本書は、青土社『現代思想』2003年7月号〜2004年4月号に連載されたものをまとめたもの(2004年7月刊)。著者は、大阪大学名誉教授で、元日本思想史学会会長、新井白石、荻生徂徠などの研究者として著名ですが、最近は、近代以降の日本思想に対象を移し、「日本的なるもの」の問題機制を鋭く問いつづけておられます。
さて、本書をつらぬく著者の視角は、次の一文にあると思います。
国家神道とは、ただ過去に尋ねられるべき問いではない。国家神道への問いは、日本という国家の祭祀性・宗教性をめぐってわれわれがなお発し続けねばならない、あるいはまさに現在発せねばならない緊要な問いとしてある。(本書、10?11ページ)
そしてもう1つ、本書の視線を構成しているのが、神道史家・葦津珍彦、阪本是丸などによる「国家神道とは何だったのか」という神道見直し論。「国家神道とは何だったのか」という「過去への追及的問い」(同13ページ)が、実は、「神祇的国家」への回帰であるという問題です。子安氏は、「国家神道見直し論」が、「戦後的な国家体制の見直しを云う押しつけ憲法論と全く相同的な言説を構成する」(17ページ)と指摘し、憲法9条見直し論と、政教分離原則の見直し論とが通底していることを明らかにしています。
国家から宗教を完全に分離する憲法原則は、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、戦争目的のための軍事力の所有を禁じた憲法原則とともに、国家の自己既定としての日本国憲法に高く現代的な意義を規定するものであった。なぜならこの憲法原則は近代国家における戦争と宗教祭祀とを本質的なところで問いかけているからである。(同19ページ、※下線は原文傍点)
子安氏は、国家神道見直し論が「国家神道を制度史上の概念に矮小化」していることを明らかにしたうえで、戦後の日本国憲法が2度目の「世俗主義的国家原則」の表明だったことに立ち返り、国家神道見直し論が、なぜ日本が2度にわたって「世俗主義的国家原則」を表明しなければならなかったのかを問わないものだと指摘。その行き着くところを次のように指摘しています。
われわれが歴史に見てきたのは、またいまなお世界に見ているのは、それ自身に宗教性と祭祀性とをもってしまった近代世俗的国家の国家という名による暴力であり、戦争を行使する主権国家という亡霊の跳梁ではないか。非キリスト教世界にあって、キリスト教的世俗国家を範として、暴力行使を正当化し、死を賭しての献身を可能にする神道国家を比類のない形でいち早く形成した日本が完全な世俗主義的原則を表明したことは、国家と国家連合の名による暴力が宗教の名による対抗暴力を連鎖的に生み出しているいま、あらためて積極的な意味を持つと考えるべきではないか。(同138ページ)
「靖国をめぐる言説」の問題としては、以下の部分がその結論のすべてを語っていると思います。
靖国のために語る言葉とはどこに行き着くものなのか。中西輝政によってまさしく靖国のために書かれた文章の末尾には次のような言葉が掲げられている。「靖国神社を国のために命を捧げた人々のための、つまり戦没者慰霊の中心施設として今後も永く護り抜くことは、国家安全保障政策上の第一級の重要課題でもあるのだ」。
靖国のために語ること、いいかえれば国家のために命を捧げた人々のために語ることは、国家のために命を捧げる日本人を将来において期待しうるためであると中西は端的に言っているのである。彼はそれを「国家安全保障政策上の第一級の重要課題」だときわめて率直にいうのである。……
この中西によってくり返される言葉は、靖国のために語る言葉とは誰によって、何を目的として、いかに語られるものなのかを実にはっきりと示している。靖国のために語るとは靖国を語ることではない。……靖国のために語る言葉とは、個別的な遺族たちの靖国を語る言葉を己の主張のもっとも有力な情緒的な支えといてくり入れながら、しかしそれとは異質な言説である。(184?185ページ)靖国のために語る言葉は、過去から将来にわたる国家の連続性を前提にしている。靖国の英霊たちの命を捧げた国家は将来にわたっても献身の対象でなければならないのである。1945年の敗戦は帝国日本の挫折であり、日本国家にとって不連続な線がそこに引かれたはずである。だが中西たち歴史見直し論者はこの不連続ないし断絶をあいまいにし、あるいは否定する。……
