「第3の項目 果実をもたらすものとしての資本」の読み方

マルクス『1857-58年草稿』のIII「資本にかんする章」の最後の部分「第3の項目 果実をもたらすものとしての資本。利子。利潤。(生産費用、等々)」の部分をどう読むか。

中身でなく、マルクス自身の書き込みから、マルクスの思考の運びを考えてみました。手がかりとなるのは、『資本論草稿集』第2分冊573ページ下段。そこには、区切り線のあとに「本題に戻ろう」と書かれています。

そこで問題。はたして、マルクスは、ここで、どこまでさかのぼって「本題」に戻ったのでしょうか?

区切り線の前では、マルクスは、「利潤率の低下」についてあれこれ議論を展開しています。そして、「利潤率の低下」にかんしてアダム・スミスやリカードウがどんな議論をしているか、学説史的な問題を取り上げ(560ページ下段?)、その最後にバスティア批判が出てきます(566ページ下段?)。バスティア批判のところでは、「同じばか話が…」(569ページ下段)などという表現も出てきて、本格的な学説史的検討というより、ことのついで的な批判のような感じもします。だから、ここで「本題に戻ろう」と言っているのは、バスティア批判の脱線を終えて、本題に戻る、というようにも読めます。

しかし、それでは「本題に戻ろう」と書いた後のところにうまくつながりません。「本題に戻ろう」と書いた後、マルクスは次のように書いています。

したがって、資本の生産物は利潤である。資本は、利潤としての自己自身に関わることによって、自己自身にたいして価値の生産源泉として関わるのであって、利潤の率は、資本が自己自身の価値を増加させた比率を表現するのである。…… (『資本論草稿集』第2分冊、573?574ページ)

つまり、「本題に戻ろう」といった後、マルクスは、「利潤率の低下」ではなく、利潤率そのものについて論じているのです。それが「本題」だとすれば、555ページ以下で展開されている「利潤率の低下」の部分は、実は「本題」からそれた議論であって、マルクスは554ページ末まで戻っている、ということになります。

もちろん、「利潤率の低下」が「本題」から外れているといっても、それは「利潤率の低下」の問題がどうでもいい問題だったという意味ではありません。そうではなくて、マルクスの論の運びからいうと、555ページから572ページまでの「利潤率の低下」を論じた部分は、実は、もっと後ろで展開するはずの議論を、マルクスが先取り的に、ここで展開してしまったのではないか。だから、話を「本題」に戻そうというのが、ここの書き込みの意味ではないかと思うのですが、どうでしょうか。

たとえば、573ページ下段で「本題に戻ろう」といった後、あらためて「利潤率」について論じたあと、マルクスは、579ページ下段で、また「もう一度繰り返しておこう」と書いて、『資本論』でいえば、剰余価値の利潤への転化の議論を論じています。あくまで、ここでの議論は「利潤」や「利潤率」の問題なのです。

そして、580ページ下段で、「利潤という姿態への剰余価値のこの変換のところで明らかとなる2つの直接的法則は次のものである」と言って、次の2つの法則を上げています。

  1. 「利潤として表現される剰余価値は、常に、直接的な実在性における剰余価値がほんとうにもつ比率よりも小さい比率として現われる」という法則。(580ページ下段)
  2. 「資本が生きた労働を対象化された労働の形態ですでに取得し終えた程度に応じて、つまり労働がすでに資本化され、だからまた次第に固定資本の形態で生産過程において作用する程度に応じて、あるいは、労働の生産力が増大する程度に応じて、利潤率は低下する」という法則。(582ページ上段)

そして、582ページから583ページ下段にかけた部分では、この「利潤率は低下する」という法則について若干の展開をしていますが、しかし、それはあくまで「利潤率は低下する」という法則を明確にしておくための必要最小限の指摘。そのことは、結論的に「この点は、蓄積の考察のなかで、はじめて詳細に展開することができる」(583ページ上段)、「この関係もまた、蓄積理論および人口理論のところではじめて詳細に研究されるべきである」(同下段)と書いていることからも明らかです。

そのあと、またマルクスは、利潤率を規定する諸要因についての考察に戻っています。

つまり、マルクスは、利潤率は剰余価値率より低く現われるということと、利潤率は低下する傾向がある、ということを最初に断ったうえで、そうしたことを念頭に置きながら、利潤率を規定する諸要因、とくに機械や相対的剰余価値生産などについて考察を展開していったのではないでしょうか。

こういうふうに考えてくると、555ページから572ページまでの「利潤率の低下」問題を論じた部分は、順を追った議論の展開としてというよりも、そうした議論を飛び越して、先に問題を展開してしまった、という感じがしてきます。

マルクスが、「利潤率の低下」に、いわば資本主義の歴史的な限界を見て、この問題を非常に重視したことは間違いありません。それだけに、いよいよその問題を論じる部分が始まった、というので、つい議論の展開を飛び越して、一気呵成に展開してしまったのではないでしょうか。

もう1つ、この部分でおもしろいのは、先ほども紹介したように、マルクスが、「利潤率は低下する」という問題を全面的に論じるのは「蓄積の考察」「蓄積理論および人口理論のところ」だと考えていたことです。

「蓄積の考察」「蓄積理論および人口理論のところ」というのは、現在の『資本論』でいえば、第1部第7篇「資本の蓄積過程」にあたる内容でしょう。そうなると、「第3の項目」は、現在の『資本論』でいえば、第3部にあたる部分と考えられていますが、当時のマルクスの構想では、利潤の問題を論じた後で、「蓄積」の問題を論じるつもりだった、ということになります。

ところで、この部分でマルクスは「利潤率の低下」と言って、現行『資本論』のように「利潤率の傾向的低下」という言い方はしていない、という意見もありますが、この部分でもマルクスは「利潤率が低下していく傾向」(582ページ下段)という言い方をしています。もちろん、「反対作用をする諸要因」という考えは出てきていませんが、利潤率低下を「傾向」としてとらえる発想自体は、すでに『57-58年草稿』にもあったといえるのではないでしょうか。

さらに続き。

「第3の項目」は、『資本論草稿集』では、605ページに「貨幣にかんする章と資本にかんする章とへの補足」という見出しが立って、一応そこで終わりということになっていますが、これは新MEGA編集部がつけたものです。確かに、この部分からあとでは、「貨幣」にかんする学説史的な抜き書きなどが登場します。

しかし、マルクスの意識としては、686ページ下段で「貨幣について述べたこれらすべての脱線を終えて……出発点に戻ることになる」と書いて、ふたたび「第3の項目」の最後の部分に戻っています。つまり、ずっと利潤の問題を論じるという意識は続いている訳です。

それは、さらに「雑」としてくくられている部分にも続いていて、752ページ上段の最後には、「利子のところでは2つのことが考察されるべきである」といって、「利子と利潤への利潤の分割」および「資本そのものが商品となる」(利子生み資本のこと)問題を上げていて、ふたたび利潤の問題に戻っています。

ですから、マルクスの意識としては、利潤にかんする議論が続いている、ということが分かります。

ということで、中身ではなく、あくまでマルクスの思考の流れ、という角度から、この部分をざっくりと眺めてみたわけです。もちろん、これはあくまで私の読み方。はたしてほんとうにそうだったのかどうかは分かりません。

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