それは「杼製造機」か?

これまた、『資本論』の本筋の理解には、まったく影響しない、非常に細かな問題ですが、『資本論』第1部第13章「機械と大工業」の原注91(新日本出版社、上製版645ページ、新書版第3分冊648ページ)に、1850年頃から登場した「機械的道具の製作のための機械」の例として、次の5つの機械が列挙されています ((この部分は、新書版から上製版になるときに、一部訳語が変更されていますが、それは問題ではありません。))。

…たとえば、(1)自動ボビン製造機、(2)梳綿用針布製造機、(3)杼製造機、(4)(5)ミュール紡錘およびスロッスル紡錘の鍛造機… 〔(1)(2)などは引用者による補足。以下同じ〕

で、問題はこの(3)「杼製造機」。「」(ひ)とは、機織り機で、上下に動く経糸のあいだを、往復して緯糸を通す装置のことです。人が足で踏む機織り機で、パッタンパッタンやるたびに、シュッシュッと左右に緯糸を通すアレです。

ちなみに、織機の構造については、こちらを参照のこと。→織機 – Wikipedia

原文は“Maschinen zum Machen der Weberlitzen”ですが、実は困ったことに、いくら独和辞典をひいても Litze に「杼」という意味がまったく出てこないのです。

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資本論を手に入れました(^_^)v

マルクス没後100年復刻版『資本論』

やった〜〜〜 マルクス『資本論』の、各巻とも初版セットを手に入れました。ヽ(^o^)丿

といっても、1983年にマルクス没後100年で復刻されたリプリント版(Keip Verlag Frankfurt/Mein)ですが。海外の古書サイトで見つけて注文してから、約20日。ようやく届きました。

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マルクスと有料道路

本城靖久『馬車の文化史』(講談社現代新書)

マルクスの『1857-58年草稿』を読んでいると、有料道路の話が出てきます。たとえば、

 a–b 間のある道路を前提する……と、この道路が含んでいるのは一定分量の労働、つまり価値だけである。それは、道路を建設させるのが資本家であろうと国家であろうと、同じである。それでは、資本家は、ここで、剰余労働を、したがって剰余価値をつくりだすことによって、利得を手にするだろうか? ……問題なのはまさに、資本家が道路を価値実現できるかということ、資本家が道路の価値を交換によって実現できるか、ということなのである。(大月書店『資本論草稿集』<2>、193ページ下段?194ページ上段、および194ページ上段?同ページ下段)

労働者を、6労働時間相当の賃金で、1日12時間働かせて道路を建設したとすれば、完成した道路にはすでに剰余労働が対象化されている。しかし、道路は普通の商品のように売るわけにはいかない。だとすれば、どうやったら資本家は剰余価値を実現できるか、というのです。

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『1857-58年草稿』 「固定資本と流動資本」を読む(7)

451ページ下段、第84段落から。

【第84段落】451ページ下段

「経済学に外面的に舞い込んできた、資本の様々な種類」? 「資本それ自体の本性から生じた運動の沈殿物」?
よく分からない。(^^;)

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ヘーゲル『小論理学』 概念論を読む

いきなり『小論理学』の概念論へ。第160節?第162節

【第160節】

 概念は「向自的に存在する」、つまり自分自身の足で立っているわけであり、したがって、自分で自分を生み出していく「実体的な力」であり、「自由なもの」である。だからまた、概念は「体系的な全体」だと言っている。

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『1857-58年草稿』 「固定資本と流動資本」を読む(6)

第60段落から。また話は、循環と回転速度の問題に。

【第60段落】425ページ下段?427ページ上段

ラムジの引用。「固定資本の使用は、価値が労働の量に依存するという原理をかなりの程度まで修正する」。これが古典派経済学を悩ませた最大の問題。

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『1857-58年草稿』 「固定資本と流動資本」を読む(5)

第42段落から第54段落までは、回転時間の相違に関する数式計算。マルクスは一生懸命やってるが、あまり実りがないので、とりあえず省略。

【第55段落】419ページ上段?419ページ下段のお終いまで

ここでは「競争の法則」として、『資本論』第3部で展開されることになる内容が展開されている。

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『1857-58年草稿』 「固定資本と流動資本」を読む(4)

