日本共産党の提案した「戦争法(安保法制)を廃止する国民連合政府」をめぐって、与党、野党、マスコミを交えて議論かまびすしいが、憲法学者の小林節氏が、「日本海新聞」のコラム「一刀両断」で、「政策が違うのに連合政権は…」という議論に、文字通り一刀両断で答えておられる。
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日本共産党の提案した「戦争法(安保法制)を廃止する国民連合政府」をめぐって、与党、野党、マスコミを交えて議論かまびすしいが、憲法学者の小林節氏が、「日本海新聞」のコラム「一刀両断」で、「政策が違うのに連合政権は…」という議論に、文字通り一刀両断で答えておられる。
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米ニューヨーク・タイムズ紙が、8日付で、安倍首相が、憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使を容認しようとしていることを「憲法9条をないがしろにするものだ」と厳しく批判する社説を掲載した。
社説は、そうしたやり方は「は民主主義的プロセスを完全に掘り崩す」とも述べ、「安倍首相は、憲法の主たる役割が政府権力をチェックすることにあるということを知るべきだ」「そうでなければ、わざわざ憲法を定める理由がまったくない」と厳しく批判している。
Japan’s Pacifist Constitution – NYTimes.com
ということで、いつものようにヘッポコ訳をしてみた。間違いがあったら、ぜひともこっそり教えていただきたい。
社説:日本の平和憲法
[ニューヨーク・タイムズ電子版、2014年5月8日]
日本の安倍晋三首相は、日本軍が領海の外で同盟国と並んで戦えるように日本軍の役割を拡張しようとしている。彼は、より大きくなったグローバルな安全保障上の責任を、彼が予防的平和主義と呼んでいるものによって果たそうとしている。
しかし、彼は大きな障害に直面している。今年ノーベル平和賞にノミネートされた憲法9条である。それは、日本国民は「国権の発動たる戦争を永久に放棄する」と定めている。戦力をもつことは憲法改正を必要とし、それは衆参両院で3分の2の賛成とそれに続く国民投票という、非常に高い手続きを意味するが、安倍首相はそれを変えようとしている。その代わりに安倍首相は、政府が憲法を再解釈することによって9条をないがしろにしようとしている。そのような行為は、民主主義的プロセスを完全に掘り崩すだろう。
安倍首相の最高の政治目標は、第2次大戦後米軍によって書かれ、日本人に押しつけられた憲法を置き換えることだ。その憲法は、67年間、一言も書き換えられなかった。安倍首相は、憲法が日本の主権に厳重な束縛を課しており、時代遅れになっていると強く感じている。それでも、批判者たちが指摘するように、安倍首相は、憲法の主たる役割が政府権力をチェックすることにあるということを知るべきだろう。そうでなければ、わざわざ憲法を定める理由がまったくないのだ。
現状のままなら、少数の政府連立与党で、深い平和志向をもつ公明党だけが、安倍首相の野望を阻止することができるだろう。公明党なしでは、安倍政権は参議院での多数を失うから、安倍首相は、憲法再解釈が公明党に受け入れられるように最大限の努力をしている。他の8つの野党は立場は入り乱れている。安倍首相は力をもっており、日本は正真正銘、民主主義が試されている。
「毎日新聞」3月1日付朝刊の「メディア時評」欄で、京都大学の王寺賢太准教授が「都知事選『宇都宮氏次点』の意味は」という論評を書かれている。
メディア各紙は、都知事選の当選者が決まったあとも、舛添→細川→宇都宮の各候補者の順で報道していた。宇都宮氏が細川氏に勝つはずがないというメディアの「決めつけ」、そして「候補者一本化」をあおったメディアの姿勢がそのまま紙面作りに出てしまったわけだ。
しかし、そもそも宇都宮さんが95万票を獲得して、次点になったことにはどういう意味があるのか。ただ、両首相に勝って溜飲を下げたなどというせこい話でないことは明らかだが、これまで論壇やメディアでそのことを論じたものはほとんどなかった。
しかし王寺氏は、それを正面から取り上げ、次のような点を指摘されている。
