今日、国際小包で、こんなもんが届きました。
Der Bund der Kommunisten – Dokumente und Materialien 『共産主義者同盟資料集』全3巻です。1970年に出版されたもので、服部文男先生の研究などですでによく知られた資料です。
で、届いたものを見ると、ラベルが貼ってあり、明らかに何処かの図書館か資料の廃棄本。それで、中を開けて見たら、こんな蔵印が押してありました。
今日、国際小包で、こんなもんが届きました。
Der Bund der Kommunisten – Dokumente und Materialien 『共産主義者同盟資料集』全3巻です。1970年に出版されたもので、服部文男先生の研究などですでによく知られた資料です。
で、届いたものを見ると、ラベルが貼ってあり、明らかに何処かの図書館か資料の廃棄本。それで、中を開けて見たら、こんな蔵印が押してありました。
木田元氏の「反哲学」あるいはハイデガー、ニーチェについて呟きました。木田元氏の著作からハイデガーやフッサール、ニーチェを読んだのは随分と昔なので、細かいことはすっかり忘れてしまいましたので、印象論めいた話になってますが、お許しあれ。
マルクスの年譜というと、大月書店から出版された『マルクス=エンゲルス略年譜』 ((1975年刊。1976年に、同書店「国民文庫」の1冊としても刊行された。))がよく知られているが、こちらは、戦前、改造社から発行された『カール・マルクス年譜』(広島定吉訳、1936年刊)。ソ連のマルクス・エンゲルス・レーニン研究所からアドラツキーの監修で出されたロシア語版(1935年)の翻訳。
的場昭弘氏(神奈川大学教授)の翻訳で、『共産党宣言』の新しい翻訳が出ています。
これまで様々な翻訳が出版されてきた『共産党宣言』ですが、なぜ的場氏は新訳を出版したのか? 同書は表紙に小さい文字で「初版ブルクハルト版(1848年)」と書かれており ((奥付でも書名は「新版 共産党宣言 初版ブルクハルト版(1848年)」となっている。))、そのことについて、的場氏は「凡例」で次のように説明しています。
翻訳のテキストは、『共産党宣言』(『宣言』)の初版とされるブルクハルト版全23頁のものを使用した。第5篇研究篇の歴史で述べるように、この初版にも数種類のバリアントがある。これまで邦訳されてきたものの多くは1933年のアドラツキー版旧メガ(Marx Engels Gesamtausgabe)所収のものからの翻訳である(最近の浜林正夫監修版、大月書店、2009年ではかつて初版といわれ、今では第2版といわれる30頁版が使用されている。……) 〔同書、11ページ、強調は引用者〕
つまり、「これまで邦訳されてきたものの多く」は30ページ本を底本としていたのにたいして、自分の新訳は23ページ組みの「ブルクハルト版」を底本にしている。そこに新訳の意味があるというのです。
しかし、いわゆる23ページ本にもとづく邦訳といえば、東北大学の服部文男氏が、1989年1月に新日本出版社から新日本文庫の1冊として出版したものがすでにあります ((服部氏が底本とした23ページ本が「ブルクハルト版」であることは、新日本文庫40ページに掲載された『共産党宣言』の表紙写真から確認できる。))。同氏の翻訳は、その後、1998年に同じ新日本出版社から「科学的社会主義の古典選書シリーズ」の1冊として刊行され、現在も入手可能です。
それにもかかわらず、この画期的な服部文男訳 ((服部文男氏の訳業は、「共産党宣言」各国語版の序文を、それぞれ発表された各国語から直接翻訳したという点でも、従来の翻訳史にはない画期的な意義をもつ。たとえば、1890年ドイツ語版には、エンゲルスが元のドイツ語版原稿を紛失したためロシア語からエンゲルス自身が翻訳しなおしたロシア語版序文が引用されている。従来は、この部分は、その後発見された原稿にしたがってドイツ語から翻訳されていたが、服部氏はロシア語版の序文を使って日本語への翻訳を行われ、たとえばドイツ語原稿では「プロレタリア革命」となっている部分がロシア語では「労働者革命」となっていたこと(そのことは訳注で指摘されている)など新しい事実が判明した。また、ポーランド語版序文では、従来の各種翻訳ではドイツ語にしたがって「ブルジョアジーの仕事をプロレタリアートにさせた」と訳されていた部分が、ポーランド語では文字どおり「火中の栗を拾わせる」となっているとして、その通り日本語に訳されている。))は、的場氏の新訳では一言も言及されていないのです。
不破さんが、昨年10月、11月に東京大学駒場キャンパスでおこなった連続セミナーの講演記録です。
平凡社新書の『マルクスは生きている』をベースにした講演で、1回目はマルクスの自然観と社会観、2回目は資本主義論と未来社会論ということになっています。しかし、目の前にいる人たちに直接語りかけているという点でも、その人たちが大学生だという点でも、また違った趣があります。(たとえば、1回目は「大学時代にマルクスが必読な理由」という角度から、マルクスの自然観、社会観が取り上げられています)