さて、391ページ上段、第26段落から。いよいよ経済学者の批判が始まります。

【第26段落】391ページ上段?392ページ

まず、よく分からないのは、「流動資本との関連における剰余価値は、明らかに、利潤として現われるのであって、固定資本との関連における剰余価値としての利子とは区別される」(391ページ上段、左3行目?)という記述。文脈から見て、これがマルクスの積極的見解の展開だと思われるのだが、意味がよく分からない。

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『1857-58年草稿』 「固定資本と流動資本」を読む(3)

【第10段落】364ページ上段?367ページ上段までの長い段落

ここで出てくる問題は、まず第1に回転。回転が生産される剰余価値の量に与える影響について。

次が、「流通費用そのもの」「本来的な流通費用」について。

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『1857-58年草稿』 「固定資本と流動資本」を読む(2)

さて、続きです。

マルクスは、過程を進行する主体としての「流動資本」、流通しなければならない各局面に固定された「固定資本」という定義を使って、早速、経済学者たちの批判に向かう。

【8】361ページ上段から363ページ上段までの段落。

まず、復習。(^_^;)

 流動および固定という規定は、まず第1には、2つの規定のもとに――特殊的種類の2つの資本として、2つの特殊的種類における資本としてではなく、同じ資本の異なった形態上の諸規定として――措定された資本そのもの、すなわち1つには過程の統一として措定され、次には過程の特殊的局面として、統一としての自己からは区別されたものとしての資本そのものとして措定された資本そのもの以外のなにものでもないということ……。

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『1857-58年草稿』 「固定資本と流動資本」を読む(1)

 さて、本題に戻ろう。

 というのは、『資本論1857-58年草稿』の「固定資本と流動資本」の書き出し。(^_^;) そこまでの剰余価値と利潤にかんする学説史が終わって、ここで、マルクスは、資本の流通にかかわる問題の検討に戻っています(大月書店『資本論草稿集<2>』356ページ下段)。

 「固定資本と流動資本」という見出しは、新MEGA編集部のもので、ここでマルクスが取り上げているのは、決して、固定資本と流動資本の問題だけではなくて、流通費の問題や、回転および回転が利潤率に及ぼす影響など、『資本論』第2部で取り上げられているいろいろな問題がごたまぜで出てきます。

しかも困ったことに、「固定資本」「流動資本」という概念そのものが、マルクスの中で、まだ固まっていません。というか、書きながら、だんだんと「固定資本」「流動資本」の概念が固まってゆく、というところに、この部分の面白みがあるということです。

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『資本論』の本筋とはなんの関係もないのですが…

『資本論』第1部第7章「剰余価値率」の第3節、有名な「シーニアの最後の1時間」の終わり近くに、こんなくだりが登場します。

【新日本版】 ……もし諸君が、諸君の「工員たち」から11時間半ではなく13時間を手に入れることに成功し、そして諸君は当然にそうすると思われるのであるが、超過した1時間半を単なる剰余価値につけ足すならば……(上製版Ia、387ページ、新書第2分冊、386ページ)

この下線部分。実は、戦前の河上肇訳では、次のようになっています。(仮名遣い等は、現代通用のものに直してあります)

【河上訳】 ……なお諸君が、諸君の織工を11 1/2時間でなく無理に13時間労働せしめ、かつその余分の1 1/2時間を全部剰余労働に加えるとすれば、――諸君にはそれらが全く同じものにみえるはずだが――……(改造社、616ページ)

ご覧のように、訳文が全く異なるだけでなく、「そうする」とか「それら」で受けているものが全然違っています。一体、どっちが正しいのか? なぜ、こんなふうに違っているのか? ささいな挿入部分で、ここでのマルクスの議論の筋とはなんの関係もないのですが、気になってしまいました。

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マルクス自身の手によるかどうかはともかく、分かりやすい『資本論入門』

大谷禎之介訳『マルクス自身の手による資本論入門』(大月書店)