英フィナンシャル・タイムズ紙が「国家主義的傾向強める安倍首相」という社説を掲載した。日本経済新聞電子版にその翻訳が掲載されている。
[FT]国家主義的傾向強める安倍首相(社説) :日本経済新聞電子版
日本の「集団的自衛権」行使賛成、憲法9条改正賛成の立場からのものではあるが、「国民の多くが受け身で、意見を主張しない日本では、世論を操作しようとする安倍氏の政策は危険だ」「同氏〔安倍首相〕の政策は日本自身を脅かしかねない」「中国の脅威が口実にされ、日本の開かれた社会がたたかれればこれ以上の悲劇はない」など厳しい批判だ。
沖縄・名護市長選挙で、辺野古への基地移設反対を掲げた稲嶺ススム市長が圧勝した。
安倍首相は、沖縄県選出の自民党国会議員に無理やり「県外移設」公約を撤回させ、さらに仲井真知事に札束で埋立申請の承認を約束させたが、それがかえって地元の反発をまねいたかっこうだ。メディアには、これで普天間基地問題の解決がさらに遅れるといった論調が見られるが、日本政府と米軍こそが、辺野古移設ではない普天間基地問題の解決策を示すように問われている。そのことを、本土にいる僕たちは決して忘れてはならない。それが、在日米軍基地の75%を沖縄に押しつけてきた僕たちの義務でもある。
沖縄は、この市長選の結果をどのような思いで受けとめているか。地元紙の社説を見てほしい。まず、開票翌日の「沖縄タイムス」の社説は「敗れたのは国と知事だ」とズバリ指摘。選挙結果を「国の露骨な圧力をはね返して勝ち取った歴史的な大勝」と評価する。「琉球新報」も、「辺野古移設を拒む明快な市民の審判」「地域の未来は自分たちで決めるという『自己決定権』を示した歴史的意思表明」と意義づける。
社説[稲嶺氏が再選]敗れたのは国と知事だ – 沖縄タイムス
稲嶺氏再選 誇り高い歴史的審判 日米は辺野古を断念せよ – 琉球新報
にもかかわらず、辺野古移設を計画通りすすめようとする安倍内閣にたいして、地元紙はさらに社説を連打する。「琉球新報」は「日米両政府は民主主義国家を標榜(ひょうぼう)するのなら、名護市民、沖縄県民の民意に沿い辺野古移設を断念すべきだ」と訴え、「沖縄タイムス」も「自由民主主義(リベラル・デモクラシー)を標榜する社会で新たな軍事基地を建設する場合の最低限の条件は『地元の同意』である。安倍晋三首相は、最低限の条件さえ踏みにじるつもりなのか」と糾し、さらに仲井真知事の態度にも疑問をむけ、「政府と住民の対立の激化を放置するのであれば、もはや知事は県民を代表しているとはいえない」と指摘する。「名護市民」を「孤立させるな」の訴えは非常に厳しい。
市長選政府反応 民意無視は許されない – 琉球新報
社説[強硬安倍政権]名護市民 孤立させるな – 沖縄タイムス
ところが、これと好対照な社説をかかげた新聞がある。それは「読売新聞」だ。
麻生発言にかんして、日本経済新聞8月5日付が、英経済紙フィナンシャル・タイムズの論評を翻訳転載した。
FT紙の論評は、麻生発言は「与党自民党を牛耳る文化的保守派が修正主義の夢を捨てていないことを思い出させる」と指摘するとともに、自民党の憲法改正案については「新憲法を得た方が日本のためになるかどうかは議論の余地がある」とも述べて批判をにじませている。
さらに面白いのは、「矛盾しているようだが、現行憲法の最大の受益者に数えられるのは自民党自身かもしれない」と述べていること。すなわち、「憲法が多くのことをするのを許さないため」に、自民党は、「大半の有権者より右寄りの思想を持つ」にもかかわらず、「国民は自民党が軍隊(自衛隊)や自分たちの権利についてどんなことをするか心配せずに同党に票を投じることができた」と述べて、「新憲法を提言すること」は「日本と自民党にとっては、よりリスクが高いものかもしれない」と皮肉っている。
北朝鮮情勢に関連して、本日の「日本経済新聞」に、英フィナンシャル・タイムズ紙の興味深い社説が転載されています。
曰く、「ならず者国家と関係を持つことが不快であっても、平和への唯一の望みは意思疎通の場を維持することにある」と。
ひるがえって日本のことを考えてみれば、日本政府は意思疎通の場そのものを持っていないわけで、これでは平和への望みが最初から存在しないも同然です。
15日の民主党と自民・公明党の「合意」をうけて、各紙がいっせいに社説を掲げたが、「朝日」「毎日」「読売」が判で押したように「決められない政治」からの脱却だといって、礼賛している。
全国紙はいつから大政翼賛会になったのか?
