日韓歴史共同研究について韓国側は

韓国側から言えば、「韓日歴史共同研究」ですが、報告書についての韓国メディアの反応をピックアップしてみました。

「韓日共同歴史」研究も苦しい出発 [朝鮮日報]

 「ヨーロッパは共同の歴史教科書を作るのに30年かかった。われわれはたった3年に過ぎない」。
 5月31日、3年間の活動を終えた韓日歴史共同研究委員会の韓国側幹事を務める趙珖(チョ・グァン)高麗(コリョ)大教授は具体的な成果について尋ねる記者らの質問に、もどかしさをあらわにした。
 趙教授は同日の記者会見で、「歴史教科書問題を解決する上で最も重要なことは、歴史を認識する上での韓日の共通点と差異点を明らかにすること」と話した。
 同教授が話した通り、当面の課題は見解の開きを狭める点にあるといえる。委員会が1日に公開した2000ページの報告書を見ると、日本帝国主義の侵略と植民地支配に対し、両国の学者は全く見解を狭められなかった。
 「(日本側の主張は)強制連行の事実を隠蔽しようとする教科書の叙述と脈略を同じくする」、あるいは「韓国の独立運動と民族的力量を無視したり、低評価しようとする傾向にある」という韓国側の評価をみてもそうだ。
 「共同研究」に対する両国の関心にもかなりの開きがある。
 韓国側が1日、教育部、外交部、韓国学中央研究院のホームページを通じ、報告書の全内容を公開したのに比べ、日本は日韓議員連盟と経済団体連合会が中心となって設立した財団法人「日韓文化交流基金」のホームページを通じて公開したに過ぎなかった。
 2期目の委員会の発足や、研究結果を教科書編纂にどのように反映するかについても、両国の温度差は大きい。
 委員会のスタート自体が2001年、日本・扶桑社が歴史教科書を歪曲したことから始まったのを思えば、日本政府には本当に問題を解決する意志があるのか疑いたくなる。
 ドイツ政府は1970年代からフランス、ポーランドなど隣国との歴史理解に向け、積極的に話し合いに参加したことで、ヨーロッパの信頼を取り戻した。日本には、アジアはおろか、韓国の信頼を勝ち取ろうとする意志はあるのか。
金基哲(キム・ギチョル)文化部記者
[朝鮮日報 記事入力 : 2005/06/02 14:25]

韓日歴史共同研究、「共同の理解」見出せないまま研究修了 [東亜日報]

 韓日歴史共同研究委員会は、古代史、中世史、近現代史の3つの分化委員会に分かれて、韓国のソウル、扶餘(プヨ)、江陵(カンルン)、晋州(チンジュ)、日本の福岡や奈良などを行き来しながら討議を重ねた。韓国側では研究委員のほか、別途の研究協力者91人が参加して、韓日関係史のうち103の細部テーマを独自に選定して研究を進める熱意を見せた。
 しかし、歴史共同研究に臨む韓日の立場はお互いに違っていた。韓国は同研究を通じて日本の歴史歪曲を防ぎ、両国の共同教科書の執筆にまで発展させていく考えだったが、日本側は歴史歪曲の波紋を抑えようとする意図が強かった。
 これは歴史研究の過程にはもちろんのこと、結果にまで影響を与えた。韓国側は委員会の実効性を高めるため、政府関係者の参加を主張したが、日本側の反対でならなかった。
 日本軍慰安婦、歴史歪曲などの主な懸案が研究テーマに含まれず、共同研究の結果が歴史教科書に反映されていないのもこれと無関係ではない。日本側は単一の国定歴史教科書を使っている韓国とは違って、一定の政府基準を通った多様な民間教科書を採択している自国の教科書制度を理由に、共同研究の結果の教科書への反映に反対した。
 これに対して、委員会で韓国側総幹事を務めているチョ・グァン高麗(コリョ)大学教授は31日、研究結果を発表する場で、「似たような歴史問題を経験したドイツとフランスも1970年代以後30年間の共同研究を通じて、共同の教科書を使う段階に至った」とし、理解を求めた。
 委員会がまとめたA4用紙2000ページ以上の最終報告書は、両国の歴史学者の認識を化学的に融合した成果ではなく、それぞれの主張を並列的に並べたものに止まった。
 政府と委員会は最終報告書を6月中に本の形にして全国の図書館などに配布し、歴史教科書編集のときに参考にする方針だ。
 韓国政府は今月20日に行われる韓日首脳会談で、第2期歴史共同研究の発足を公式発表する方策を進めている。
by 尹鍾求 朴炯準
[東亜日報 JUNE 01, 2005 06:36]

