルヒホーフの原文が「五月末まで」で、カウツキーの訂正が正しい。カウツキー版以降の各版がそれを無視したのが間違い posted at 22:17:35
- そもそも4月初めから5月半ばまででは労働日50日を確保するのは難しい。「半ば」を15日とすれば45日しかないし、「半ば」を中旬末までとしても休日ゼロになるので、よく考えれば計算が合わないことに気がついたはず。 posted at 22:22:17
- 新日本出版社の訳注を見ると、「原文では」という注記が多いが、実はそのかなりが、資本論ではマルクスが英語、仏語で引用している文献を、ヴェルケ版では独訳されていて、その違いを指摘したもの。資本論の翻訳というなら、ヴェルケの独訳に頼らず、マルクスの引用から訳すべきだろう。 posted at 22:32:26
ちなみに、マルクス自身が草稿に引用したものでも、ちゃんと「5月末まで」となっています(MEGA2 II/11 199.5)
ハーベェイの最新著作「反乱する都市」は、従来の定説を突破し、社会変革のイメージを一新するインパクトがあります。
原理的にはG-W-G’の資本の運動の理解がポイントです。資本論1巻の議論を表面的に理解すれば、価値増殖(搾取)は生産過程で行われ、そこでのたたかいが変革の主戦場という古典的な理解になります。しかし、資本主義での搾取の秘密を暴くためにマルクスは仮想的な経済圏に仮想的なひとつの資本(工場)という仮定で、商品は価値通りにすべて売れるという前提で議論しています。ですので、このイメージを現実社会に機械的に適応することは狭い見方です。
ハーベェイは、資本が運動するには、労働者集団、彼らと彼らの家族が生きるための生活手段や空間、生産拠点と設備、原材料、流通や交通手段などが必要になることを指摘し、都市はそうしたものを備えた資本の活動領域ととらえています。そこでの支配や抑圧は資本のそれであり、そこでのたたかいや運動は階級闘争になるという理解に到達します。住民運動、自治体闘争、占拠運動、官邸前などの運動は、副次的なたたかいではなく、階級闘争の主戦場になりうるという見方ができます。
かつては生産的労働者が多数で、それを組織する労働組合も力を以ていたことから、このした古典的な見方で十分だったのかもしれません。しかし、現在湧き起っている運動の高揚を理解し、社会変革に結実させるには、そうした古典的な見解を乗り越える理論的な探求が必要と思いました。