生産手段の共有の基礎の上に再建される個人的所有は生産手段に対する所有か?

この問題について、大谷禎之介氏の『マルクスのアソシエーション論』(桜井書店、2011年)を読んでみました。大谷氏の「アソシエーション論」については共感する部分も多いのですが、その全体を論じる能力は僕にはありません。ここでは、問題を、第2の否定の結果として、生産手段の共同占有の基礎の上に再建される労働者の個人的所有が、生産手段にたいする所有のことなのか、消費手段(生活手段)にたいする所有のことなのか、という点に絞って、考えてみたいと思います。

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生産手段の共有にもとづく個人的所有の再建とは

マルクスが考えた「生産手段の共有にもとづく個人的所有の再建」とは何かについて呟きました。

本日のツイートは、このほかにも、余ったもやしは茹でて冷凍しておけばよいという、大変ためになることを教えていただきました。(^_^;)

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大瀧雅之『平成不況の本質』

大瀧雅之『平成不況の本質』(岩波新書)。読み終わったけれど、感想を書いてなかったので、あらためて。

結論から言えば、本書はマルクス経済学とはまったく異なる立場からのものだけれども、「公正な所得配分」を実現することこそが、実は「経済効率の上昇の礎」となるという立場から、小泉首相以来の「構造改革」を真正面から批判したもの。

だから、「構造改革」路線、「格差と貧困」の拡大に反対だと思っている人はもちろん、「そうはいっても、企業が儲からなかったら、どうしようもないのだから、規制緩和・構造改革は仕方ない」と思っている人にも、ぜひ一度読んでもらいたい。

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「資本論」についてつぶやきました

『資本論』について、いくつかつのテーマについてぶやきました。翻訳にかんすることがいくつかと、「いわゆる本源的蓄積」はなぜ「いわゆる」本源的蓄積なのかという問題。(^_^;)

夜中に、BS歴史館「戦争指揮官リンカーン」(2011年12月22日放映)なんてものを録画で見てしまったもんだから、ちょっとあっちこっちに発想が展開してしまいました。

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「同一労働同一賃金」と「同一価値労働同一賃金」についてつぶやく

この呟き↓は全面的に間違いでした。「同一労働同一賃金」だと、仕事が違えば賃金は違ってもいいということになり、社会的に「女性の仕事」とみなされる職業と、「男性の仕事」とみなされる職業との間で賃金格差を認めることになるので、仕事は違っていても「同一価値」の仕事なら同じ賃金を払うべきだというものとして提起されたのが「同一価値労働同一賃金」でした。

詳しくは、『前衛』12月号の筒井晴彦「非正規労働についての国際基準はなにか」を参照してください。同論文は、その他の問題でも国際的到達点がわかりやすく紹介されています。

以上、12月6日追記。

今日は、「同一労働同一賃金」と「同一価値労働同一賃金」について、いっぱいつぶやいてしまいました。何かのお役に立ったのであれば良いのですが。

ということで、関連部分のみ、貼り付けておきます。

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機械のための仕事は増えても、人々のための仕事はない – ニューヨークタイムズ紙

Twitterで、@NakaYoshikaさんがつぶやいていた、ニューヨークタイムズの記事です。

タイトルは、オイラふうに訳せば、「機械のための仕事は増えても、人々のための仕事はない」というあたりでしょうか。

マサチューセッツ工科大学の2人の研究者が最近『機械との競争』という電子書籍を出版したのですが、もともと彼らは、技術革新がどんな豊かな実りをもたらしたかを論じた『デジタル・フロンティア』という本を出すつもりだったのに、いろいろ調べているうちに、どうもそうではないというところにいたった、ということのようです。ちょっとおもしろそうな話ですね。

