ネグリ『マルチチュード』のノートはついに下に突入。しかし、下に入るほど、ますます抜書きすべき箇所は減ってゆく…。
「現代のヴァンパイアは……今も社会のアウトサイダーであることに変わりはないが、その怪物性は人びとに、自分たちも皆怪物――高校から追い出された者たち、性的倒錯者、社会的逸脱者、病理を抱える家庭のサバイバー〔家庭内暴力のこと=引用者〕などなど――なのだと認識させる一助となっている。さらに重要なことは、これらのモンスターたちが新しいオルタナティブな情動や社会組織のネットワークを形成し始めていることだ」(20ページ)
「私たちは、このマルチチュードの〈肉〉のもつ怪物的な力を、いかにして新しい社会を形成するための力にするか、その手段を探らなくてはならない」(同前)
「いま必要なのは、政治体に関する近代のすべての著作に異論を唱え、マルチチュードの〈肉〉のもつ〈共〉性と特異性の新しい関係を理解するための、いわば反?物体論である」(20?21ページ)。
――ネグリのこの「反物体論」は、つまるところ、反唯物論のことだ。
「マルチチュードの概念は私たちを、自らをモンスターとしてしか理解できないような新しい世界へと否応なしに導き入れる。」(21ページ)
カーニヴァルとしての運動(44ページ)
「主権かアナーキーかという二者択一によって規定される近代的枠組みにとらわれているかぎり、マルチチュードの概念は理解不能である」(44ページ)
「私たちは、この旧いパラダイムのくびきから自由になり、主権的でない社会的組織化の様式を認識する必要がある。」(同前)。
「このパラダイムシフトをなし遂げるための手助けとして、ミハイル・バフチンが『ドストエフスキーの詩学』のなかで提起している『カーニヴァル』の概念を使って少々文学的回り道をしよう」(同前、これら3つの文は一続きの段落である)
「カーニヴァル性は途方もない革新、つまり現実性そのものを変容させうる革新をおこなう能力を作動させる。」(46?47ページ)
「グローバリゼーションの諸問題をめぐって生起したさまざまな抗議運動について、そのパフォーマンス的かつカーニヴァル的な性質を認めるのは容易なことだろう。たとえ凶暴なまでに戦闘的なデモであっても、そこにはきわめて演劇的な要素……が多分に含まれている。別の言い方をすれば、これらの抗議行動はストリートの祭りでもあり、そこでは抗議者たちの怒りとカーニヴァルの歓びとが共存しているのだ。」(48ページ)
↑この議論には、何の目新しさもないなぁ? すでに60年代、70年代に破綻した議論だと思うのだが。パフォーマンスでは革命は起こらない。
グローバルな闘争サイクル(49ページ)
「私たちはすでに、すべての搾取関係、グローバル・システムのすべての階層的分割、そして〈共〉に対するすべての管理と指令のもくろみが結果的に敵対性を生じさせることを見てきた。さらには〈共〉の生産が常に、資本によって収奪されずグローバルな政治体の党勢によっても捕獲されない剰余を伴うことも指摘した。
この剰余が、もっとも抽象的な哲学的レベルにおいては、敵対性が反乱へと転換する基盤となる」(50ページ)
「この〈共〉的な剰余こそが、グローバルな政治体に対抗しマルチチュードを擁護する闘いの最初の支えとなる」(同)
「反乱が〈共〉を動員するさい」の2つの側面――<1>個々の闘争の強度を高めること、<2>それを他のさまざまな闘争へと拡大すること。※これはごく当り前のこと。
第1の側面について。共通の敵対性、共通の富が、共通の行為や週間、行為遂行性へと転換される。ブラックパンサーのスタイル。言葉遣い、アフロヘア、服装、歩き方、身のこなし、身体的態度云々。
スタイル上の要素。〈共〉的な夢、〈共〉的な欲望、〈共〉的な生活様式、〈共〉的な潜勢力の表われにすぎない。
サパティスタ民族解放軍が、メキシコ革命の英雄サパタや農民革命の伝統と、先住民ツェルタル族の伝統とを融合して新しい〈共〉的な生を創造している。
〈共〉を動員することで〈共〉に新たな強度が与えられる。
↑しかしこれだけだと、暴力団だって同じことをやっている。
「さらに権力との直接対決が、良くも悪くもこの〈共〉の強度をさらに一層高いレベルへと引き上げる。催涙ガスの刺激臭が語感を鋭敏にし、路上での警察との衝突が怒りの血を前進にたぎらせ、もはやその強度を爆発寸前のところにまで高めるのだ。こうして極限まで強化された〈共〉はついに人間学的変容を引き起こし、闘いのなかから新しい人類=人間性が出現するのである。」(52ページ)
↑街頭で警察にぶん殴られれば、革命にめざめる!! という、30年も40年も前に流行った議論の焼き直し。
次に、「外延的な広がり」について。「運動の地理的拡大は伝統的にさまざまな闘争の織りなす国際的サイクルという形をとってきた」(同前)
「19世紀初頭、奴隷たちの反乱はカリブ海全体に広がり、19世紀末から20世紀初めにかけて産業労働者の反乱はヨーロッパ全域と北米に広がった。そして20世紀半ばにはゲリラ闘争と反植民地闘争がアジア、アフリカ、ラテンアメリカ各地で花開いた」(同前)
「そこでは共通の戦闘方法、共通の生活様式、よりよい世界を求める共通の欲望も地球規模で動員され、コミュニケートしあうのだ」(同前) ※はたしてコミュニケートし合っただろうか?
