目下、『資本論』第2部第17章を精読中ですが、今日は、これまでよく分からなかったところを1つ解決つけました。それは、新日本新書版でいうと第6分冊539ページ(ヴェルケ版341〜342ページ)。次のような文章で始まる段落です。
資本家たちが奢侈品の価格を引き上げることができるのは、奢侈品への需要が減少する(奢侈品にたいする資本家たちの購買手段が減少し、彼らの需要が減少した結果として)からであるという主張は、需要供給の法則のまったく独創的な応用であろう。〔奢侈品需要が減少している以上〕単に奢侈品の買い手の入れ替わり、すなわち労働者たちによる資本家たちとの入れ替わりが行なわれることのない限り(そしてこの入れ替わりが起こる限りでは、労働者たちの〔奢侈品への〕需要は、必要生活諸手段の価格騰貴には影響しない。というのは、労働者たちは賃銀追加分のうち、彼らが奢侈品に支出する部分を必要生活諸手段に支出することはできないからである)奢侈品の価格は需要の減少の結果として下落する。その結果、……
この文章、一読して意味が分かる人いますか? マルクスが間違った議論を批判しているくだりなので、余計に話が分かりにくいのですが、そもそも「資本家たちが奢侈品の価格を引き上げることができるのは、奢侈品への需要が減少するからであるという主張」というのが分からない。需要が減ってる時に商品の価格が引き上げられないことは、わざわざ言うまでもないこと。だから、それが「需要供給の法則のまったく独創的な応用」だというのはその通りなのですが、そういう話なら、なぜわざわざマルクスはそんな分かりきったことを論じたのか? そういう明々白々のトンチンカン議論を批判して、どういう意味があるのか? かえってそこが分からないのです。マルクスは何が言いたかったのかよく分からないからこそ、いろいろ〔〕で訳者なりの補足がなされているのですが、それが中途半端で、結局、よく分からないままな訳です。
さらに、その次の「単に奢侈品の買い手の入れ替わり」から始まる文。途中に()で括られた部分があるので余計に込み入っていて、ここも一体何が言いたいのか分からない訳です。
この部分、原文(ドイツ語)は次のようになっています。
Die Behauptung, daß die Kapitalisten die Preise der Luxusmittel erhöhen können, weil die Nachfrage danach abnimmt (infolge der verminderten Nachfrage der Kapitalisten, deren Kaufmittel dafür abgenommen haben), wäre eine ganz originelle Anwendung des Gesetzes von Nachfrage und Angebot. Soweit nicht bloß Deplacement der Käufer dafür eintritt, Arbeiter statt Kapitalisten – und soweit dies Deplacement stattfindet, wirkt die Nachfrage der Arbeiter nicht auf Preissteigerung der notwendigen Lebensmittel, denn den Teil des Lohnzuschusses, den die Arbeiter für Luxusmittel verausgaben, können sie nicht für notwendige Lebensmittel verausgaben -, fallen die Preise der Luxusmittel infolge der verminderten Nachfrage.