大谷禎之介氏の翻訳で、ヨハン・モスト著『資本と労働』(第2版)の新訳が出ました。同書を大谷氏は196年に岩波書店から翻訳・出版されていますが、今回はその再刊ではなく、新しい翻訳、編集による新訳となっています。

本書は、ヨハン・モストという人が執筆した、『資本論』第1部のダイジェスト本『資本と労働』(第1版、1874年刊)に、マルクスが手を入れた改訂第2版(1876年)の翻訳です。「マルクス自身の手による資本論入門」というのは、大谷禎之介氏がつけたタイトルで、マルクス自身は、改訂第2版の出版にあたって、自分の名前を一切出さないように求めていました。

しかし、読んでみると、確かになかなかよくできた「資本論入門」になっていると思いました。

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"自己を発現する労働力"って?

唐突ですが、新日本出版社の『資本論』を読んでいると、「自己を発現する労働力」という表現がところどころで出てきます。たとえば、第5章「労働過程と価値増殖過程」の冒頭。

【邦訳1】 労働力の使用は労働そのものである。労働力の買い手は、その売り手を労働させることにより、労働力を消費する。労働力の売り手は、労働することによって、"現実に"自己を発現する労働力、労働者となるが、彼はそれ以前には"潜勢的に"そうであったにすぎない。自分の労働を商品に表わすためには、彼はなによりもまず、その労働を使用価値に、なんらかの種類の欲求の充足に役立つ物に表わさなくてはならない。(新日本出版社『資本論』上製版、Ia、303ページ。新書版第2分冊、303ページ)

「発現」とは、「実際に現われ出ること。現わし出すこと」です(『新明解国語辞典』第4版)。つまり、労働力が「自己を発現する」というのは、植物の種が(一定の条件さえあれば)ほったらかしておいても、おのずと芽を出し花開いていくように、労働力も、おのずから、他の助けなしに、おのれの力だけで自分自身を表に現わして、労働となっていくかのようです。

しかし、マルクスは、労働力を、こんなふうにヘーゲルばりの「生きた主体」として、本当にとらえていたのでしょうか? この「自己を発現する労働力」というのは、ドイツ語では sich betätigende Arbeitskraft です。そこでまず、『資本論』第1巻のなかで、この表現が出てくる箇所を調べてみました。

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明治憲法「不磨の大典」は実は見掛けだけ

歴史科学協議会の『歴史評論』2009年11月号で、名古屋大学の増田知子氏が「日本近代史における憲法研究の展開」という論文を書かれている。

憲法史研究の新動向などを取り上げた短い論文だが、そのなかで増田氏は、明治憲法(大日本帝国憲法)について「政治権力の規制という点では空疎な憲法」であり、「『不磨の大典』は装飾にすぎなかった」と指摘されている。

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フランスでは女性の年齢別就業率はM字どころか凸だった!!

『経済』2009年11月号(新日本出版社)

新日本出版社が発行している『経済』の最新号(11月号、10月8日発売)に、おもしろい論文が載っています。それは、立命館大学の深澤敦氏「フランス家族政策の歴史的展開」です。

まず驚いたのがこのグラフ↓。フランスの女性年齢別就業率の変化を示したグラフです。

年齢別女性就業率の推移(『経済』11月号、深澤論文)

年齢別に女性の何%が働いているかという年齢別就業率は、多くの国では、20代で働き始めて高くなり、途中、結婚や出産でいったん低下し、子育てが終わるとまた働き始めるので再び高まる、というように変化し、グラフはM字型になります。ところが、フランスでは70年代いらい、M字型どころか逆に上に凸、山型になっているのです!!

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どうやら限界費用逓増は一般的には成立しないらしい

スラッファ『経済学における古典と近代』(有斐閣)

リカードウ全集の編者であるスラッファの本。かなり前に、新宿のジュンク堂書店で見つけて買ったものの、忙しくて手を出せずにいましたが、この連休に読み始めました。

でも、これが難しい…。マーシャルやピグーについての知識がないので、ほとんど歯が立ちません。(^^;)

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