社説:修正協議で3党合意―政治を進める転機に:朝日新聞デジタル
社説:民自公修正合意 「決める政治」を評価する:毎日新聞
社説:一体改革協議 修正合意へもう一段歩み寄れ : 読売新聞
イギリスのガーディアン紙のサイトに、2月2日付で、こんな論評が掲載されておりました。題して、「カール・マルクスは銀行家のためにセラピーを提供などしない」。
経済危機で誰もがマルクスを取り上げるようになったが、マルクスは決して慈悲深い救世主ではないし、彼が書いたものの実践的な意味はあまり知られてはいない、というお話です。
Karl Marx is never going to provide therapy for bankers | Jason Barker | guardian.co.uk
ということで、にわか仕込みのヘッポコ訳です。(一部脱文を追加。さらに全体に手を入れしました。2/8午前)
愛媛新聞が24日付の社説で、堂々と真正面から「民意を削る愚策は許されない」と指摘。
いわく、「そもそも定数削減は増税の前提としてふさわしいのかどうかを置き去りにしてはなるまい」。さらに、「定数削減は主権者である国民の代表機関が小さくなることを意味する。代表が少ないほど為政者は楽になる。政治家が身を削るどころか、民意を削る危うさが潜んでいる」とズバリ批判しています。
本日の日本経済新聞「大機小機」は「土地保有株式会社のススメ」。
「思考実験」と断りつつ、「地区や町などの単位で、土地所有者が土地を現物出資して株式会社を設立する」という「土地保有会社構想」を取り上げている。株式会社が個々に土地を買い取るのではなく、町単位で、すべての土地所有者が土地を出し合って、丸ごと株式会社所有にするというところがミソ。
はたしてそんなに上手くいくのか、などという議論は不要。あくまで「思考実験」なのだから。それでも、本来は公共財であるはずの土地を共有財産化することによって、公共財本来のあるべき姿に近づけようという発想はよく分かる。
沖縄・普天間米軍基地の移設問題で、沖縄防衛局の無理やり提出した環境影響評価(アセスメント)の評価書。内容が明らかになるにつれて、そのデタラメぶりに、さらに怒りの声が高まっている。
沖縄の地元2紙は「結論ありき」(沖縄タイムス)、「アセスの名に値しない」(琉球新報)ときわめて厳しい。
社説:[「普天間」評価書]「結論ありき」の内容だ:沖縄タイムス
社悦:評価書全文 アセスの名に値しない 非科学的記述の連続だ:琉球新報
「日本経済新聞」の元旦社説は、清沢洌まで引っ張り出して、国家戦略による「資本主義の進化」を要求している。それに比べれば、同じ「日経」でも、大晦日のコラム「大機小機」の方がよほどまともなことを言っている。曰く――
しかし、コラム子が言うように、はたしてこれが「資本主義の自浄能力」によって達成されるのだろうか? そうでなければ、社会の力でルールを確立しなければならない。
本日の「日本経済新聞」のコラム「大機小機」が、「左翼はどこへ行った」という題して、「資本主義がこれほど欠陥をさらしているのに、その批判者の左翼、すなわち社会主義勢力は、なぜか振るわない」と論じている。
ソ連の崩壊で社会主義勢力が困難を強いられていることは事実だが、「大機小機」のようにソ連を社会主義の代表扱いする見地からは、社会主義の展望が見えてこない。