韓日歴史共同委「最終報告書」…争点ごとで対立 [中央日報]

 韓国と日本の歴史紛争を解決するために2002年に発足した「韓日歴史共同研究委員会(以下歴史共同委)」が3年間の非公開活動を終え、31日、最終報告書を出した。
 1日、外交通商部と教育人的資源部ホームページに公開したこの報告書は、A4用紙2400ページ分に両国間の歴史紛争の主要争点を扱っている。「歴史学国家代表」間の長いやりとりの結果を掲載した初の報告書は両国歴史認識の差をはっきりと「確認」するのに終わったという批判も上がっている。
 歴史共同委に参加した両国学者らの歴史認識は克明に違っていた。古代から近・現代まで争点ごとに意見が分かれた。
 最も明確な違いを見せたのは歴史紛争の地雷畑である近・現代だ。近・現代史に関して日本の学者らは、問題となっている扶桑社版歴史教科書と近い見解を表している。
 「乙巳併合条約」「植民支配と近代性」の問題に対して日本側は「乙巳(ウルサ)条約は国際法的に合法であり列強も認めた。日本の植民政策で韓国に近代的側面が引き出された」という点を強調した。
 「強制動員」と「民族運動」に対しては「朝鮮人らの抵抗はそれほどなかった。抗日民族運動は国家意識が稀薄で、リーダーシップが欠如していたため、自ら独立するのは難しかった」と主張した。日本国内でも最も保守的な立場を繰り返したのである。従軍慰安婦問題は扱いもしなかった。
 これに対し韓国側は「乙巳(ウルサ)条約は不法だ。植民地時代の収奪的構造を明確にしなければならない。植民地時代、韓国人は国内外で多様な独立運動を展開した」と主張し、日本側と平行線をたどった。
 1965年、韓日協定に対しても日本政府の賠償・補償問題をめぐって意見の対立を見せた。韓国側が「請求権自体を認めなかったし、慰安婦問題の強制動員事実を議論していないため、日本政府は今でも賠償・補償義務がある」という論理を展開した一方、日本側は「韓日協定を通じて植民地支配と関連した日本政府の賠償・補償義務は消滅している」とし、明確に線を引いた。
 壬辰倭乱(文禄の役)を扱った中世に関しては主題選定からいろいろと議論になった。韓国側は「戦争を美化してはいけないという観点を維持しよう」という立場を見せた一方、日本側は「壬辰倭乱(文禄の役)開戦から3カ月間の兵糧問題を扱おう」と提案した。最終報告書を検討した国内のある歴史学者は「壬辰倭乱(文禄の役)に関する日本側の提案は、戦争の不当性と民衆の被害などの核心を避け、困惑した主張だ」と批判した。
 また韓日関係史で文化交流の象徴に挙げられる朝鮮通信使に対して日本は「室町幕府は朝鮮(チョソン)使節を朝貢とみなしていた」という一方的主張を繰り返した。
 倭寇の問題に対しては、韓国が「倭寇は貿易行為の違反者だ」と表現した一方、日本は「中世倭寇は日本人のみだけでなく朝鮮人や中国人も含まれた東アジア共通の存在だ」と主張した。
 古代史の争点は任那日本府説に集中した。韓国は「架空の歴史」として実体を認めず、日本は「倭軍が韓半島で軍事活動をした痕跡があり、4世紀当時、強盛だった倭王権も韓半島南部に対する支配の意志を持っていた」と主張、論争の火種を残した。
 最終報告書は19の主題別にはそれぞれ韓日学者の論文一編ずつ、計40編の論文で構成されている。
裵泳大(ぺ・ヨンデ)記者
[中央日報 2005.06.0109:49:05]

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