『フランスにおける階級闘争』を読み終わりました。続いて『ブリュメール18日』を読もうと思いますが、その前に、『階級闘争』のノートの続き。内容未整理、ぐちゃぐちゃです。
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48年11月の第二共和制憲法の矛盾
「この憲法の総括的な矛盾は次の点にある。すなわち、憲法は、憲法がその奴隷状態を永久化するつもりの諸階級に、つまりプロレタリアート、農民、小ブルジョアに、普通選挙権をあたえて、政治的権力を所有させていることである。そしてまた、この憲法が、その旧来の社会的権力を認可している階級、つまりブルジョアジーからは、この社会的権力の政治的保証を奪っているのである」
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「1848年12月10日は農民反乱の日であった」。12月10日は、ルイ・フィリップが大統領に選出された日。
「12月10日は、現存の政府を倒した農民のクーデターであった」。
ここに「合唱隊」という言葉が出てくる。「農民は革命劇の主役となったからには、もう以前のように、合唱隊の、行動も意志もない役におしもどされはしなかった。」
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ボナパルトという「フランス中で最も単純な男が、もっとも多面的な意味をもつことになった」
大ブルジョアジーにとっては、「革命に対抗するため一時利用せざるをえなかったブルジョア分派」との公然たる決裂を意味した。
小ブルジョアジーとプロレタリアートは、カヴェニャックに反対する意味で、ボナパルトに投票した。
しかし、「両階級の中の最も進歩的な部分は、独自の候補者を立てた」。民主主義的小ブルジョアジーはルドリュ・ロランを、革命的プロレタリアートはラスパイユを。ラスパイユへの投票は「プロレタリアートが独立の政党として民主党から分離した最初の行動であった」(80ページ)。
バロー内閣の成立。1848年12月20日。バローは、フィリップ王政最後の大臣。つまり王統派の内閣。「バロー内閣は、こうしたすべてのものを含み、そのうえ正統王朝派とオルレアン派の連合まで含んでいた」(82?83ページ)。
正統王朝派のシャンガルニエ将軍が、パリ国民軍および遊動警備隊、常備軍第1師団の司令官に。(12月26日)
「共和制制定の時代」から「制定された共和制の時代」へ。(83ページ)
国民議会とボナパルト政権との闘争。(84ページ?)
その最初の手段として、塩税の減額。
「ルイ・ボナパルト対憲法制定議会、それは憲法上の一方の権力ともう一方の権力の対立、つまり執行権力と立法権力との対立ではなかった」。「それは、制定されたブルジョア共和制自身と共和制制定の道具との対立、前者と革命的ブルジョア一分派の野心的陰謀や思想的要求との対立であった。」(85?86ページ)
ここでいう「革命的ブルジョア一分派」って? 共和制ブルジョアジーのこと? それともボナパルト派のこと?
「1月29日に対立していたのは、同一の共和制の大統領と国民議会ではなく、形成中の共和制の国民議会と、すでに形成された共和制の大統領とであった。つまり共和制の成長過程のまったく異なった二時期を具体化した二つの権力であった」(86ページ)。
「憲法制定議会と大統領とのあいだの抗争において、議会は自己の根源である総選挙までさかのぼることはできなかった。というのは、むしろ議会の方が普通選挙権に訴えられていたのだから」(88ページ)。ということで、普通選挙権への注目。フランス第二共和制の場合は、普通選挙権によって、最後はボナパルト帝政の成立にまで後退してしまうのだが、あべこべのことはベネズエラで起こっている。
1849年3月21日。クラブ禁止法案が成立。
立法国民議会の選挙。投票日は5月13日。
秩序党。「それはオルレアン派と正統王朝派が連合して『一つの党』になったもの」。「ブルジョア階級は二大分派に分かれていてそれがかわるがわる、王政復古のもとでは大地主が、七月王政のもとでは金融貴族と産業ブルジョアジーが、支配権の独占を保ってきた」。一方はブルボン王朝、もう一方はオルレアン王朝。「名前のない共和制の国こそ、二分派が同等に支配しながら、そのおたがいの競争敵対関係をすてないままで、共通の階級利益を主張することのできる唯一の国であった」(99ページ)。――王統派が共和制を維持せざるをえなかった理由。
