ちょいと知り合いから質問を受けたので、ドイツにかんする1848年革命の経過などをまとめてみました。
まず、登場人物の紹介から。
【ドイツ帝国レベル】
フランクフルト国民議会……3月革命にもとづいて成立したドイツ帝国の憲法制定議会。5月1日に選挙が行われ、5月18日に開会。本来、革命の中心勢力になるはずだったのだが。
ライニンゲン臨時中央政府……フランクフルト国民議会にもとづくドイツ帝国の中央政府として成立。6月28日成立。9月16日、シュメアリングに交代。
【プロイセン王国】
連合州議会……プロイセン王国の旧制度にもとづく議会。革命後、4月2日に招集され、4月18日、プロイセン憲法制定議会の選挙法を決定
プロイセン国民議会……3月革命にもとづくプロイセン王国の憲法制定議会。5月22日成立、12月5日にプロイセン国王によって解散される
カンプハウゼン内閣……プロイセン王国の内閣。革命後3月29日成立、6月20日辞職。
ハンゼマン内閣……同じくプロイセン王国の内閣。カンプハウゼン内閣のあと、6月20日成立、9月8日辞職
プフゥール将軍……ハンゼマン内閣辞職後、9月21日に首相に就任。
ブランデンブルク内閣……プフゥール内閣が10月のベルリン蜂起を弾圧した後に成立した反動内閣。ブランデンブルクはプロイセン国王の叔父
カンプハウゼンもハンゼマンも、ラインラント出身の自由主義者。最初、3月、プロイセン国王に選挙による議会開設などを求める請願をおくるなどの運動の中心になった。3月革命前の時期、マルクスが主筆を務めた「ライン新聞」のスポンサーだったりもしたことがあって、保守派・反動派ではない。しかし、あくまで立憲君主制の実現を求めるだけで、革命派でないのはもちろん、共和主義者でもない。
次は年表(これもドイツ関係のみ)
3月3日 ライン州ケルンで民衆集会。共産主義者同盟員ゴットシャルクの指導で、市参事会に常備軍の解散、民衆武装、労働の保護、生活必需品の確保、教育の無償化などを要求
3月4日 市民層が、選挙による議会、責任内閣制、出版の自由などを求める請願書をプロイセン国王に送る。
3月6日 プロイセン国王が連合州議会の開催を約束
3月13日 ベルリンで民衆と軍との衝突起こる
3月14、15日 市民軍が組織される
3月16日 ベルリンに、ウィーン革命の知らせが届く
3月18日 ベルリン3月革命。国王が、新聞以外の検閲の廃止、連合州議会の招集などを約束。軍による市民への発砲が起こり、それをきっかけに市街戦に。
3月19日 軍が撤退。アルニム・ボイツェンブルク首相のもと自由主義的貴族による新内閣が成立
3月29日 カンプハウゼン内閣が誕生
4月2日 ベルリンで連合州議会招集
4月12日 バーデン蜂起(〜27日)
4月12日 連邦議会、デンマークに宣戦
4月18日 プロイセン憲法制定議会のための選挙法が決定
5月1日 フランクフルト国民議会選挙
5月18日 フランクフルト国民議会開会
5月22日 ベルリンでプロイセン国民議会開会
6月14日 ベルリン民衆による武器庫襲撃事件
6月20日 カンプハウゼン辞職、アウエルスヴァルト=ハンゼマン内閣誕生
(6月23〜26日 パリ6月蜂起)
6月28日 フランクフルト国民議会によってライニンゲンを首相とする臨時中央政府が成立。翌29日、帝国摂政にヨハン大公(オーストリア)を選出
7月31日 ベルリンで正規軍と市民防衛軍が衝突
8月26日 デンマークと休戦協定
9月8日 プロイセン、アウエルスヴァルト=ハンゼマン内閣が退陣
9月16日 フランクフルト国民議会が休戦受諾を決議。中央政府はシュメアリングがひきいることに。
9月18日 休戦受諾に抗議する群衆がフランクフルト国民議会へ突入。シュメアリングが、マインツの連邦軍の出動を要請して、これを排除。労働者、下層市民を中心とした抗議はバリケード蜂起に発展するが、短時間で鎮圧される。
9月21日 プロイセン、プフゥール将軍が首相に。
9月25日 バーデンでの蜂起が敗北。ケルンでも蜂起するが挫折、戒厳令が敷かれる。民主主義協会や「新ライン新聞」も一時禁止に。
10月16日 労働者と市民軍が衝突、バリケード戦に。
10月26〜31日 第2回民主主義者会議が開かれる。
11月1日 プロイセン国王、叔父にあたるブランデンブルク(プロイセン西部地方軍総指揮官)を首相に指名
11月8日 ブランデンブルク内閣成立
11月9日 ブランデンブルク内閣が、プロイセン国民議会の休会とブランデンブルクへの移動を決定。国民議会は「受動的抵抗」を唱える。
11月12日 ベルリンに戒厳令。市民軍の解散、政治結社の禁止、出版・集会の制限がおこなわれる。国民議会は「納税拒否」を呼びかけるのみ。
12月5日 プロイセン国王、プロイセン国民議会を解散、欽定憲法を発布
大まかに言うと、3月にベルリンで革命が起こり、プロイセンではカンプハウゼン内閣が成立。5月には、フランクフルトにドイツ帝国全体の憲法制定議会として、革命の中心勢力たるべきフランクフルト国民議会が成立。またプロイセンでも、国民議会(憲法制定議会)が誕生する。