中西が敗戦を断絶としてではなく、連続として語るためにはこの天皇制的国家をめぐる連続・不連続の問題をあいまいにし、「日本人の心」といった民族的文化や伝統の連続性をもってするしかない。……
だが、戦う国家とは祀る国家である。日本が戦う国家であり、したがって英霊たちを祀る国家であったことの何よりの証拠が靖国神社の存在であるのだ。靖国とともに連続が語られる国家とは戦う国家であり、英霊を祀る国家である。だからこそ自衛隊のイラク派兵を推進する小泉首相による靖国参拝は執拗に続けられるのである。(同186?187ページ)
面白いのは、「国家神道」見直し論をとなえる人々の言説を分析した第8章。要するに、彼らは、神道は宗教ではない、憲法が規定した「政教分離」にたいして、神道は宗教に非ず、祭祀であるといって、祭政一致を主張するのだが、そのことが結局は、神道は新しい宗教だと主張する結果になっているという批判です。
「国家神道」は神社神道人によって正の遺産として継承されようとしている。その際、「国家神道」が正の遺産を那須ものとは、神社が〔明治初期の〕政教分離の抗争過程で獲得した神祇祭祀体系としての国家性であり、民族的全体性である。すでに神社神道人は神宮・神社の祭祀こそ日本民族の共同体的統合をなす源泉であるとして、遺産「国家神道」を継承する新たな文化論的、民族論的言説を現代の日本社会にむけて発信している。……
だがここで「日本国家という共同体の統合の源泉」としての神道祭詞がいわれるとき、すでに「神道は祭祀をもって成立つ宗教」だと新たな宗教という概念規定を「神道」は己のものにしている。「宗教」から分離され、「祭祀」として自己規定した「神道」は、際して貴紳党として新たな宗教概念を主張するのである。その宗教とはあたりまえの国家の国家的・公共的祭祀を支える民族的文化としての祭祀的神道である。政教分離の問題は新たなレベルで、国家の祭祀性というレベルで問い直されねばならない。
ということで、とても内容のすべてを要約する能力はありませんが、考察の過程では、靖国神社遊就館の展示問題も登場し、国家が祭祀するということの根本的な問題性を問いかけていきます。
【書誌情報】著者:子安宣邦/書名:国家と祭祀 国家神道の現在/出版社:青土社/定価:本体1900円(税別)/刊行年:2004年7月/ISBN4-7917-6131-6
TBありがとうございます、と言うか、早く読めと言われているようで、すごくプレッシャーを感じてしまいます。が、なかなか子安先生の本まではたどりつけません。すぐ、横道にすれてしまいます。先日、ある方と話をしていたら、民俗学者の故田中丸さんの『さまよえる英霊』(柏書房)を紹介されました。これもなかなか面白そうですね。
YOUさん、コメントありがとうございます。
プレッシャーなんてとんでもないですよ? 私も、去年から積ん読になっていたのをようやく読み終えたところですから。靖国関係の本もいろいろ買い込んでみたのですが、なかなか食指が伸びないというのが正直なところ。こんな鬱陶しい問題は速く決着をつけて、もっと生産的な勉強に取り組みたいもんです。
TBありがとうございます。子安先生とは、月1の研究会でお会いしてるのですが、深い見識と学問に向き合う厳しさなど、色々と教えていただいております。僕はあまり宗教に対しては疎い人間なのですが、靖国だけはちゃんと考えないと思いながら、取り組めていません。靖国の数多ある言説に対して、一人一人がどのように批判的に向き合うか?ということでしょうね。
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