日中歴史共同研究 「相互理解の増進」どころか新たな対立を生むもの

10日付の「毎日新聞」は、公表されなかった「日中歴史共同研究」の戦後史部分を入手したとして、その内容をスクープ報道。

しかし、報じられた内容を見ると、極東国際軍事裁判を「法的には問題の多い裁判」「敗者に対する勝者の懲罰」と決めつけるなど、きわめて偏った立場が表明されている。また靖国参拝問題でも、日本側は、「参拝目的は『戦没者の追悼と平和の祈念』」という国際社会から批判を受けた従来の立場を繰り返したようだ。

戦前部分ではあれこれ日本の加害を認めていたが、それは個々の問題であって、戦争全体の性格としてはあくまで日本の侵略戦争であることは認めない、ということだ。

これでは、歴史認識をめぐる新たな対立を生むだけであり、「歴史に対する客観的認識」を深め「相互理解の増進を図る」(2006年10月の安倍首相訪中の際の合意)という日中歴史共同研究の出発点にももとる内容だ。日本側の不誠実な態度があらためて問われるだろう。

日中歴史共同研究:「天安門は政治騒動」 中国、日本と相違鮮明 : 毎日新聞
日中歴史共同研究:戦後史部分(要旨) : 毎日新聞

日中歴史共同研究:「天安門は政治騒動」 中国、日本と相違鮮明

[毎日新聞 2010年2月10日 東京朝刊]

◇非公表「戦後」の全容判明
 日中両国の有識者による「日中歴史共同研究委員会」が1月31日にまとめた報告書で、中国側の要請で非公表とされた第二次世界大戦後(1945?08年)の戦後史の全容が9日、明らかになった。公表見送りの要因とされる天安門事件(六四事件、89年)について、日本側は中国共産党による「武力弾圧事件」と認定したが、中国側は現体制批判を招くことへの警戒感などから「政治騒動」と簡単に言及、見解の違いが鮮明だ。また中国側は日本側の歴史認識を批判した。
 毎日新聞は、報告書の「近現代史」のうち、非公表となった戦後史部分の全文(中国側論文は訳文)を入手した。▽戦争終結から日中国交正常化まで(1945?72年)▽新時代の日中関係(1972?08年)▽歴史認識と歴史教育――の3章で構成され、章ごとに日中双方が論文を執筆している。
 天安門事件について日本側は「中国共産党が人民解放軍を出動させ学生・市民の民主化運動を武力弾圧した事件。中国は最高の国際環境を一気に失った」と指摘した。一方、中国側は「天安門事件」や「武力弾圧」などの表現は一切避け、「政治騒動が起こり、欧米国家は中国に制裁を発動した」との認識を表明した。中国の愛国主義教育については、日本側が「結果として反日教育になった」との見方を示した。中国側は「歴史教育の主題の一つ」と主張した。
 また、東京裁判について、中国側は「侵略戦争を防止し、世界平和を守るために積極的な試みをした」と正当性を強調した。日本側は「手続きの不公平さ、事実認識の不正確さなど法的に問題が多い。日本の戦争責任に関する議論をかえって混乱させた」と反論した。
 歴史認識問題では、中国側が「日本国内にはまだ侵略戦争の責任を一貫して認めようとしない政治勢力が存在する」と指摘。「日本人が戦争責任を反省することは『自虐』行為と考えている」と批判した。靖国神社参拝問題について、中国側は「軍国主義の復活を容易に人々に連想させる」との認識を示した上で、在任中に毎年参拝を続けた小泉純一郎首相に触れて「日中関係に極めて困難な局面をもたらした」と断じた。【中澤雄大】

日中歴史共同研究:戦後史部分(要旨)

[毎日新聞 2010年2月10日 東京朝刊]

 先月31日に発表された日中歴史共同研究の報告書では、歴史認識の隔たりが埋まらないとして、中国側の要請で、「近現代史」のうち1945年以降を扱った第3部(第1?3章)を非公表としていた。今回、入手したのは非公表とされた全文。他の論文と同様、両国の有識者が同じテーマを巡って、それぞれ執筆した。

