第30章の続きです。
前にも書いた通り、まず問題の提示。それに続いて、新書823ページ2行目からのパラグラフ。ここは、言ってみれば、第29章で明らかにされた架空資本の復習の部分。たとえば「諸債務の蓄積でさえ資本の蓄積」のように見える、というのは「信用制度のなかで起こる歪曲の完成」だ(823ページ)などなど。
824ページの段落でも、同じように、架空資本論の復習が続く。今度は、企業や鉄道、鉱山等々の所有権証書(たとえば株?)の場合。これらは、確かに「現実資本の権利証書」であるが、しかし、株を売ることはできても、現実の企業そのもの、鉄道や鉱山そのものを売ることはできない。つまり「これらの所有権証書は、現実資本によって獲得されるはずの剰余価値の一部にたいする法律上の請求権を与えるだけである」(824ページ)。しかし、それでもそれが株というような形で「紙製の複製」になると、現実資本とは別物の「存在しない資本の名目的な代表物」になる。つまり、これらの株は「利子生み資本」の1つの形態になる。なぜなら、それは、一定の収益(配当)を保障するだけでなく、売却して、株券に相当する貨幣を手に入れることができるから。だから、こうした株券は、それ自体商品として取り引きされる。そして、株券の価値額は、その大もとにある現実資本の価値運動とはまったく関係なく騰落する、云々。
825ページ、注(7)のあとの段落。興味深い指摘。株券の価格変動による得失、「鉄道王」の手の中への集中などは「ますます賭博の結果となる」。それだけでなく、その「賭博」こそが「資本所有を獲得する本来の方法」になる、とも書かれている。まるで現在のバブル、マネーゲームを批判しているような記述です。
次の825ページの最後の段落は、マルクスはちょいと横道にそれて(「急いで片づけるために、言及するにとどめるが」)、こうした貨幣資本の蓄積というのは、媒介者としての銀行業者の手における富の蓄積と解釈することもできる、と言っている。(しかし、その意味はよく分かりません)
そして、826ページ6行目からのパラグラフで、再び「当面の問題」に戻って、マルクスは、――
- 国債、株式などすべての有価証券は、マニードキャピタルの投資先になる。しかし、有価証券それ自体は、貸付資本そのものではない。
- 他方で、現実の再生産過程のなかで、産業資本家や商業資本家が信用制度によって必要としているのは貨幣である。だから、貨幣が手に入らなければ、有価証券を売り払うか、それを担保に入れてカネを借りるしかない。
- だから、ここでわれわれが取り扱わなければならないのは、こうしたマニードキャピタルの蓄積である。
これは、名目的な貨幣資本の蓄積ではなく、資本家が支払いのために貨幣を必要とする、そういう現実の貨幣の蓄積、どうやったら資本が必要とする巨額の貨幣が現実に準備されるのか、という意味? 「媒介者としての銀行業者たち」が「産業家と商人」に与える「貨幣貸し付け」が問題だと、マルクスは言っています。
※826ページ7行目「投下部面」という訳語は、分かりにくい言葉ですが、「部面」にあたる原語はSphäre。「領域、活動範囲、領分、勢力圏」などの意味。ここでは、「有価証券は、貸付可能資本の投下先になっている」という程度の訳でいいと思います。
827ページの縦線のあとから、商業信用についての検討が続く。銀行信用は、当面捨象される。
で、マルクスは、商業信用の場合、つまり支払手形の流通ということを考えた場合、AはBに手形で支払い、さらにBは受け取った手形に裏書きしてCに支払い、CはDに手形で支払い……とやっていったときは、最終的に必要になるのは差額の決済のための貨幣だけである。
そこで、「純然たる商業信用の循環」の場合には、2つのことに注意せよとマルクスは指摘している。
- 相互の債務の決済は、最終的には、延期されただけのW-Gに依存する。W-Gの還流が遅れた場合には、準備資本から支払わなければならず、準備資本がなければ決済できなくなる。
- 商業信用によって、現金支払いはなくならない。その理由は
- 賃金や租税を支払うのに、つねに現金が必要。
- 手形を受け取った資本家が、手形が満期になる前に、支払いをしなければならない場合がある。このときは、自分で現金を用意しなければならない。
たとえば第I部門のC内部での相互補填のような場合には手形は相互に決済されるが、相互にはいり込まないような場合には、最終的には貨幣で決済される必要が生じる。(以上、829ページまで)
830ページ1行目から始まるパラグラフ。商業信用は、次の2つによって制限されている――
- 還流が遅れた場合に支払いにあてられる準備資本の大きさ。
- 還流そのもの
手形が長期になればなるほど、準備資本は大きくなる。
