マルクス『1857-58年草稿』を読む(その4)

『1857-58年草稿』で、「使用価値」はどこに登場するか。大月版『資本論草稿集』第2分冊の事項索引で調べてみた。

マルクスが『57-58年草稿』で、使用価値について詳しく論じたのは、第1分冊314?315ページ。「資本としての貨幣にかんする章」の「貨幣の資本への転化」の「2 流通から生じる交換価値は自己を流通の前提とする、また流通のなかで自己を保持するとともに、労働を介して自己を倍化させる」のなかの部分。

マルクスは、「単純な交換価値とその流通からの資本への移行は、次のように表現することもできる」として、「同一の交換価値、主体としての交換価値が、あるときは商品として、あるときは貨幣として自己を措定する」ところに資本の特徴があることを指摘している(I、313ページ下段-314ページ上段)。

そこから、一方には資本があり、他方には労働があって、両者は相互に疎遠な関係になっている、として、資本と労働の関係に論を進める。

 第1の前提は、一方に資本があり、他方には労働があって、両者は相互に自立的な姿態として相対し、したがってまた両者は相互にたいして疎遠だということである。資本に対立する労働は、他人の労働であり、労働に対立する資本は、他人の資本である。相互に対立しあう両極は、特有の異なり方をしている。単純な交換価値の最初の措定においては、労働は、生産物が労働者にとっての直接的な使用価値ではなく、直接的な生存手段ではないというように、規定されていた。このことは、ある交換価値をつくりだすうえでの、また交換一般の一般的条件であった。さもなければ、労働者はたんに1つの生産物――自分のための直接的な使用価値――をつくりだしただけで、交換価値はつくりだしはしなかったであろう。ところがこの交換価値は、1つの生産物のなかに物質化されており、そしてこの生産物はそのものとして他人のための使用価値をもち、またそのものとして他人の欲求の対象であった。〔ところが〕労働者が資本にたいして提出しなければならない使用価値、したがって彼が一般に他人のために提供しなければならない使用価値は、生産物のうちに物質化されてはおらず、およそ彼の外部に存在するものではなく、したがって現実に存在しているものではなく、ただ可能性としてのみ、彼の能力としてのみ存在しているにすぎない。それは、資本によって求められ、運動のなかにおかれてはじめて現実性となる。……この使用価値は、資本から運動を受けとるようになるやいなや、労働者の一定の生産的活動として存在する。それは、一定の目的に向けられた、それゆえに一定の形態で発現する労働者の生命力そのものである。(I、314ページ下段?315ページ上段)

そして続けて、

 資本と労働の関係においては、交換価値と使用価値とは相互に関係させられている。すなわちまず、一方(資本)は交換価値として他方に相対し*、そして他方(労働)は使用価値として資本に相対している。(I、315ページ下段)

そして、この*部分に対応して、次のような注をつける。

* {価値は、使用価値と交換価値の統一としてとらえられないだろうか? 即自かつ対自的には価値はそのようなものとして一般者であり、この一般者の特殊的形態である使用価値と交換価値とに相対するのではないだろうか? このことは経済学において重要性を持つだろうか? 使用価値は、単純な交換、ないしは純粋な交換においても前提されている。しかし、交換がもっぱら諸商品を双方の側で使用しあうためにだけ行なわれるようなこのばあいには、使用価値、すなわち商品の内容、商品の自然的特殊性そのものは、経済的形態規定としてはまったく存立しない。商品の形態規定は、むしろ交換価値である。この形態の外部にある内容はどうでもよいのであり、社会的関係としての関係の内容ではない。しかしこの内容は、諸欲求と生産との1つの体系のなかで、そのようなものとして展開されてゆくのではないだろうか? 使用価値そのものが、経済的形態をみずから規定するものとして、形態それ自体のなかに入り込まないであろうか? たとえば資本と労働との関係では? 労働のさまざまな形態では?――農業、工業など――地代では?――原料生産物の価格にたいする季節の影響では? 等。もし交換価値そのものだけが経済において役割を演じるとすれば、たとえば原料などとしての資本のばあいのように、純粋に使用価値を指しているような諸要素が、どのようにして後からはいり込むことができるのだろうか。……価値について研究するさいには、厳密に研究されるべきであって、リカードウがしたように、これをまったく捨象してしまったり、間抜けなセーのように「効用」という言葉をただ前提にするだけで偉ぶったりしてはならない。個々の章篇を展開するにあたって、なによりも示されるであろうし、また示されねばならないことは、どの程度まで、使用価値が、たんに前提された素材としての経済学とその形態諸規定との外にとどまるばかりでなく、またどの程度までそのなかにはいり込むか、ということである。プルードンの愚論については『貧困』を見よ。次のことはたしかである。すなわち、交換においては、われわれは(流通において)商品――使用価値――を価格として持っているということ、商品がその価格を外しても商品であり、欲求の対象であるのは、自明のことだということである。この2つの規定は、特殊的な使用[価値]が商品の自然的制限として現われ、したがって貨幣を、すなわちその商品の交換価値を、同時に貨幣の姿で商品そのものの外にある存在として措定する――ただし形態的にのみ――かぎりでのほかは、けっして相互に関係し合うことはない。貨幣それ自体が商品であり、使用価値を実態として持っているのである。}(I、316ページ下段?318ページ上段)