◆第3部第1章 1945?72年

 ◇日本側
 戦争を引き起こした戦争指導者の責任を問う東京裁判(極東国際軍事裁判)には「無責任ナル軍国主義」者の処罰を世界に印象付けるという政治的意味はあった。だが手続きの不公平さ、事実認識の不正確さ、「平和に対する罪」という事後法の不当性など法的には問題の多い裁判で、日本の戦争責任に関する議論を混乱させたように思われる(注釈=東京裁判は敗者に対する勝者の懲罰だった。連合国側が「文明による裁き」「正義」と唱え、問題を複雑にした。文明の裁きなら、なぜ原爆や東京大空襲が裁かれないのか。ソ連がなぜ裁く側にいるのか。納得している人は少ない。ただ東京裁判に問題があるからといって、日本の行為が正当化されるわけではない)。
 1951年9月8日、サンフランシスコで連合国と日本の間で結ばれた平和条約に中国は調印していない。台湾処理は、条約自体が台湾の将来の帰属を決定しないものとした。中華民国と講和するという日本の選択の背後には米国の強い圧力があった。日華平和条約締結から日中共同声明に至る20年間、日中の関係改善は限定的にとどまった。
 佐藤栄作政権下で日中関係が悪化したのは、一つには佐藤政権が親米政策を強めたからだ。沖縄返還交渉を有利に進めるためだ。中国が核実験を成功させたことも理由の一つだ。文化大革命の影響もある。首相となった田中角栄が日中共同声明を出して国交回復を成し遂げた。
 日中関係の基本構図が戦前と変化し、国交回復、関係発展の土台になったのも事実だ。一つは経済関係。戦後の日本は中国大陸とほとんどかかわりなしに世界経済全体の発展の中で経済大国への道を歩んだ。もう一つは両国の軍事関係だ。日本は「吉田路線」を貫き、軍事大国にならないことを世界に明らかにしていた。中国の優位は明白になり、戦前のように日本の軍事力を脅威に感じる必要はなくなっていた。
 日中共同声明は戦後処理について双方の考え方がぶつかった末の妥協の産物だ。何よりの相違は日華平和条約の取り扱いだ。賠償放棄も議論になった。日本側は賠償問題も日華平和条約との整合性にこだわった。この声明によって日中間の戦争賠償問題が解決したと考えるべきだ。日本側が微妙な表現を求めた背景には法的整合性だけでなく、中国との国交正常化後、中台間の争いに巻き込まれることを避けたいという理由があったと思われる。
 共同声明の前文には謝罪の文言が盛り込まれた。結局日本側の考え方が受け入れられたが、戦争と加害責任を誰が負うかという議論は、80年代に日中関係を悩ませ始める「歴史問題」の中で重要な意味を持つようになる。

 ◇中国側
 東京裁判は全世界に「侵略戦争を画策し、発動し、進行することは国際法に違反した犯罪行為だ。違反した者は法の制裁を受ける」と宣告した。侵略戦争を防止し、世界平和を守るために積極的な試みをした。日本の対外侵略戦争の性質を認め、日本軍の隠された犯罪事実を明らかにした(注釈=東京裁判では中国およびその他連合国が軍事法廷を開設、B、C級戦犯に対しても審理した。国民政府は寛大な政策を採り、重大な罪を犯した戦犯が厳罰に処せられたほかは、多くが寛大に処置された)。最大の戦争責任者である昭和天皇を裁いていないこと、化学戦、細菌戦、強制従軍慰安婦といった戦争の罪を追及していないという批判があるが、全体の正当性と公正性、歴史的意義にマイナスの影響を及ぼすことはない。
 抗日戦争終結後、中国は日本に対し、講和条約と賠償金についての一連の文書を提出した。しかし国際地位の低下によって、米国その他同盟国の支持を得られなかった。日本が台湾当局と条約を締結し、新中国との国交回復の門は閉ざされた。
 米国が東京裁判の中で昭和天皇の戦争責任などの戦争犯罪を追及せず、公職追放を解除し、A級戦犯容疑者を釈放したため、日本は戦勝国から圧力を受けなくなり、侵略戦争の中心的人物の一部が政界中枢の地位を占めた。いまだ侵略戦争について統一された法的結論や政府統一見解を持たず、政府要人や政治勢力が「言論の自由」を掲げ活動を行い、アジア諸国の反発を呼び、外交摩擦を生じさせている。
 台湾は古くより中国固有の領土であった。日本が「ポツダム公告」を受け入れることを決定したことは、台湾を中国に返還することを意味する。台湾は中国固有の領土であるという法理的地位に改めて確認を取り付けたことになる。対日賠償問題も重要な事項だった。

