利根川東遷は後から作られた伝説だった?!

小出博著『利根川と淀川』(中公新書)

“利根川や関東平野がどんなふうにでき上がったのか知りたいので、なにかいい本ない?” といって元地質屋さんのM川さんに教えてもらった本です。地質年代的なものを探していたのですが、読んでみたら、古代以来の利根川、淀川の変遷や流域地域の開発の歴史が書かれていました。

しかし、その中味はめちゃくちゃおもしろかった!! 僕は、いちおう日本史が専攻ですが、この本は、土木技術的、地質・地形学的な面から日本の古代、中世、近世の開発史を明らかにしていて、とても勉強になりました。

たとえば、古代?中世には、利根川流域の開発や河川工事はほとんどやられていませんでしたが、淀川流域では、古代から、すでに大和川の付け替え工事 ((もともと大和川は、生駒山地の西側に流れ出たところで、北上して淀川に流れ込んでいた。そのため、淀川が増水すると大和川に逆流し、しばしば洪水が起こった。))が構想されたほど開発が進んでいました(ただし、実際に付け替え工事が行われたのは江戸時代)。古代における畿内と東国の生産力の格差が、こういう形で現われていたということがよく分かりました。

また、古代では、条里制にしたがった大規模な開発がおこなわれていたが、中世になると、そうした大規模な開発はおこなわれなくなり、とくに畿内では、生産力の向上も、荒地の開拓による耕地面積の拡大よりも、二毛作の拡大など、土地集約的な方向に向かったとか、中世になって、洪水などによる川沿いの農地の欠損がおこるようになったのは、そんなところまで開発が進んだことの反映だとか、いろいろおもしろい話が満載でした。

大河川については、治水よりも利水が先行する、というのも、初めて知りました。だから、昔の河川工事というのは、洪水防止が目的ではなく、低水対策、渇水時にも船の航行ができるように水量を確保したり、河口に砂がたまったりしないようにする工事が中心だったそうです。治水が主になるのは、鉄道が広がって、河川運輸が主役の座から外れ始めた明治後半になってからというのは、ほんと意外でした。

利根川や関東平野がどうやってできたか、という最初の疑問にも、いろいろ答えてくれる中味でした。関西出身者としては、荒川、元荒川、江戸川、利根川、古利根川、中川などなど、東京の川は、ほんとによー分かりまへん。(^_^;)
しかし、この本では、それが古代から中世、近世初頭というふうにどうなっていったか説明されているので、少しだけ親しみが湧いてきました。本書では、いわゆる利根川東遷事業なるものについても、実はそんな統一的な構想などなく、あとになってからつくられた“伝説”であったこと、実際には、むしろ江戸川の低水対策を狙った工事だった、とされています。埼玉の見沼など低湿地帯がどんなふうに開発されたかというのも、おもしろかったです。

淀川についても、中之島をはさんで堂島川と土佐堀川に分かれたあたりから、これまでよー分かってまへんでした。この本で、ようやく、東西の横堀川や安治川ができた経過も分かり、少し大阪に詳しくなった感じです。←関西人といっても、大阪人じゃないから…。淀川水系にも輪中があった、というのも初めて知りました。

とてもおもしろい本を紹介していただき、M川さん、ありがとうございました。m(_’_)m

【書誌情報】
著者:小出 博(こいで・はく)/書名:利根川と淀川――東日本・西日本の歴史的展開/出版社:中央公論社/中公新書384/刊行年:1975年1月/定価:380円/絶版

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