しかし、革命の進展(武器庫襲撃事件)にたいする対応をめぐってカンプハウゼン内閣は辞職、ハンゼマン内閣が誕生。この直後に、パリで6月事件が起こり、弾圧される。これによって、革命は全体として退潮期に入っていく。ところが、この時期になって、ようやく、フランクフルト国民議会に足場をおいた臨時中央政府が成立する(すでに時代遅れ)。しかも、この臨時中央政府は、帝国摂政に旧勢力を代表するオーストリアのヨハン大公を選ぶような始末。このあと、デンマーク戦争の事実上の敗北をうけて、事態は一挙に悪くしていく。
ここで注意すべき点は、ドイツが、革命のこの時期にデンマークに戦争をしかけていたこと。問題は、ドイツ・デンマーク国境付近のシュレスヴィヒ公国・ホルシュタイン公国の帰属。この両公国は、当時は、デンマークとの同君連合をかたちづくっていた(つまり、デンマーク国王が両公国の君主を兼ねていた)。しかし、ホルシュタイン公国は、もともとドイツ連邦を構成する国で、フランクフルト国民議会にも代表を送っていた。シュレスヴィヒ公国は、ドイツ連邦外の国であったが、ドイツ人が人口の多数を占めていた。そこで、これら両国を「回復」する、ということで、4月12日にドイツ連邦がデンマークに宣戦を布告する。
この対デンマーク戦争は、一方では、一種の革命戦争として左派ほど熱心に戦争をすすめようとした。そのため、戦争を優位にすすめながら、旧体制を代表する軍は、戦争に乗り気でなかった。他方で、軍事力の中心プロイセン軍だったので、戦争の勝利は反動的なプロイセンを強化することを意味したし、プロイセン中心のドイツ統一に批判的な勢力の警戒をまねいた。
その結果、ドイツ軍が優勢であったにもかかわらず、8月26日に、何の成果もないまま、休戦協定を締結。民衆はこれに抗議して、フランクフルト国民議会に突入する事件を起こすが、これにたいし、革命を代表すべき臨時中央政府は、旧体制の連邦軍の出動を要請して、民衆を排除。革命政権になるはずの臨時中央政府がみずから反革命軍に身をゆだねたかっこうに(これが9月の段階)。
このあとは、反革命の坂を転がり落ちることになる。9月21日、プフゥール将軍を首相とするプロイセン政府が登場。ベルリンでの労働者蜂起(10月)を弾圧したあとは、反動派のブランデンブルグが内閣を率い(11月)、ベルリンのプロイセン国民議会を休会にし、さらにベルリンに戒厳令を施行。12月に、プロイセン国王が欽定憲法を発布、同時に、プロイセン国民議会を解散し、これによって、ベルリン革命が完全に葬り去られたことになる。
以上が、1948年3月から12月までのあらまし。「新ライン新聞」のマルクス、エンゲルスの論説を読むときは、こういうドイツ革命の経過を頭にいれておいて、それぞれの時期にマルクスたちが何をどう論じたかを読み取ることが大事。「新ライン新聞」の論評から、ドイツ革命のあらすじをつかもうと思っても、たぶん失敗します。(^_^;)
ドイツ革命の経過をマルクスたちがどんなふうにとらえていたかは、まずは、エンゲルス『ドイツにおける革命と反革命』の、プロイセン関係の章(第6章「ベルリンの反乱」、第7章「フランクフルトの国民議会」、第13章「プロシア議会――ドイツ国民議会」、第15章「プロシアの勝利」)を読むことです。上の年表も、そうやってこしらえたものです。
なお、1848〜49年のヨーロッパ革命についていえば、<1>パリの2月革命、<2>ベルリンの3月革命、<3>ウィーンの3月革命、という3つの革命の「違い」を押さえておくことが大事だと思います。資本主義経済は、パリがもっとも発展していて、以下ドイツ、オーストリアの順で発展が遅れていた。だから、パリの革命は、プロレタリアートが蜂起して共和制をかちとったのであり、ブルジョアジーにとっては、革命からどうやってプロレタリアートを排除するかが最大の課題だった。これにたいして、オーストリアの革命は、もっぱら皇帝がウィーンから軍隊を引いたことによって勝利したもの(こんなに単純化すると叱られそうですが)。そして、そこにオーストリア帝国支配下の諸民族の革命が合流するのだけれど、対イタリア戦争の勝利をきっかけに軍隊と皇帝が勢力を盛り返す。ドイツの革命は、この中間。一応、ブルジョアジーは権力を握るべく、フランクフルト国民議会をつくり出すが、最初から腰砕けで、勝手に旧体制に身を委ねていってしまった。ブルジョアジーのもっとも「急進的」な部分でさえ、うだうだした空論に時間を費やし、その間に中間派(カンプハウゼン内閣)によって排除されてしまう。すると、今度は、さらに保守的な勢力によって中間派が追い出される。そして、その次には、革命に依拠した内閣ではなく、国王に依拠した内閣が登場し、最後は革命の議会(憲法制定議会=国民議会)そのものが解散されてしまう、という経過をたどる。
こういう3つの革命の性格の「違い」を無視して、いっしょくたにしてしまうと、混乱のもと。もちろん、これら3つの革命は相互に影響し合うのだけれど、とりあえず経過的なものは、まず3つの革命をハッキリ区別しておくことが大事です。『ドイツにおける革命と反革命』についても、プロイセン関係の章とウィーン関係の章を分けて、それぞれをまとめ読みする方が分かりやすいと思います。