◆第3部第2章 1972?2008年

 ◇日本側
 79年12月、大平正芳首相の訪中時に第1次円借款プロジェクトが発表され、04年までで日本の対中政府開発援助(ODA)は総計約3・4兆円に上った。しかし中国国内では、改革開放政策への批判が時に表面化し、内政と、改革開放に最も深くかかわる外国であった日本との関係が連動するかのような局面も表れた。
 82年6月には最初の教科書問題が発生。そのひと月後に中国政府が正式に抗議した。日本政府は教科書検定基準の中に「近隣諸国条項」を追加した。次に問題になったのは85年8月15日に行われた中曽根康弘首相の靖国神社公式参拝。80年代には他にも防衛費対国民総生産(GNP)比1%枠撤廃などいくつかの問題が出現したが、経済交流の拡大が目覚ましく、日中関係は基本的に良好に発展した。
 89年6月4日未明、中国共産党が人民解放軍を出動させて学生及び市民の民主化要求運動を武力弾圧した六四事件(第2次天安門事件)で欧米諸国は激しく中国を非難し、経済制裁を科した。政府は日本人の退避勧告や渡航自粛の呼びかけを行い、6月20日には対中ODAを事実上凍結したが、いち早く対中制裁を解いた。日中両国政府の思惑が一致して92年10月、史上初の天皇陛下による中国訪問が実現した。
 92年以降の日中関係は、冷戦構造が根底から崩れ、新しい時代に入った。第一に浮上した問題は台湾であった。93年末から94年初めに李登輝総統らが国交のない東南アジア諸国を訪れた。こうした動きとほぼ同時に日米同盟の再定義が進められた。日米安保協力の重点を日本の防衛から地域の平和と安定の確保に移し、日本の安全保障上の役割を拡大しようとする考えが政府内で強まり、日米安保共同宣言が96年4月にクリントン大統領と橋本龍太郎首相の間で調印された。中国は日米安保協力の強化が台湾海峡で起こりうる武力紛争への介入をねらうものだと激しく非難した。
 江沢民国家主席は政策として中華ナショナリズムをかき立て、結果として多くの中国人の反日感情を高めた。日本の側でも一部でナショナリズムの高揚がみられ、両国のナショナリズムが反響し、お互いを増幅させる状況が表れた。
 96年11月、橋本首相が江主席と会談し、地球規模の問題での日中協力を呼び掛けた。97年7月勃発(ぼっぱつ)したアジア金融危機が構想を後押しした。しかし江主席は98年11月日本を訪れ歴史認識についての対日批判を展開し、多くの日本人の失望と反発を招いた。21世紀初めの日中関係は「政冷経熱」といわれ、日本側は中国の国防費に不信感を募らせ、中国側は日本が防衛政策上「普通の国」になることを不安視した。06年の安倍晋三首相訪中を契機として日中の政治関係は一気に好転した。

 ◇中国側
 日本の対中国ODA政策には、中国の改革開放への支援、日中経済貿易関係の発展促進、対中国侵略戦争への歴史的な埋め合わせと中国の戦争賠償放棄への償いといった要素が含まれている。30年近い日中友好協力関係の重要な構成部分だ。80年代、日中経済貿易関係はスピードアップして発展。日本は対中国関係の地位をいっそう高め、「日本外交の重要な支柱」と称した。日中関係の発展は歴史上最も良い局面が表れた。
 89年6月4日、中国で政治騒動が起こり、欧米国家は中国に対して制裁を発動したが、日本政府は留保の姿勢をとった。日米は94年から双方の同盟関係を強化して、中国の安全環境にマイナスな圧力を増大したため、日中の安全面での相互信頼の雰囲気を悪化させた。日本政治は「政界の総保守化」の趨勢(すうせい)が表れ、侵略歴史を否認し、憲法9条の改定を主張し、東京裁判を否認する勢力がかつてなく力を付けた。
 96年4月に「日米安全保障共同宣言」を発表。その中の「周辺事態」などの概念は、日米が共同で台湾事務を干渉する意図がにじみ出て、中国の安全面の憂慮を引き起こした。95?96年に日中関係は国交回復以来最低位に陥り、初めての「政冷経熱」の局面が表れた。97年橋本首相の訪中、李鵬首相の訪日で「政冷」のどん底から抜け出し始めた。
 2001年以来一連の問題をめぐって政治摩擦が起きた。とりわけ小泉純一郎首相が6回も靖国神社を参拝したことが、日中の政治関係と民衆の感情に一番大きなマイナスな影響をもたらし、第二の「政冷経熱」の局面が表れた。安倍首相が06年、北京に「氷を砕く旅」をし、「日中が共同の戦略利益に基づく互恵関係」を構築することを提案、中国指導者が受け入れた。