生産力の発展につれて、<1>市場が拡大して、生産地から遠くなる、<2>それゆえ信用は長期化する。その結果、<3>投機的要素が大きくなる。
生産過程の発展が商業信用を拡大する一方で、商業信用が経済の拡張をもたらす。――資本主義経済と商業信用のあいだにはそういう相互関係がある。(830ページ)
830ページ最終行からのパラグラフ。引き続き、銀行信用は捨象されている。「この信用」というのは商業信用のこと。商業信用は、産業資本の大きさにしたがって増大する。産業資本が大きくなれば大きくなるほど、商業信用も大きくなる。
そして、商業信用の場合、「貸付資本と産業資本とは同じもの」である――と書かれているが、これはどういう意味だろう? 手形という形で与えられた商業信用(これが「貸付資本」?)は、その産業資本そのものに与えられた信用だと言うことか。
で、その次が重要な指摘。商業信用の場合、貸し付けられた資本というのは商品資本である。それは、最終的に個人消費にはいり込むか、あるいは不変資本の一部として生産資本のなかに入り込むか、どちらかである。したがって、商業信用において貸し付けられた資本というのは、つねに再生産過程の一定の局面にある資本のことであり、その資本は、売買によってある人の手から別の人の手に移るが、それは約定期日になって初めて支払われる、云々。
※831ページ3行目の「したがって」以下の部分の翻訳は、次のようにしたほうが分かりやすい。
したがって、ここで貸し付けられた資本として現われるものは、つねに、再生産過程の一定の局面にある資本であるが、しかし、その資本は、売買によってある人の手から他の人の手に移るし、のちに約定期日になってはじめて買手によって支払われる。
そのあと、相互に与え合う商業信用がぐるっと一巡りする場合の例が書かれていて、その場合は、「再生産過程のさまざまな局面」は商業信用によって「媒介されていて」、個々の業者は支払いをしないですませることができる、と。
ここでマルクスは、「2つの区分」ということを言っている。
- 綿花という一番最初の原料が最終的な商品になって、流通過程にゆだねられるまで、いろんな生産局面を経過していくケース。このとき、その移行はすべて商業信用によって媒介される。
- 他方、いったんそれが綿製品として完成されてしまって、最終的な消費にいたる途中で、いろいろな商人の手を経過するケース。(この場合、最終的には、現金で支払われる必要がある、ということか?)
商業信用で貸し付けられるのは、けっして遊休資本、使われずに遊んでいる資本ではない。所有者(商品資本の?)にとって、商品資本として、すなわち、まずもって貨幣に転換されなければならない資本、として目の前に存在している。だから商業信用が媒介するのは、商品の変態である。(832ページ) ※ここの現存は「目の前にある」という意味。
だから、再生産の循環の中に商業信用が多いというのは、遊休資本がたくさんあるということではなくて、再生産過程で大量の資本が活用されている、ということを表わしている。――これが商業信用と銀行信用の違いか?
商業信用の最大限度というのはどこにあるか。それは、生産資本がめいっぱいフル稼働させられる限度、に等しい。生産資本を目一杯フル稼働させる場合、消費の限界などというものは考慮されないのだが、しかしそのような場合には、消費の限界そのものが拡大される。なぜなら、生産資本がフル稼働しているような場合には、労働者の収入も資本家の収入も増えるので、消費も増加するから。また、生産的消費もめいっぱい増えているからである。(833ページ4行目まで)
こうやって読んでいくと、マルクスは、いろいろくちゃくちゃと書いているけれど、分かってみれば至極ごもっともなことを書いているだけということが分かります。(^_^;)
さて続き。833ページ、2つの訳注の後の部分。
商業信用は、再生産が円滑におこなわれる限り持続し、再生産の拡張とともに、商業信用も膨張する。
その次。「??が生じるやいなや」と訳されているが、ここは「??が生じると同時に」と読まないと意味が通じない。それからここの現存も「目の前に存在する」という意味で読むこと。
還流が遅れたり、供給過剰が発覚して価格の下落が生じて、停滞が生じるときには、生産資本の過剰も生じている。大量の商品資本が目の前に存在していても、それは売れない。大量の固定資本が目の前にあっても、それは遊休している。だから、商業信用も収縮する。なぜなら、<1>資本が遊休しているから。資本が再生産のどこかの局面で停滞しているから。<2>再生産過程が円滑にすすむという信用そのものがなくなっているから。<3>商業信用にたいする需要そのものが少なくなるから。なぜなら、大量の売れない商品をかかえ、資本家は手形を切ってまで原料を買い込む必要がなくなるから。(833ページ)
ということで、今夜はここまで。