また、参加者からの質問にも答えていて、それが東大らしく(質問者が東大生かどうかは不明ですが)、「アインシュタインやボーアは唯物論者ではないのに、偉大な成果を上げているのは、どう説明したらよいのか」とか「人間の精神がDNAやニューロンによって左右されるのだったら、私の『主体性』はどこに行ってしまうのか」など、かなり突っ込んだ質問が出ていて、それにたいする不破さんのずばりと切り込む回答がまたおもしろいのです。
第163節?第164節。
まず「A 主観的概念」。第162節でいえば、形式論理学の概念。分類としては形式論理学の概念にあたるが、内容は、決して形式論理学の概念ではない。そこに注意。
a 概念そのもの
【第163節】
ここで、普遍・特殊・個別が出てくる。普遍が、「規定態」として現れ出たのが特殊。その特殊がもういっぺん反省されたのが「個別」。個別は、概念の否定的統一。否定的統一というのは、一度自分を否定して特殊へ行って、もういっぺん戻ってきたものという意味。
この否定の動きは、一方では現実(客観)の運動であり、他方では認識の働き(主観の動き)なのだが、ヘーゲルの場合、それが区別されていないことに注意。ヘーゲルの弁証法が観念論だという場合、それは、「理念」が主体に据えられているという意味とともに、このように、事物の客観的な発展と、主観的な人間の認識の発展とが区別されない、という意味がある。
いきなり『小論理学』の概念論へ。第160節?第162節
【第160節】
概念は「向自的に存在する」、つまり自分自身の足で立っているわけであり、したがって、自分で自分を生み出していく「実体的な力」であり、「自由なもの」である。だからまた、概念は「体系的な全体」だと言っている。
自転車がバンクしてしまったので駅前の自転車屋さんで修理してもらいました。待ち時間のあいだに、近くの書店で見つけた月刊『言語』(太修館書店)8月号。手話については、前から、一番身近にある「外国語」として興味があったので、さっそく買い込んで、近くの喫茶店でぱらぱら読んでみました。(^^;)
『前衛』誌上で、不破哲三氏の「講座 マルクス、エンゲルス革命論研究」の掲載が始まりました。昨年おこなわれた研究講座の「誌上再現」ということになっていますが、連載第1回ですでに、研究講座のときよりさらに詳しく突っ込んで書かれている問題が出てきます。
その1つに、「ライン新聞」を舞台にしたマルクスの活動があります。マルクスは、1842年4月から「ライン新聞」に論説を掲載し始め、同10月には主筆として編集に全責任を負うことになりました。これによって、「ライン新聞」は面目を一新されました。
同紙でマルクスがたたかう目標としたものの1つに、プロイセンの検閲制度があります。そのために、マルクスは戦術も注意深く考えたのです。論文では、そのことを示すマルクスの手紙が2つあると指摘されていたので、その手紙を読んでみました。
某氏からリクエストがあったので、ヘーゲル『小論理学』の続き。いきなり有論に入ります。
『小論理学』予備概念の続き。
「予備概念」の第20節から。ヘーゲルは、ここから数節で、「われわれが思惟にかんして持っている最も卑近な表象」を取り上げています。
次は、「予備概念」。ここは、始めて読む人にはちょっと難しいかも知れません。僕も初めて『小論理学』を読んだときは、さっぱり分からないので途中からあっさり全部すっ飛ばしてしまいました。
しかし、あらためて読んでみると、非常に当たり前のことが書かれていて、なるほどと納得してしまいました。(^_^;)
エンチクロペディーへの序論(続き)
弁証法について、唯一体系的に叙述したといわれるヘーゲル。マルクスが、ヘーゲルから弁証法の真髄として何を受け継いだかは、なおこれからの研究課題だとされています。それだけに、ヘーゲル自身が弁証法について何を明らかにしたか、その合理的核心とは何であるのかを研究することが必要。
ということで、ヘーゲルの『小論理学』を少しずつ読んでみることにします。(ページ数は、松村一人訳『小論理学』岩波文庫)
目次だけで7ページもあります。(^_^;) ネオリベラリズムに侵された現代社会をどう分析したらよいか、ラカン派精神分析の立場から、「再帰性」と「創造性」をキーコンセプトにして、切ってみせた本です。フランスなどでの現代思想の展開とともに、小泉「構造改革」や安倍首相の「美しい国」など、日本のいまの政治状況なども念頭に議論が展開されていて、なかなか面白いというのが一番の感想。
同時に、「プレカリテ」「マルチチュード」「マクドナルド化」「動物化」「象徴の貧困」など、現代思想の流行概念が取り上げられていて、ある意味非常に便利な“現代思想入門”になっています。
昨年の話になりますが、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』を使った「科学的社会主義研究講座」が連続5回で開かれました。研究講座の内容そのものは、いずれ講義をした御本人が公表されることでしょうから、ここでは、その中で僕がなるほどこれは大事だと思ったことに限って、メモします。
エンゲルスの『自然弁証法』を読み直している関係で、ヘーゲルの『自然哲学』(長谷川宏訳)を読んでいます。
以下ノート。