価値を交換価値としようか値との統一といてとらえようというマルクスの最初の着想は間違っていた訳だが、しかし、この{}のなかで、はじめて使用価値と価値(交換価値)との関係が論じられた、といえる。社会的関係としては、交換価値が経済学の対象となるが、だからといって使用価値が経済学の対象から排除されるという考え方を批判。そして、交換価値が商品の形態規定であるのにたいして、使用価値は、商品の自然的制限、商品の実体であるとして、その範囲において経済学の範疇のなかに入ってくるという考えに至っていることが分かる。

しかし、ここが「使用価値」の初出ではない。事項索引では、第1分冊の76ページ、82ページ、85ページ(事項索引のページ数はMEGAのページ数)が上げられているが、該当箇所を見ても「使用価値」という言葉は登場しない。代わりに、商品の「自然的諸性質」「自然的存在」などの言葉が使われている。

価値としては、商品は等価物である。等価物としては、商品はすべての自然的諸性質は、商品において消失している。……価値としての商品の性質は、商品の自然的存在とは異なった存在をとることができるだけでなく、また同時にとらなければならないのである。

商品の取引可能性は、生産物の自然的諸性質に依存し、貨幣の引換可能性は、象徴化された交換価値としての貨幣の存在と一致する。(I、122ページ下段、原著82ページ)

商品のこうした統一性は、その自然的差異性とは区別されており…(I、127ページ上段、原著85ページ)

では、言葉として「使用価値」が初めて登場するのは、どこか? 事項索引に従うと、初出はここ↓になる。

本源的に貨幣として役立つであろう商品は、すなわち、欲求と消費の対象としてではなく、ふたたびそれを他の諸商品と交換でひきわたすために、交換で受けとられるであろう商品は――もっとも多く欲求の対象として交換され、通用し、したがってふたたび他の特殊的な諸商品と交換されうることがもっとも確実であり、したがってあたえられた社会的組織においてなにより第1に富を代表し、もっとも一般的な需要と供給との対象であり、、特殊的な使用価値を持っている、そういった商品である。塩、毛皮、家畜、奴隷がそれであった。そのような商品は、実際上、商品としてのそれの特殊的な姿態において、他の諸商品よりも多く交換価値としての自分自身に……照応している。商品の特殊的な効用――特殊的な消費対象(毛皮)としてであれ、直接的な生産用具(奴隷)としてであれ――が、このばあいにはその商品に貨幣の烙印をおしている。ところが発展に進むにしたがって、ちょうどこの反対のことが起こってくるであろう。すなわち消費の直接的対象とか、または生産の用具であることのもっとも少ない商品が、まさしく、交換そのものの必要に役立つという側面をもっともよく代表するようになるであろう。第1のばあいには、商品はその特殊的な使用価値のゆえに貨幣になる。第2のばあいには、商品は、それが貨幣として役立つということから、その特殊的な使用価値を受けとる。永続性、不変性、分割可能性、再合成の可能性、大きな交換価値を小さな容積のなかに含んでいるので相対的に運搬可能性、これらすべてのことがあるために、後の方の段階においては貴金属が特別に貨幣に適したものとされるのである。(I、150ページ下段?151ページ上段、原著97?98ページ)

ただし、ここでは、一般的な商品の使用価値ではなく、貨幣となりうべき商品の特殊な使用価値の話である。

I、168ページ下段(原著109ページ)。ここは、金にかんする引用に続けての部分。

価値の最初の形態は使用価値であり、平日的なものであり、これは個人の自然にたいする関係を表わしている。第2の形態は、使用価値とならぶ交換価値であり、個人の他人の諸使用価値にたいする命令、個人の社会的関連である――すなわち、それ自体最初は、やはり直接的必要を超えるところの日曜日的〔安息日的〕使用の価値である。(I、168ページ下段)

