いまさらとは思うが、『現代思想』2004年4月臨時増刊「総特集 マルクス」を読み始めました。筑摩の「マルクス・コレクション」といい、マルクスが出版ジャーナリズムでいろいろ取沙汰されるのはよいのですが、問題はその中身です。
全部は読み終わっていませんが、これまで読んだところで、いろいろ感想を。
今村仁司「マルクスにおける歴史的時間の概念」
マルクスの時間概念は、ヘーゲルに従って、「厳密に歴史的時間として定義されている」と主張。そして、その論拠を、「現在の社会関係のなかに、それを生産した過去の社会関係」がアウフヘーベンされて(つまり「過去の姿とはまるで違う形式をとって」)、「現在の経験の構成要素として」「包摂されている」ことに求めている。
以上の議論は、今村流の回りくどい言い方になっているが、時間を「意識内部の時間」としてしか理解しない主観的観念論にたいする批判としては正当なもの。
しかし、それにもとづいて、『経済学批判要綱』の経済学の方法や価値形態論について論じたところは、目新しさもなく、何が言いたいのかよく分からない。たとえば「人間の解剖は猿の解剖の鍵になる」というマルクスの指摘を解釈して、「具体的な歴史的過程のなかで、後なる社会が先行する諸社会を構成していた諸要素(「残片」)を変容させて保存していることを主張している」と述べているのは、根本的に解釈を誤っている。マルクスが言わんとしたのは、より発展した形態を分析することによって、初めて萌芽的形態の意味するところを理解できるということ。歴史が先行する要素を残存させるかどうかとは無関係。
その次の、単純な諸範疇とより具体的な諸範疇との関係を論じた文章については、今村氏は決定的な最後の一文を引用していない。すなわち、このマルクスの文章は「もっとも単純なものから複合的なものへと上向していく抽象的思考のあゆみ」が「現実の歴史的過程に照応する」のは何故か、ということを明らかにしたもの。この文を省略してしまったことに示されるように、氏は、その点をまったく理解していないまま、勝手な解釈を展開している。
価値形態論について述べたところでは、今村氏は「価値形態の分析によって取り出される事態は、マルクスの言葉によれば、『貨幣形態の生成』である。それはいわば『論理学的』(より正しく言えば『存在論的』)である。この存在―論理は、ヘーゲル的伝統に立つかぎり、弁証法的である」といっている。これは、論理=歴史説の問題として、すでにさんざん議論されてきた問題であり、特に目新しい内容はない。
一番理解不可能なのは、そういう価値形態論における「論理の歩み」と「歴史の歩み」の一致から、「この議論をさらに拡大して適用するならば」と言って、一気に「資本主義的生産様式の構造分析は、その所有論的観点からみて、人類の共同所有と個人所有の結合様式の形態論的シリーズを構成要素として法則していることを解明することができる」と飛躍していること。共同所有と個人所有を、相対的価値形態と等価形態になぞらえて、価値形態論のような概念的展開ができるとでもいいたいのだろう。価値形態論と『先行諸形態』とは「存在論的にも歴史哲学的にも、同じ認識地平のなかにある」というのは、そのように理解しないと意味が通じない。しかし、『先行諸形態』の議論を価値形態論と同じ「認識地平」に並べるという発想自体が違っていると思う。
ガヤトリ・スピヴァク「理論に残されたもの/理論の左とは?」
もともとの論文が悪いのか、訳が悪いのか、ともかく読むだけでも苦労するようなぐちゃぐちゃした文章。マルクスの方法を、エンゲルスが切断してしまったというような議論が前半で書かれている。で、何が言いたいかは、最後の「コーダ」を読むのが一番。というか、分かるのは「コーダ」だけだと思う。
ただその中で、著者は、『資本論』第1章第1節の終わり近く、「ある物は、価値であることなしに、使用価値でありうる」という段落の直前のところで、「われわれはいまや価値の実体を知っている。それは労働である…」というフレーズ(これは、初版にはあったが第2版で削られた)について、これはエンゲルスの文章だとして、マルクスが第2版でエンゲルスのこの文章を削除したにもかかわらず、エンゲルスが脚注に残したと論じている。このフレーズは、初版では「付録」として書かれたものだと思われる(まだ確かめてないが)が、それがエンゲルスの文章だというのは初耳。この注も、ヴェルケ版編集者の注のはず。何も論証が書かれてないので確かめようがないが…。
佐藤隆「資本の修辞学」
実体規定と形態規定を対立させて、実体規定中心の理解を「わな」にはまったものとして批判する議論を展開しているが、議論の前提である「実体と形態との二つの間は、それぞれ本質と現象という因果律で結ばれている」という理解が決定的に間違っている。実体?形態は、本質?現象のような必然的な関係で結ばれていない。そこに、実体?形態関係の一番の特徴がある。そのことは、ヘーゲルも指摘しているし、マルクスも述べていること。だから、そのあとの議論は、全部、意味をなさない。
三島憲一「マルクスのレトリック」
『資本論』のいわゆる『否定の否定」の部分について、次のように言っている。
ここにあるヘーゲルの用語による歴史の全体化は、それに伴う本質暴露とともに、これまでの説得的な叙述をだいなしにしている予言の形象である。
分析的ジャーナリズムのレトリックを駆使しているときは憤激を読者が共有しうるのだが、全体化と、それに伴う予言のレトリックに落ち込む顕著な傾向は、理論的にも弱体化でしかなく、「運動関係者」以外の読者は距離を取ることになる。……道徳的憤激と本質暴露の癒着とともに、分析の鋭さと、にもかからわず見舞われる予言のはずれは、左翼のお家芸になってしまった。(156ページ)
「本質暴露」というのは、「現象と本質の古典的区別にもとづいて、すべて表に現れるものは、奥底にある暴虐な資本とブルジョアジーの悪辣な意志の、大衆の目を眩ませるごまかしにすぎない」という論理であり、さらに、「それが分かっているのは、私カール・マルクスと、それに同調する少数の人々で、大衆はそれを理解していないから、目を開かせる必要がある」という議論だという。そして、「こうしたレトリックに対する日本のマルクス研究者の無感覚ぶりはひどいものである」とも言っている。
「否定の否定」のくだりは、別に、ヘーゲルの「否定の否定」の論理の助けを借りて、資本主義の移行の必然性を証明しようとしたものではない。むしろ問題は、それが理解できない三島氏の側にあるのでは? この特集号のなかでも、一番たちの悪い論文かもしれない。