「『ナシオナル』のブルジョア共和主義者は、自分の階級の、経済的基礎に立脚する、いかなる大きな分派も代表していなかった。彼らは、各自の特殊な支配しか理解していなかったブルジョア二分派にたいして……ブルジョア階級の一般的支配を、つまり名前のない共和制の国を主張した」(100ページ)
「秩序党の各分派は、革命的プロレタリアートおよび……中間諸階級との対立に強いられて、……共同の支配、すなわちブルジョア支配の共和制的形態を主張せざるをえなかった。」(100ページ)
「ボナパルト派は、ブルジョア階級の真面目な一分派ではなくて、年をとった迷信的な廃兵と、年若い、無信仰の幸福追求者の寄せ集めであった」(101ページ)
国民議会選挙で秩序党が圧勝。
これによって、山岳党はプロレタリアートの社会主義的代弁者の方に押しやられた。(102ページ)
第3章 1849年6月13日の結果
1849年6月13日というのは、山岳党のデモンストレーションの日。
「山岳党の憲法宣言に応じて、6月13日には、小ブルジョアジーのいわゆる平和的デモンストレーションがおこなわれた」。しかし、このデモは、シャンガルニエの竜騎兵と猟騎兵によって、たちまちのうちに弾圧されてしまう。
「1848年6月22日が革命的プロレタリアートの反乱であったとすれば、1849年6月13日は民主主義的小ブルジョアジーの反乱であった。」(114ページ)
「1849年5月28日の立法議会開会の日から正常の存在となった立憲共和制の生涯の第一期は、6月13日で終わる」(114?115ページ)
8月12日、立法議会が休会に入る。「立法議会の休会をもって、立憲共和制の生涯の第2期、その勤王主義の生意気ざかりの時代が終わる」(119ページ)。
パリの戒厳状態が解除され、新聞なども復活。
憲法改正が、県会の評決によって否決される。
10月10日、立法議会の再開。「だが、なんという変わりようであろう!――その相貌はまったく一変していた。意外にも県会が憲法改正を否決したことは、国民議会を憲法の限界内に引き戻し、議会の寿命の限界をさししめした。」(120ページ)
11月1日、ボナパルト、バロー内閣を更迭。ドープール内閣が成立。「ドープール内閣は、ボナパルトの内閣」(123ページ)。
1849年11月1日から、「立憲共和制の生涯の第3期が始まる」。
第3期は1850年3月10日まで。1850年3月10日というのは、パリの補欠選挙で、ド・フィロット、ヴィダル、カルノーが当選した日。この3人は「完全に労働者の影響下にあった選挙委員会」が立てたもので、「3つの同盟した階級を代表していた」。「先頭の六月の反乱者ド・フィロットは革命的プロレタリアートを代表し、ならんで、空想的社会主義者ヴィダル、これは社会主義的小ブルジョアの代表者であり、最後の第三人目のカルノー、これは共和主義的ブルジョア党の代表者」(145ページ)。
「1850年3月10日の選挙! それは1848年6月の取り消しであった」(同前)。「それはまた1849年6月13日の取り消しであった」「それは12月10日の取り消しであった」(146ページ)。「1850年3月10日をもって、立憲共和制は……解体期に入る」(146ページ)。
ドープール内閣のもとで、フルドが大蔵大臣に任命される。「フルドとともに、政治上の主導権は金融貴族の手に戻った」(125ページ)。
フランス革命の戦略的展望?
「フランスの最大の工場主も彼らのイギリスの競争者にくらべると小ブルジョアジーにすぎない」(127ページ)。イギリスのような「工場主がなぜフランスにいないのか?」 イギリスでは工業が中心であるのにたいして、「フランスでは農業が優勢である」。「フランスの工業はフランスの生産を支配していない」(127ページ)。「だからフランスの工業家は、フランスのブルジョアジーを支配していない」(128ページ)。
だから、フランスでは、本来ブルジョアジーがやるべき課題を小ブルジョアジーが担い、小ブルジョアジーが担うべき課題を労働者が担うことになった。(128ページ)
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これは、佐々木潤之介先生の「人民と『人民』」の議論を彷彿とさせる。
では、労働者の任務は一体誰が解決するのか。「それは、どこでも国家の壁のうちでは、解決されない。フランス社会内部の階級戦は、諸国民の相対峙する世界戦争に転化する。その解決は、世界戦争によってプロレタリアートが、世界史上を支配している国民の先頭に、つまりイギリス国民の先頭にかりたてられる瞬間にはじめてはじまる。イギリスで終結するどころか、かえって組織的にはじまるところの、その革命はけっして息の短い革命ではない。」(128ページ)。