「権門体制論」について呟く

黒田俊雄氏の「権門体制論」について呟きました。

  • @mnb_chiba 黒田先生の著作集をきちんと確認してからでないと責任ある発言はできません。w posted at 16:20:55
  • まして権門体制論について物申すためには、まず最近の研究動向を調べ直さないと…。 posted at 16:23:58
  • 権門体制論について、少し書きかけたけど、やっぱりやめた。調べてからでないと、とんでもないトンチンカンをやりそう。w posted at 16:30:19
  • リアリティというなら、法皇が居る目の前で人を射殺したりはしないはず。そんなことをすれば法皇が触穢になる。平氏は清盛以前に受領(国司)だったのだから、いくら上級貴族に使われる身でももっとマシな暮らしをしていたはず。そういうことを問題にせず「王家」にこだわるのは僕には理解不能。 posted at 16:36:53
  • 黒田俊雄氏の研究によれば、中世では「天皇」の語は諡号としてもほとんど用いられず、日常用いられたのは「国王」、現在位の国王は「主上」、諡号は「院」。「王家」も中世で用いられた語で、『神皇正統記』にも出てくるとのこと。(黒田「朝家・皇家・皇室考」1982年、著作集第1巻所収) posted at 20:12:46
  • 黒田俊雄氏が「権門体制」論を初めて提唱したのは1963年(「中世の国家と天皇」、岩波『講座日本歴史』6)。その当時は平安時代は荘園制、鎌倉時代は領主制という図式だったが、その後、荘園制下でも国衙領が重要な役割を果たしていたことなどが解明されてきた。鎌倉時代になっても、鎌倉幕府(続 posted at 20:34:36
  • 2)が全一的に支配した訳ではなく、だからこそ承久の乱(1221年)のあと幕府が全国的に地頭を置くようになったことの意味が大きい。したがって、今日、かつてのように幕府権力の単一全一的な支配を主張する研究者はいない。その意味では「権門体制」論は常識になったと言えるが、黒田氏の権門(続 posted at 20:45:44
  • 3)体制論をその程度の一般的意味で考えるのは乱暴すぎるだろう。黒田氏のいう「権門」は、天皇家(王家)、摂関家、大寺社(寺家、社家)、幕府(武家)を含む。国制として考えるときに、はたしてこれらを同列に扱えるのかどうか。そのあたりは議論が分かれるだろう。もちろん黒田氏も、権門体制(続 posted at 20:55:19
  • 4)としてずるずるべったりに考えていたわけではなく、王家・摂関家が中心になっていた平安末期から、武家が中心となる鎌倉後期へと、段階的な変化を考えられている(今すぐその論文が出てこないが)。もう一つ、黒田氏が権門体制論を唱えた背景には、この時代の権力が公的性格と私的性格とを合わ(続 posted at 21:06:15
  • 5)せ持っていたという問題がある。天皇家も、天皇としては荘園を持てないので、上皇として荘園を所有し、なおかつ天皇家の家長として権力を行使した。他方、在地領主も地頭職などに補任されることで私的支配を正当化した。また、本来公的であるはずの国衙支配も家産化され、「受領」ということが(続 posted at 21:14:11
  • 6)行われた。このように私的な権門勢家が公的権力を分有しあう関係というものを表すのに黒田氏は「権門体制」という言葉を使ったのだと思う。しかしこの点でも、今日では研究水準ははるかに詳しいところまで進んでいるのではなうだろうか。だから、結論として、今回の大河ドラマの清盛像を「権門(続 posted at 21:18:52
  • 7)体制論」でくくってみても、あまり面白くはならないのではないかと思うのだが、どうだろうか。それよりも、この時代は、経済的土台の部分での農民の支配が大きく変わってゆく時代であり、その支配をめぐる争いの中から在地領主としての武士が成長する時代。そこを描くことに成功すれば、歴史ド(続 posted at 21:22:24
  • 8)ラマとして面白くなると思うのだが。それ抜きに権謀術策を描いて見ても、結局、いろいろあったということで終わってしまうだろう。 posted at 21:25:00
  • あ〜疲れた。 posted at 21:25:23
  • なんであれ、久々に黒田俊雄氏の著作集を紐解くことができたのは良かった。 posted at 22:14:17

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