東京歴史科学研究会というところが出している『人民の歴史学』第171号(2007年3月刊)に、日本中世史の木村茂光さんの「いま、歴史学に問われていること」と題した論文が載っています。もともとは、昨年6月に開かれた東京歴史科学研究会6月講座での講演ですが、なかなか意欲的というか、木村さんの問題意識がよくわかるおもしろい論文でした。
講演のなかで、木村氏は、自分たちを取り巻く現状の問題として、「ネオ・リアリズム論」に言及。「ネオ・リアリズム論」というのは、香山リカ氏が『<私>の愛国心』(ちくま新書)言っていることで、こんなふうに定義されている。
自分を取り巻く現状に疑問を抱くことなく追認し、自分の得になることだけに関心を持つ「非常に狭量にして刹那主義的な損得主義」、言い換えると「自分に関わりのある身近な問題への関心のみにもとづく実用主義」
で、これが歴史の問題とどうつながるかというと、さらに香山氏はこういっているらしい。
ある事象に到達するまでの歴史や経緯は、いま目の前で実際に展開されている1つのケースに比べてあまりにもリアリティがなく、何かを決定するときの抑止力や理由になることがもはやない。
木村氏は『歴史評論』671号での小林啓治氏の紹介から引用しているのですが、そこから木村氏は、歴史的な時間意識が弱い人々に向かって、歴史研究者はいったい何を語ればよいのか、と次のように問題を投げかけています。
いま確認しなければならないのは、私たちの周囲にネオ・リアリズムがはびこっているか否かではなく、私たちを取り巻いている社会にほんとうに私たちの歴史学を受け止めてくれる状況はあるのかどうか、ということです。もしそうでなければ、私たちはスタンスを変えなければならない。従来からの歴史意識があるだろうと思って、これまでと同じようなメッセージを発信しても誰も受け止めてくれない。事実と現状をしっかりと把握する必要があるだろうと思います。(『人民の歴史学』171号、4ページ)
そこから、歴史学の問題として、氏は、「時代像を語れない、描けない」という問題を指摘します。それは、歴史研究者自身が「長期的なスパンのなかで歴史象を捕らえる能力がいかに減退しているか」を示すものだというのです。
しかし、そういうなかで、歴史研究者のなかで新しい動きが生まれている、といいます。その例として、木村氏は、『歴史評論』誌上での「日本中世史研究の現代史」という特集(『歴史評論』662号)に注目。史学史をやるときの問題として、たとえば戸田芳実氏なら戸田芳実氏がなぜこんな論文を書いたかというのは「戸田芳実がある論文を書いたときに、彼を取り巻いていた社会的・学問的な条件はなにか、とか、当時の政治的課題は何であったか、というようなところまで立ち戻って問いかけることが必要」だというのです。――これが内在的要因。
他方、外在的要因として、現代的な問題にたいする取り組みを上げています。「歴史改ざん問題」「改憲問題」「女性史ないしジェンダー」「心のノート」などなど。あるいは、9・11以降の「戦争」の問題など、こうした問題に歴史がとりくむ必要がある、というわけです。たとえば、戦争の問題では、どこまでがテロで、どこからが戦争か。これまで、僕たちが考えてきた「戦争」概念とはまったく違う戦争が至るところで起こっている。それをふまえて、歴史のなかの「戦争」をとらえ直す努力が必要になるだろう、というのです。
まあ、こうやってまとめてしまうと、なんだかありふれた、問題意識だけの頭でっかちな論文のように見えてしまいますが、大事なのは、そういうことを歴史学、歴史研究の次元に引き下ろして、なんとかそこでものを考えようというエネルギーみたいなものが伝わってきて、面白く読みました。
で、その香山リカ氏の最新著『「悩み」の正体』(岩波新書)が出ていますが、それについては、次のエントリーで。(^_^;)