■闘争サイクルの積極的・創造的側面(59ページ)
「新しいグローバルな闘争」に「ただならぬ脅威を覚えている者たちのなかには、グローバル化への抗議運動の恐ろしさとテロリストたちの攻撃の恐ろしさを同一視する者が少なくなかった。どちらも支配的なグローバル権力構造を暴力的手段を用いて攻撃するという点で同じだというのである。デモのさいにマクドナルドのガラスを割る暴力と、3000人近い人間を一度に殺害する暴力とを同列にあつかうこと自体ばかげている」(59ページ)
↑と言って、マクドナルドのガラスを割る暴力を容認する議論もばかげている。
「暴力の問題については3-3で正面から取り上げる」(60ページ)
グローバルな闘争とテロとの違い。「新しいグローバルな闘争サイクルとは、〈共〉を開かれた分散型ネットワークの形で動員するものであり、そこに管理を行う中央は存在せず、すべての節点は自由に自己表現を行う」。それに対してテロは、「指令をだす中枢部があり、その組織は厳密な階層秩序をもった秘密組織である」(60ページ)
目標も正反対だ。テロリストは、「旧い地域的な社会集団と政治集団を復活させるために」テロを行うのに対して、「反グローバリゼーションの闘いはより自由で民主的なグローバル世界を創造するために」対抗しようとする。
こんな議論で、われわれの暴力はテロではないと主張する人がいて、それで納得する人がいる?
【補説2】組織化――批判に答える(61ページ?)
「『左翼の人びと』を形成していた社会体はことごとく消滅してしまったかに見える。/だが私たちの見るところ、もっとも深刻なのは、左翼とは何であり、何になりうるかについての概念の欠如である」(61ページ)
「今日新しい左翼について語るには、一方で、過去のイデオロギーとの物質的・概念的な断絶にもとづくポスト社会主義的・ポスト自由主義的プログラムという視点が必要である。すなわち、産業労働者運動のイデオロギー的伝統、その組織、それが手本とした生産管理モデルといったものと存在論的に決別しなければならない」(62ページ)
「ここでは民主主義が直接的な目的となる」。「民主主義は、自由と平等をともに一切の保留なくラディカルに押し進めるものでなければならない」。(62ページ)
「私たちはマルチチュードを、左翼を生き返らせ、改革し、あるいは政治的組織形態と政治的プロジェクトを具体的に提示しつつ左翼を再創出するという任務に貢献しうる概念だと考える」。しかし、それを「マルチチュードを形成せよ!」と提起しても仕方がない。「すでに進行している事態に名前を与え、現に存する社会的・政治的傾向を理解するための方法として提起する。そうした傾向に名前を与えることは政治理論の第1の任務」。(63ページ)
■マルチチュードはアナーキズムか、前衛主義か(65ページ)
「マルチチュードとはアナキストではないか!」という「こうした批判を浴びせるのはとりわけ政治組織を、党とそのヘゲモニーそして中央集権的指導体制という形でしかとらえられない人である。」(65ページ)
「マルチチュードの概念は、私たちの政治的な選択肢は中央集権的指導体制かアナーキズムかという二者択一に限られないという事実に立脚している」(65?66ページ)
「これとは反対の側から、マルチチュードの概念を前衛主義として批判する人びともいる」(66ページ)
「マルチチュードの概念は、産業労働者階級とその代表者および党がすべての進歩的政治を主導する立場を占めなければならないといまだに主張する立場と相いれないばかりか、何かひとつの労働者階級がそうした指導的立場を占めるという考え方を一切拒否する」(68ページ)
以上で、第2部終了。