◆第3部第3章 歴史認識問題

 ◇日本側
 歴史認識問題が争点になったのは「教科書事件」からである。第一は82年、日本の各紙が文部省の検定によって「侵略」が「進出」に書き換えられたと報じた(注釈=中国関係の記述では実際には書き換えがなかった)。中韓からの批判を受け鈴木善幸内閣は検定の是正を表明し収束した。第二は86年に「日本を守る国民会議」が編纂(へんさん)した高校教科書が合格したことに中韓や日教組が反発。文部省が異例の4度に及ぶ追加修正の末、合格した。第三、第四は01、05年に「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が合格し、中韓などが修正要求したが日本政府は応じなかった。
 教科書問題の特徴は、冷戦下のイデオロギー対立の影響を受けた政治化。中国側は日本政府が検定制度を通じて歴史を歪曲(わいきょく)したと認識したが、「学習指導要領」には「アジア近隣諸国との関係に着目し、戦争までの経緯と惨禍について理解させること」が明記され、すべての中学と高校の歴史教科書に「南京事件」が記述されている。
 中曽根康弘首相が85年8月15日に初めて靖国神社に「公式参拝」し、中国は激しく反発。以後靖国問題は外交問題へ転換した。中国側が批判の根拠としたのはA級戦犯合祀(ごうし)だった。中国の批判を受け中曽根首相は86年の参拝を取りやめ、国内の参拝支持者から反発を呼んだ。再び政治問題化するのは小泉純一郎内閣になってから。小泉首相は中国への配慮で01年8月13日に前倒し参拝。中国側は参拝中止を要請したが小泉首相は毎年参拝を続け、日中関係は首脳交流が途絶えた。
 中国側の主張は、靖国参拝は、一部の軍国主義者に責任があり多くの日本人は犠牲者、との国交正常化以来の大原則を否定するというもの。日本側の参拝目的は「戦没者の追悼と平和の祈念」。小泉首相の参拝に多くの国民が支持を表明し、中国の強硬な抗議は反発を招いた。靖国神社は日中両国で「シンボル化」された。
 世界的に植民地支配や戦争に対して「謝罪」した例はほとんどない。日中戦争に関して日本は「反省と謝罪」が不十分と指摘されるが、実際には20回以上行ったと言われる。中曽根首相が85年10月に初めて日中戦争を侵略戦争と認め、その後の首相は一貫して侵略戦争と認識している。最も踏み込んで「お詫(わ)び」表明したのは、95年の村山富市首相戦後50年談話だが、趣旨は国内に広く浸透したわけではない。
 中国において愛国主義が強調され始めたのは80年代。90年代の江沢民主席時代、民主化運動や天安門事件に対する危機感を背景により強化され、栄光の歴史だけでなく屈辱・被害の側面を強調した。

 ◇中国側
 戦後日本に対して行われた国際軍事法廷の裁判は、日本が中国に対して行ったのは侵略戦争という本質を明確に認めた。しかし中国のさまざまな政治勢力は、侵略戦争を起こした日本の軍国主義指導者と、広大な人民群衆を分けることを提起した。56年の「歴史教学大綱」は中学校の「世界史」について「必ず愛国主義と国際主義の教育を貫徹しなければならない」とし、戦争時期の日本軍の活動について比較的具体的な叙述がされたが、軍国主義者と普通の民衆とを区別する原則は貫かれた。
 80年代後半、日本の一部政治家が無責任な発言で戦争責任を認めず、歴史教科書の日本軍の侵略と残虐行為を暴く内容がいくらか増加。90年代、戦争に関する内容が再び適度に減少した。愛国主義教育は、学生に民族的自尊心と自信を確立させ、祖国を熱愛する心と国家建設のために貢献する精神を育成させるもので、国際主義教育と同時になされ、狭隘(きょうあい)な民族主義には反対しなければならない。
 靖国神社は依然として戦時中の「英霊」を顕彰する立場を堅持し、「日本民族の精神史」をたたえることを通じて侵略戦争を肯定している。A級戦犯合祀後、首相の参拝は東京裁判を否定する意義を持つとみなされた。戦争被害国の国民に精神的苦痛をもたらし、日中の歴史問題を考察する要だ。60?70年代、中国のマスコミは首相参拝への正面からの批判は行わなかった。85年、中曽根康弘首相が8月15日に首相の身分で参拝。国交正常化以来初めての学生の抗議デモが発生した。
 小泉純一郎首相が01年から6年間参拝し続け、日中関係に極めて困難な局面をもたらすに至った。中国側は「戦争被害を受けた人々の感情を傷つけ、日中関係の政治的基礎を損ねた」と受け止めた。政治家の靖国神社参拝が日中関係にもたらす損失はけっして低く見積もることはできない。

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■近現代史第3部の論文執筆者

<第1章>
【日本】坂元一哉・大阪大大学院教授
【中国】金熙徳・社会科学院日本研究所副所長
    宋志勇・南開大日本研究院副院長
<第2章>
【日本】高原明生・東京大大学院教授
【中国】金・社会科学院日本研究所副所長

<第3章>
【日本】庄司潤一郎・防衛省防衛研究所戦史部第1戦史研究室長
【中国】歩平・社会科学院近代史研究所長(中国側座長)

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