しかし、このコラムで大事なことは、いまや「日本経済新聞」でさえ左翼を必要としているという事実だ。それだけ、資本主義が次々と欠陥をさらけだしている、ということでもある。
本日の「日本経済新聞」の「大機小機」。立場はまるきり違うけれど、これを僕なりにいえば、
という3点を指摘したものだと思うのだが、どうだろうか。
今日の「朝日新聞」オピニオン欄に、共産党の志位和夫委員長が登場して、東大教授の宇野重規さん(政治思想史)のインタビューに答えています。
質問はヨーロッパの財政危機から「なぜ、いま、マルクスなのか」、中国をどうみるか、政権交代、政党のあり方、社会主義・共産主義の「定義」まで多岐にわたっています。志位さんがなんて答えたのかというのもおもしろいのですが、僕は、ホストの宇野教授の質問や発言も非常に興味深く読みました。
これもすでにTwitterでつぶやいたネタですが、昨日の「産経新聞」の「日曜経済講座」に、勤労者世帯の所得がこの10余年で10%以上も減っているというグラフが載っていました。
勤労者世帯の所得がこの10年余でどんなに減少したかというグラフ。まずもって、「産経新聞」がこんなグラフを載せたのかと驚きましたが、あらためてこんなに勤労者世帯の所得が減ったのでは、そりゃ日本の景気は上向かんわな〜 と思いました。「産経新聞」のような保守派論壇から見ても、勤労者世帯の所得や可処分所得が減り続けているのはけしからん!ということなのでしょう。
とはいえ、論説はデフレ脱却のために「量的緩和」に踏み切れというのが落としどころになっていて、デフレの原因をまったく突けていないのは、やっぱり「産経新聞」というところでしょうか。
ニューヨークの「ウォール街を占拠せよ」運動について、「日本経済新聞」が昨日の夕刊、今朝の朝刊と続けて好意的?な論評を掲載しています。書き手は、どちらもニューヨークの西村博之記者。
なるほどと思ったのは、「過剰な収益追求が金融危機を招き、そのツケを国民に負わせた」との主張がアメリカ国内でも受けとめられているということ。これまで利益を独占してきた少数の銀行家・投資家が、ひとたび「金融危機」が広がると、社会の負担で損失を回避しようとすることにたいする批判だ。
資本主義の立場に立っていても、行き過ぎた金融グローバリズムがもたらす矛盾に目を向ける――当たり前のことなのですが、日本では、そういった論調があまりにもなさ過ぎです。
本日(10/16)の日本経済新聞の社説を、お読みになりましたか? 題して「個人消費は工夫でもっと掘り起こせる」。
曰く、社会が成熟すると「国内の個人消費はもうあまり伸びない」という見方は「本当だろうか」。「今月発表された流通業界の決算や、震災後の消費者行動は、国内市場に開拓の余地が大きいことを示している。成長の機会を逃すべきではない」云々。
先日の古典教室で、講師の不破さんは、資本にとっては、労働者は、労働力の売り手としてはできるだけ賃金を安くしておきたいが、買い手としてはできるだけたくさん商品を買ってもらいたい――この生産と消費の矛盾は、資本主義にとって避けがたい体制的矛盾だということを、マルクス『資本論』の文章を引いて紹介していましたが、この社説は、まさにそのことを表わしているのではないでしょうか。