『資本論』第1部の第1章「商品」、第2節「商品に表わされる労働の二重性」の一番最後に登場する注16の意味がようやく分かりました。(^^;)
現在の新日本新書の翻訳は、こうなっています。
(一六) 第2版への注。「労働だけが、それによってすべての商品の価値が、あらゆる時代を通じて、評価され、比較されうる究極の、真の尺度であること」を証明するために、A・スミスは、次のように言う。「等しい量の労働は、あらゆる時代、あらゆる場所において、労働者自身にとって等しい価値を持っているに違いない。労働者は、彼の健康、体力、および活動の正常状態のもとで、また彼の熟練と技能が通常の程度であれば、自分の安楽、自分の自由、および自分の幸福の同一部分をつねに犠牲にしなければならない」(『諸国民の富』、第1編、第5章)。A・スミスは、一面では、この場合(どこでもというわけではないが)、商品の生産に支出される労働の分量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同しており、したがって、等量の労働はつねに等しい価値を持つと言うことを証明しようとしている。他面では、彼は、商品価値に表わされる限りでの労働が、ただ、労働力の支出としてのみ通用するということにうすうす感づいているが、この支出をふたたび単に安楽、自由、および幸福の犠牲としてのみとらえ、正常な生命活動とはとらえない。いずれにせよ、彼は近代的賃金労働者を眼前においているのである。…以下略… (新日本新書『資本論』第一分冊、79〜80ページ)
読んでみても、マルクスは何が言いたかったのか、いまいちよく分かりません。そこで、原文を読んでみました。
16) Note zur 2. Ausg. Um zu beweisen, "daß die Arbeit allein das endgültige und reale Maß ist, woran der Wert aller Waren zu allen Zeiten geschätzt und verglichen werden kann", sagt A. Smith: (1)"Gleiche Quantitäten Arbeit müssen zu allen Zeiten und an allen Orten für den Arbeiter selbst denselben Wert haben. In seinem normalen Zustand von Gesundheit, Kraft und Tätigkeit und mit dem Durchschnittsgrad von (2)Geschicklichkeit, die er besitzen mag, (3)muß er immer die nämliche Portion seiner Ruhe, seiner Freiheit und seines Glücks hingeben,". ("Wealth of Nations", b.I, ch.V,.) Einerseits (4)verwechselt A. Smith (5)hier (nicht überall) die Bestimmung des Werts durch das in der Produktion der Ware verausgabte Arbeitsquantum mit der Bestimmung der Warenwerte durch den Wert der Arbeit und sucht (6)daher nachzuweisen, daß gleiche Quantitäten Arbeit stets denselben Wert haben. Andrerseits ahnt er, daß die Arbeit, soweit sie sich im Wert der Waren darstellt, nur als Verausgabung von Arbeitskraft (7)gilt, faßt diese Verausgabung aber (8)wieder bloß als Opfer von Ruhe, Freiheit und Glück, (9)nicht auch als normale Lebensbetätigung. (10)Allerdings hat er den modernen Lohnarbeiter vor Augen. (MEW., 23a, S.61)
ここでマルクスが問題にしているのは、労働を不変の価値基準とするスミスの議論。要するに、等量の労働は、いつでもどこでも同一の価値量であるというスミスの議論は、商品の生産に支出される労働の分量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と間違えたものだと、マルクスは批判しているのです。ですから、それが分かるように、スミスの引用も訳す必要があります。
しかも翻訳上のポイントは、ここでマルクスが、スミスの文章をドイツ語に訳して引用していること(下線部(1)ほか) ((ヴェルケ版では、マルクスが英語やフランス語でおこなった引用が、ドイツ語に翻訳されて引用されている場合があります。これは、ヴェルケ版が実際にはドイツの「民衆版」(普及版)であるために、読者の便宜を考えて、マルクスの引用をヴェルケ編集部がドイツ語に直しているためです。もちろん、『資本論』を日本語に翻訳するというのであれば、マルクスが引用した原語から訳す必要がありますが、これはヴェルケ版だけを見ていたのでは分かりません(巻末にマルクスが引用した原語の文章が載っていますが)。しかし、今では新メガ版を参照することによって、それを確かめることができるようになりました。ところで、この注16でのスミスからの引用ですが、これは新メガでもドイツ語になっています。つまり、もともとマルクスが自分でドイツ語に訳して引用していたものだ、ということです。))。その結果、表現がスミスの原文(英語)とは若干違っているところが生じていますが、『資本論』の翻訳としては、マルクスのドイツ語訳に即して訳す必要があります。たとえば、新日本訳では「等しい価値」と訳されているところは、マルクスの文章では denselben Wert となっているので、「同一の価値」とか「同じ価値」と訳すべきでしょう。ついでにいえば、新日本訳では「熟練と技能」となっている部分。マルクスは Geschicklichkeit (下線部(2))という一語に訳しているので、スミスの原文にあわせて「熟練と技能」とパラフレーズするのはルール違反です。