次は、I、205ページ上段。

 流通のために本質的なこととして大切なのは、交換が1つの過程として、つまり、もろもろの購買と販売との1つの流動的な全体として現われることである。流通の第1の前提は、諸商品そのものの流通、たえず多くの方面から出発する諸商品の流通である。商品流通の条件は、諸商品が交換価値として生産されるということ、直接的な諸使用価値としてではなく、交換価値によって媒介された諸使用価値として生産されるということである。外化と譲渡をつうじての、またそれらを媒介としての領有が、根本前提である。(I、205ページ上段、原著126ページ)

さらに、I、211ページ上段、原著129ページ。

 貨幣とともに絶対的な分業の可能性があたえられる、というのは、労働そのものの特定の生産物からの独立、つまり、労働の生産物がその労働にとって直接的な使用価値であることからの独立が、あたえられるからである。

事項索引では、そのあとI、141ページが上がっているが、ここは「商品の自然的特殊性」(I、232ページ下段)と書かれていて、「使用価値」という言葉は登場しない。

次。I、241ページ上段(原著145ページ)。

特殊的商品においては、商品が価格であるかぎりでは、富は、まだ実現されていない、観念的形態として措定されているにすぎない。商品が一定の使用価値をもっているかぎりでは、商品は使用価値のまったく個別化された一側面を実現しているにすぎない。反対に、貨幣においては、価格は実現されており、貨幣の実体は、それが富の特殊的な存在諸様式を抽象されているという点からみても、それが富の総体性であるという点からみても、富そのものである。交換価値は貨幣の実体をなしており、交換価値は富である。

I、250ページ上段(原著150ページ)

 流通手段の形態において措定された貨幣は、鋳貨である。鋳貨としては、貨幣はその使用価値それ自体をすでに失ってしまっている。つまり貨幣の使用価値は、流通手段としての貨幣の規定と一致している。

何でこんなことを調べているかというと、ある勉強会で、“マルクスは、『資本論』でいろいろな経済学的カテゴリーを誰が最初に使ったかということを示す注をつけているが、「使用価値」については、そうした注がない。しかし、ではマルクスが考え出した言葉かというと、そうではないらしい”という問題提起があったからです。マルクスがどこから「使用価値」という考え方を引っ張り出してきたかというのは、割と謎なのです。

この項、まだまだ続く…。

【追記】

『哲学の貧困』の第1章、第1節の見出しが「使用価値と交換価値との対立」になっている。これは、フランス語でも、Opposition de la valeur d’utilité et de la valeur d’échangeとなっている。そして、プルードンからの引用の中に、「使用価値」という言葉が出てくる。

『マルエン全集』事項索引では、これがいちばん最初の使用例になるようだ。それ以前に、全集第1巻、原著ページ507/508ページで使われていると、索引にはでてくるが、これはエンゲルス「国民経済学批判大綱」だが、そこには「使用価値」という言葉は出てこず、もっぱら「効用」という言葉が使われている。

【追記の追記】
『資本論』で、はじめて「使用価値」という言葉が出てくるところ(第1章第1節、ヴェルケ版50ページ、新日本上製版60ページ)では、注(注4)をつけて、そこで次のように書いている。

 (4)「どんな物の自然的値打ちも、人間生活の必要を満たしたり便宜に役立ったりするその適性にある」(ジョン・ロック『利子・貨幣論』、邦訳、64ページ)。17世紀においても、イギリスの著述家たちのあいだで、使用価値としてWorthが、交換価値としてValueが用いられるのをしばしば見受けるが、これは、直接的な物をゲルマン語で、反省された物をロマンス語で表現することを好む国語〔当然、ドイツ人のイギリス人の?――引用者〕の精神にまったく一致している。

↑この「国語」というのは、ドイツ語ではSprach、英語ではlanguage、フランス語はlangue。つまり、英語だドイツ語だと言う限定がありません。はたして、ドイツ語の精神に一致しているのか、英語の精神に一致しているのか? さて、どっち?

ちなみに、ドイツ語については、ヘーゲルが「反省」という概念について、抽象的なことを表現する場合には、ゲルマン語由来のNachdenken(後で考える)よりもロマンス語由来のReflexionという言葉を使う方が適している、と書いています。英語にも、もともと英語に由来する言葉と、途中でフランス語からはいり込んできた言葉がありますが、ドイツ語と同じような習慣があるんでしょうか?

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