ちょうど最新作『新リア王』を読んでいることもあって、『現代』12月号に作家の高村薫氏が書いた「小泉改革という幻想」を読みました。
高村さんは、いまの政治家が、政治家として欠かすことのできないはずだった「理念」を持っていないことを厳しく批判しています。
私が今回、「政治家」、それも80年代の政治家を小説に描いた最大の理由は、「人間にとってより良い生き方とは何か」「人間はどう生きるべきか」という、本来、政治家にとって根底にあるべき理想や理念を、80年代ぐらいまでの政治家はかろうじて持っていた、そして今日の政治家たちはまったく持っていない――という現実を書きたかったからです。
今日の政治家たちには、「人間にとって幸せとは何か」といったような根底になくてはならない理念が完全に消失してしまっています。
事実、いまの政治――小泉政権は、国民が求めていること、すなわち公共的利益を国民の安定した生活や、安定した未来につなげていくような決断や政治的過程を、ひとつも実現できずにいる。それは、本来政治家にとって何より不可欠である「理念」が、小泉さんをはじめとするいまの政治家たちに欠落しているからに他なりません。だから困る。
今回の総選挙の結果についても、高村氏は、「今回の選挙で小泉自民党政権に票を投じたのは、『いまのこの経済を立て直すためには、膨れ上がった国の債務を減らさなければどうにもならない」という願いというか、共通の認識が如実に反映された結果だと私は思います」と述べる一方で、にもかかわらず「小泉政権は発足以来、国債による赤字を毎年35兆円近くも増やし続けている」。ところが、郵政民営化のように、「多くの大衆が求めている社会の姿とは違うものを、さもそうであるかのように見せている」と厳しく批判。小泉首相は「政治に与えられた権力のなんたるかを理解していないのは明らか」「政治的な駆け引き、政局の中を泳ぐ、その中で勝った負けたという、いわゆる『戦国ゲーム』、そこに人生を見いだしている人ですから、およそ政治家ではない」との指摘は、なかなか本質を突いていると思います。
ほかにも、興味深い指摘がいろいろありました。
たとえば、小泉政権に「理念」がないという批判に関連して、「自由主義経済にすれば、官から民にお金が流れ、小さな政府が実現され、国の借金も減る」というのが小泉首相の「理念」でないのか?という疑問に答え、こんなふうにいっています。
そこには公共的利益が抜け落ちている。なぜなら、小泉さんが言うところの「官から民へ」の「民」というのは、われわれ国民のことではなく、一部の民間企業をさしているからです。
さらに、過去には「ワンフレーズ」だの、国会での「トンデモ発言」などと小泉首相に多少なりとも批判的なコメントをしていたテレビが、総選挙での「圧勝」後、「テレビで小泉さんの批判がパタッと消えてしまいました」とも。いわれてみれば、確かにその通り。これは怖い…。
しかし、一番大事だと思ったのは、こういう批判を書き連ねてきたあとで、高村さんがこんなふうに言っていることです。
それでは、なぜこのように困ったことになったか。それは、有権者の一人一人が個人の頭で考えるための「基盤」が失われているからではないかと、私は思うのです。政治家が、拠って立つところの抽象的な理念を失っているのと同様に、個々の有権者もまた、個人で考えるべき基盤、ものの見方を失っているといってよい。これは非常に大きな問題です。……
価値観の変化は時代の必然ですが、問題は共同体の一員として、社会のことを考える意思や、そのための下地まで失われてしまった点にあります。どんなに時代が変わっても、政治が不要になるわけではない。だとすれば、私たちが特定の政治を持つ以上、「あるべき政治」について考える必要があるわけですが、考えるための下地、すなわち「知ろう」とする能動が、非常に弱くなってしまったのです。
ではどうしたらよいか? 高村氏は、「改革」賛成か反対か、首相の靖国神社参拝に賛成か反対かという“二進法”政治にたいして、「おかしい、おかしいと思うことも、私たちがものを考える一歩なのです」と指摘。いろいろ「見えにくい」ものがあるけれども、「ちょっと考えたり、想像したりしてみるだけで、『見えない』ものが見えてくる」とも言って、こう指摘されています。
正直、今回の選挙結果に対し、私だって絶望しなかったわけではないですよ。だけど、絶望ばかりしていたら前には進まない。結果は出た。それじゃ、その次はどうするかと考えて、テレビを消して、もう一歩だけ考えてみる。……
とりあえず次の参院選までに1日1つのことを考える。とりあえず今日はその日に起こったことについて考えてみる。政治の退行を防ぎ、政治を再び国民のためのシステムにするためにはそうやって少しずつ変えていくしかないんです。
う〜む、さすが高村氏ですね。僕自身、このブログでいろいろ政治的な記事や社会的な事件について書いているのも、いうなれば、「もう一歩だけ考える」ためのもの。結論はそう簡単に出ないかも知れないし、かりに結論が出たとしても、それがそう簡単に多数の声にならないかも知れない。だけれども、だからといって、そうした問題について「考えなくてよい」ということにはならない。それなら、少しでいいから、何か考えてみよう。考える「きっかけ」をつくってみよう、というのが僕の立場でもあります。高村さんの記事は、そんな僕の気持ちにぴったりでした。
毎回、記事を読ませていただいております。
今回も、意を強くできました。
私も先の衆議院選挙で終わった。。というのが本音でした。
しかし、人の生死がかかったえぐい改革を
絶望している場合じゃない!
そういう思いで、あのブログをはじめました。
それでも、どれほどの効果があるのか、
という点で自信喪失気味でしたが、
意を強くできました。ありがとうございます。
『新リア王』を読み終えました。『現代』の記事は読んでいませんがGAKUさんの説明でおよそ見当がつきます。
『新リア王』が見せるテーマはいくつもあるような気がしますが、『晴子情歌』の延長には「日本人は生きる原理を失った」との見方があります。私自身その苛立ちを日々感じるものです。『新リア王』は政治の場でこれを書いたものでしょう。
小説家が現代の政治あるいは経済の実態を捉える、またはそれを「斬る」といえば私には松本清張がまず浮かぶ年代ですが、今思うと清張が「日本の黒い霧」を書いたころはある意味でわかりやすい原理があった時代だったんだ。高村は清張のように外側から見つめることはしない。内側から見ている。だから清張よりは切れ味が鈍い。
清張を読んでいたころはまだ学生だったが今は61歳とサラリーマンを通り越したところで世の中をみると高村の悩んでいる見方こそ本物に見えます。
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