で、気づいたことの1つは、最初の文の述部は wäre と接続法II式になっていること。つまり仮定法です。単純に「資本家たちが奢侈品の価格を引き上げることができるのは、奢侈品への需要が減少するからである」という主張を指している訳ではなく、「そういう主張が仮にもしあるとすれば」と言ってる訳です。
で、その次の、例のぐちゃぐちゃに込み入った文では、「奢侈品の買い手の入れ替わり」という話が出てきますが、これは、この段落の少し前(新日本新書版だと538ページの真ん中当たりに、出てきます。つまり、賃金が高騰したときに、これまで奢侈品など買ったことのない労働者が奢侈品の一部を買うようになった場合のことを言っている訳です。
そこに気づくと、件の段落は、実は、536ページの仕切り線のあと、2つめの段落(「さらに」で始まる)でとりあげた労賃が一般的に上がった場合に商品価格がどうなるかという議論からずっと続く部分の1つである、ということに気がつきます。537ページの「しかし」で始まる段落で、マルクスは、労賃が一般的に上がると商品の価格が騰貴するという議論を2つとりあげて、批判を開始しています。すなわち、労賃が上がると労働者の商品需要が増大し、その結果、諸商品の価格が騰貴するという「第一の意見」と、「労賃が上がれば、資本家は商品の価格を引き上げる」という「第二の意見」です。
そして、538ページに入って、まず「第一の意見」をとりあげて、労働者の側での需要増大は、一時的には生活必需品の需要を増大させるが、生活必需品の需要の増大は、社会全体の資本のより大きな部分を生活必需品の生産に導き入れるから、「若干の動揺」ののち、結局、もとの価値・価格に戻ると、マルクスは批判を加えます。
続いてマルクスは、「第二の意見」についても、資本家が、いつでも任意に自分の商品の価格を引き上げることができるのであれば、資本家は労賃が騰貴しなくてもそうするはずではないか、と批判します。
さらに、「労賃は、商品価格が下落しているときには、決して上昇しないだろう」と言います(新日本版では、この部分は「決して騰貴を許されないであろう」となっていますが、「許されない」というような表現は原文にはありません)。そして、このあと、件の段落が続く訳です。
そうやって読んでくると、この段落は、実は、「労賃が上昇する場合、諸商品の価格はどうなるか」という問題を論じた段落だということが分かります。この大前提が抜け落ちているので、これまでの翻訳はどれも意味が通じなかったのです。そこで、その大前提を補って、この部分を訳し直してみました。
〔しかし、労賃が上がっても〕資本家たちは奢侈品の価格を引き上げることができる、なぜなら(奢侈品を手に入れるための資本家たちの購買手段が減少してしまい、彼らの需要が縮小した結果として)奢侈品への需要が減少するからであると主張するとすれば、それは需要供給の法則のまったく独創的な応用であろう。〔労賃が高騰して〕奢侈品の買い手の入れ替わり、すなわち労働者たちによる資本家たちとの入れ替わりが起こる場合には、労働者たちの需要が必要生活諸手段の価格を騰貴させることはない――なぜなら、労働者たちが賃銀追加分の一部を奢侈品に支出すれば、彼らはそれを必要生活諸手段に支出することはできないからである。そして、単にこの入れ替わりが行なわれない場合には、需要が減少する結果として奢侈品の価格は下落する。その結果、……
要するに、労賃が上がっても商品価格が上がってお終いだという議論にたいし、マルクスは、まず、生活必需品は一時的に騰貴することはあっても、長期的にはもとの価格に戻ると指摘し、では奢侈品の価格はどうなるか、という議論をここで展開している訳です。もし資本家が自由に商品の価格を引き上げられるのであれば、労賃が上がっても資本家は奢侈品の価格を引き上げることができるということになるが、労賃の高騰で資本家が手に入れる剰余価値が縮小し、奢侈品への需要が減少しているときに、それでも資本家は奢侈品の価格を引き上げることができるというのは「需要供給の法則のまったく独創的な応用」ではないか! というのがその批判です。
そして、労賃が高騰して、資本家が手に入れていた剰余価値が縮小した場合には、奢侈品への需要がどうなるか。それには2つのケースがあって、1つは、「奢侈品の買い手の入れ替わり」が起こる場合、つまり労働者が奢侈品の一部を購入するようになる場合であり、もう1つは、そういう「入れ替わり」が起こらない場合です。で、前者の場合には、労働者は追加的賃金を奢侈品に支出してしまうので、生活必需品の価格騰貴は起こらない。後者の場合には、奢侈品への需要は減少し、その結果、奢侈品の価格は下落する。と、こうなる訳です。
このように読んでいくと、この部分のこんがらがった文章も、まったく矛盾せずに、すっきり読み通すことができます。
以上、本日の悪戦苦闘の結果報告でした。^^;