また、ここの müssen (下線部(1))は、少なくとも最初の方は、書き手(=スミス)の判断を示すものです。大月版は「もっていなければならない」と訳していますが、「もっているはずである」というのが正しい訳でしょう。
また、下線部(3)の部分も、スミスの身になって考えてみると、労働者は、彼の健康や体力が正常で、熟練の程度も平均水準であるならば、労働のために、いつでもどこでも、同じだけ休息や自由を犠牲にするはずだ、だから労働はいつでもどこでも同じ価値をもっているのだ、と言っているわけですから、それにふさわしい翻訳にする必要があります。そのポイントは、die nämliche Portion の訳し方。Portion は、1人前、2人前という場合の「人前」にあたる言葉で、要するに1人分の「取り分」「分け前」「割り前」といった意味です。だから、ここは「それぞれの労働者あたり同じ分だけ」という意味が出るように訳す必要があります。大月版の「それだけ」では「同じ」というニュアンスが出ないし、新日本版の「同一部分」では同じ分量といった比率的な意味かどうかが分かりません。
次の下線部(4)のところ。新日本訳では、「混同」となっています。「混同」を国語辞典を引くと、区別すべき2つのものを同じ1つのものとして扱う意味だと出ていますが、それではちょっとマルクスの文意と合わないように思います。もちろん verwechselen を辞書で引くと、「混同する」「取り違える」どちらの意味も載っているので、間違いだとは言いませんが、ここでマルクスは、スミスが「商品の生産に支出される労働の分量による価値の規定」という正しい価値規定を、「労働の価値による商品価値の規定」という誤った価値規定と取り違えて、それによって等量の労働は同一の価値をもつということを証明したつもりになっていることを批判しているのですから、「混同した」より「取り違えた」とはっきり訳した方がすっきりするのではないでしょうか。
次は下線部(5)。hier は、英語でいえば here で、漠然と「ここでは」と訳しておけば外れない単語ですが、いまの場合は、まさにマルクスが引用した『諸国民の富』の当該箇所では、という意味ですから、ずばり「この場所では」と訳すのが一番いいと思います。新日本訳の「この場合」は、何を指しているのか不明です。
続く下線部(6)。daher はいろいろな意味があって、どう訳すか難しい単語です。新日本訳では「したがって」としていますが、ここでは、スミスは2つの価値規定を取り違えることで、等量の労働は同一の価値をもつことを証明したつもりになっているのですから、「それによって」とか「そうすることによって」と訳すのが正解でしょう。「したがって」では、2つの価値規定の混同がなぜ等量労働同一価値の証明になるのか、論理のつながりが明らかになりません。
それから、Andrerseits から後ろの部分。ちなみに、この「一方」「他方」は、マルクスのスミス批判が2点あるという意味であって、一方、他方と2つを対比する意味はありません。ドイツ語にはそういう使い方もあります。
まず、下線部(7)。gilt (gelten) は、これも訳すのが難しい言葉で、それぞれの文脈にあわせて、「通用する」「妥当する」「〜という意義をもつ」など工夫する必要があります。いまこの場合は、スミスはうすうす感づいていると言っているのですから、現実にそういうものとして通用しているかどうかという現実的な妥当性ではなくて、そういう意義をもつ、そういう意味があてはまる、といった意味上の妥当性を表わしていると考えるべきでしょう。「通用する」ではそのニュアンスが伝わりません。
次に下線部の(8)(9)(10)の部分。スミスが、労働力の支出を休息や自由の犠牲、放棄と見なしたことは、冒頭に出てきました。労働力の支出を休息や自由の犠牲とみなすのは、古い、徒弟的職人の世界の労働観です。それにたいして、マルクスは、労働を「正常な生命活動」とする近代的な労働観を対置して、スミスが古い労働観を払拭できずにいることを批判しているわけです。ですから、下線部(8)の wieder は、何とかの1つ覚えのように漫然と「ふたたび」と訳すのではなくて、「古い考えに戻っている」というニュアンスを出して訳した方がよいのではないでしょうか。さらに、nicht 以下の下線部(9)の節は付加的な限定であって、マルクスの議論の本筋は、スミスが労働を「単なる安楽、自由、幸福の犠牲」としてとらえたことの批判にあるのですから、下線部(9)の節は文中にはさみ込んでしまった方が日本語の文章として主題が明確になります。
で、一番最後の下線部(10)。原語 allerdings を辞書で引くと、確かに「いずれせよ、ともかく」という訳語も出ています。しかし、ここでマルクスが言いたかったのは、スミスが古い労働観を引きずっているものの、それでもやっぱりスミスの議論の前提となっている労働者は近代的な賃金労働者だ、ということなのですから、「いずれにせよ」ではなく、「とはいえ」とか「そうはいっても」など、逆接の意味をはっきりと出すべきでしょう。そもそも「いずれにせよ」という言葉は、それまで言ってきたことにたいして、「どちらでもいい」「どっちでも関係ない」という意味ですから、そんなふうに訳したのでは、ここまで展開してきた議論をマルクス自身が否定したことになってしまい、せっかくのスミス批判が台なしになってしまいます。
ということで、マルクスの言いたかったことが伝わるように僕なりに訳すと、こうなります。
(一六) 第2版への注。「労働だけが、それによってすべての商品の価値を、あらゆる時代を通じて、評価し比較しうる究極の、真の尺度である」ということを証明するために、A・スミスは、「等しい量の労働は、あらゆる時代、あらゆる場所において、労働者自身にとって同一の価値を持っているはずである。彼の健康や体力、活動が正常な状態にあり、また彼のもっているであろう熟練が平均程度であれば、労働者は、つねに同一の割合で、彼の安楽や自由、幸福を放棄しなければならない」(『諸国民の富』、第1編、第5章)と言う。第一に、この場所で(どこでもではないが)A・スミスは、商品の生産に支出される労働の分量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と取り違え、そうすることによって、等量の労働がつねに同一の価値を持つということを証明しようとしている。第二に、彼は、商品価値に表わされる限りでの労働が、労働力の支出という意味しかもたないことにうすうす感づいているにもかかわらず、この支出を正常な生命活動としてはとらえずに、単なる安楽や自由、幸福の犠牲としてのみとらえる立場に後戻りしている。しかしそれにもかかわらず、彼が目の当たりにしているのは近代的賃金労働者なのである。
さて、いかがでしょうか。(^_^;)