Economists See More Jobs for Machines, Not People – NYTimes.com

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エンゲルスの「資本主義の根本矛盾」の定式化をめぐって

先日の古典教室では、エンゲルスが『空想から科学へ』のなかで定式化した「資本主義の根本矛盾」について、講師からかなり立ち入った問題点の指摘がありました。

講師が「私が疑問に思うのは」として指摘したのは、以下の4つの点。

  1. 社会的生産と私的取得との矛盾というエンゲルスの定式には、肝心の剰余価値の搾取が出てこない。
  2. プロレタリアートとブルジョアジーの対立が、根本矛盾の「現象形態」とされているが、しかし、これは資本主義の階級対立そのものであって、何か別の矛盾の「現象形態」だったりするのか?
  3. 生産の無政府性は、商品生産の特徴であり、資本主義以前から商品生産社会では起きていたこと。それが資本主義になるとより大規模に起こる、というだけでは、資本主義の矛盾を説明したことにならない。
  4. このあと、資本主義の枠内ではあれ生産の社会的性格の商品をせまられるとして、株式会社、トラスト、国有化があげられているが、エンゲルスは、これらをもっぱら生産の無政府性を解決するための資本の発展と見ている。それで20世紀から21世紀の資本主義をとらえることができるか?

私が、講義を聞いていて、とくに「なるほど」と思ったのは、この第4の点です。

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資本論第2版を手に入れました(^_^)v

『資本論』ドイツ語第2版を手に入れました。といっても、現物ではありません。Googleブックスでスキャンされたものですが…。でも、PDFで全文ダウンロード可能です。(^_^)v

Das kapital: Kritik der politischen … – Karl Marx – Google ブックス

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4つめの「調査委員会」

以前、『資本論』には3つの工場調査委員会が出てくると書きましたが、あらためてよく読んでみると、そのほかにもう1つ、調査委員会が登場します。

それは、第24章「いわゆる本源的蓄積」第6節「産業資本家の創生記」の原注(246)のなかに、フランシス・ホーナー ((工場監督官レナード・ホーナーの兄で、ホイッグ党下院議員。))の言葉として出てきます。

もう1つ、もっと恐ろしい事件が、議会の調査委員会の一員としての自分の耳に入った。 ((新日本出版社『資本論』上製版Ib、1293ページ、新書版第4分冊、1299ページ、ヴェルケ版786〜787ページ))

ここで言われている「議会の調査委員会」とはいったい何なのか? 手がかりは、1815年ごろの存在した委員会だということと、王立の委員会ではなくて「議会の」委員会だということです。

それで、いろいろ調べてみると、これは、1816年に下院に設けられた「工場児童にかんする調査委員会」だということが分かりました。児童保護法案の審議のためにつくられた委員会で、同法案を提案したロバート・ピール卿の名前をとって、「ピール委員会」と通称されているようです。

この原注246に書かれているように、ロバート・ピール卿は、1815年6月に「児童保護法案」を提案。その審議のために下院内に委員会が設けられました(だから「議会の」委員会)。そして、翌1816年4月から6月にかけて各階層47人の証人喚問 ((証人となったのは、綿工場主、綿業以外の工場主、商人、医師、治安判事など。))を実施しました。この法案の制定を働きかけたのがロバート・オウエンで、オウエン自身も同調査委員会の証人としてピール卿の質問に答えています。

結局、同法案は、1819年に成立しますが、その中身は、オウエンの考えていたものとはかけ離れたものになってしまいました。成立した法律は以下のようなものでした。

  • 9歳未満の児童について工場労働を禁止。(オウエンは12歳未満の禁止を要求)
  • 16歳未満の全員について食事時間を除いて1日12時間以上働かせることを禁止。(オウエンは10時間半への制限を主張)
  • 適用されるのは綿工場の一部のみ。(オウエンは、20人以上が雇用されている綿・羊毛・亜麻・その他の工場への適用を主張)

なお、原注246では、マルクスは、F・ホーナーの発言を1815年のものとして紹介していますが、内容から考えて、これはマルクスの思い違いでしょう。法案の提出は1815年ですが、同委員会の設置された1816年から同法が成立する1819年までの発言だと思われます。ちなみに、注246の、このF・ホーナーの発言のくだりは、ジョン・フィールデン『工場制度の呪詛』(1836年刊)の11〜12ページ ((Marx Engels Collected Works、vol.26の編集注672、新MEGAアパラートによる。))からとられていますが、引用するさいに、マルクスは法案が提出された1815年のものと思い込んでいたのかも知れません ((したがってまた、注246で、ホーナーの「2年前」という言葉にマルクスが「1813年」と書き込んでいるのも、本当に1813年の事件だったのかどうかは調べてみないと断定できないでしょう。))。

【参考文献】

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『1861-63年草稿』第3分冊後半をさらにざっくり読む

591ページ「四 相対的剰余価値」

591ページ下段。賃金と剰余価値。「先行するもの、規定するものは、賃金の運動である。その騰落が利潤(剰余価値)の側に反対の運動を引き起こす」

592ページ上段。「賃金の騰落は、剰余価値(利潤)率を規定しはするが、しかし商品の価値または価格(商品の価値の貨幣表現としての)には影響を及ぼさない」。「賃金の上昇が商品価格を高くするというのは、間違った先入観である」。

592ページ下段。剰余価値率は賃金の相対的な高さによって決まる。賃金の相対的な高さは、必要生活手段の価格によって決まる。必要生活手段の価格は労働の生産性によって決まる(これはリカードウの説? マルクスの説?)。生産性は土地の豊度が高いほど大きい。「改良」はすべて、生活手段の価格を引き下げる(ここらあたりはリカードウ)。労賃=労働の価値は、労働が労働者階級の平均的消費に入る必需品を生産する限りで、労働の生産力の発展に反比例して騰落する。
 利潤は、労賃が上がらなければ下がりえないし、労賃が下がらなければ上がりえない。
 労賃の価値は、労働者が受け取る生活手段の量によって計るべきではなく、この生活手段に費やされる労働量によって計るべきである。実際には、労働日のうち労働者自身が自分の者として取得する割合で。

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『1861-63年草稿』第3分冊後半を引き続きざっくり読む

続きです。

こういう学説史の部分を読んでいると、ついついマルクスが引用しているリカードウの部分を、リカードウの著作にもどって読み直して、リカードウの論理をどういうふうにマルクスが批判したのかを追体験? し直そうとしてしまいますが、そうやってリカードウにさかのぼってみても、結局、マルクスがリカードウの学説を検討することを通じて、みずからの経済学の認識をどう発展させたのか、という肝心の問題はちっとも深まらない。

だから、そういう「さかのぼり」はこの際きっぱり諦めて、関心を、もっぱら、マルクスがリカードウ学説との格闘を通じて、自分の経済理論をどう発展させたのか、自分の理論としてどんな新境地を切り開いていったのか、というところに向けて、読んでいった方がいいと思う。ほんま。(^_^;)

ということで、大月書店『資本論草稿集』6、561ページ「一 労働量と労働の価値」から。

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『1861-63年草稿』第3分冊後半をざっくり読む

『資本論草稿集』1861-63年草稿の第3分冊(「剰余価値にかんする諸学説」)の後半部分(大月書店『資本論草稿集』6、530ページ以下)をざっくりと読んでみます。

530ページに「剰余価値にかんするリカードウの理論」の見出し。これはマルクスのもの。とはいえ、ここで取り上げられているのは『経済学と課税の諸原理』の後半部分。

章の書かれていない530ページの冒頭部分の引用は、第25章「植民地貿易について」から。

そのあとは、

第26章「総収入と純収入について」(531ページ)
第12章「地租」(535ページ)
第13章「金にたいする課税」(536ページ)
第15章「利潤にたいする課税」(543ページ下段)
第17章「原生産物以外の諸商品にたいする課税」(549ページ上段)

など。

で、561ページ下段(草稿650ページ)で、「われわれは、こんどはリカードウの剰余価値論の説明に移ろう」と書かれている。このあとは、第1章「価値について」からの引用がおこなわれているし、「一 労働量と労働の価値」(561ページ)から「五 利潤論」(604ページ)まで見出しを立てて書いている。あらためてリカードウの価値論・剰余価値論の批判を始めたということだろう。

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マルクスは世界の「片隅」で愛をさけぶ…?!

不破哲三『「科学の目」で見る日本と世界』(新日本出版社、2011年)

不破哲三『「科学の目」で見る日本と世界』

不破さんが新刊『「科学の目」で見る日本と世界』(新日本出版社)のなかで、マルクスがヨーロッパ資本主義を、それが大きな発展を遂げたあとでも、世界全体から見れば「小さな隅」にすぎないと指摘していたことを紹介されています ((不破哲三『「科学の目」で見る日本と世界』新日本出版社、2011年、98ページ。もとは2010年10月に日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会の記念集会でおこなった講演。))。

この出所は、マルクスの1858年10月8日付のエンゲルス宛の手紙です。ところが、『全集』(第29巻)の翻訳と、『資本論書簡』(岡崎次郎訳、大月書店)の翻訳とでは、かなり文章が違っています。

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